アジア・マップ Vol.02 | ブルネイ

《総説》
ブルネイという国

金子芳樹(獨協大学外国語学部・教授)

小さくも資源に恵まれた絶対君主制国家
 ブルネイは1984年の独立からまだ40年ほどしか経っていない新しい国であり、人口が東南アジア地域で最小の約45万人(品川区と同程度)という小国である。さらに面積が5,765平方キロメートル(愛知県より一回り大きい)と、同地域ではシンガポールに次いで小さい。一方、ボルネオ島の北部に位置し、北西側が南シナ海に開け、陸部がマレーシアのサラワク州に囲まれた国土からは、石油・天然ガスが豊富に産出され、それらがもたらす潤沢な収入によって1人当たりGDPは3万米ドルを越える。その額は東南アジアではシンガポールに次ぐ第2位で、第3位のマレーシアを大きく引き離している。

 さらに特筆すべきは、世襲制のスルタンを主権者とし、いまやアジアで他に類を見ない絶対君主制を一貫して維持している点である。専制的な政治体制とはいえ、世界から孤立して個人独裁を続ける北朝鮮とは異なり、国際社会に開かれ、ASEANをはじめ数多くの国際的枠組に所属して着実に役割を果たしてきた。また国内においては、民主化に向かう周辺国の潮流を尻目に、「慕われる王さま」像を築き上げながら安定した政治運営を続けてきた。このように、小さいながらも東南アジアで異彩を放つ独特な国なのである。

国家の成り立ち
 ブルネイの正式名称は、ブルネイ・ダルサラーム(Brunei Darussalam)で、ダルサラームとはアラビア語で「平安の地」という意味を持つ。国名にアラビア語を含むことや独立時期が極端に遅く、しかも絶対君主制として建国したことなど、周辺国と比べてこの国が希有に思える点を理解するには、少し歴史を遡ってみる必要がある。

 ブルネイは、アラブとの商業貿易が進む中で浸透したイスラームの影響を強く受け、マレー人首長(スルタン)が支配する王国として、16世紀半ばには中継貿易やマレー・イスラーム文化の中心地の一つとして栄えた。しかし、19世紀になるとイギリスによる領土や商業利権の浸食が進み、1906年以降、マラヤ(現在のマレーシア半島部)のスルタン諸侯国と同様に、スルタンの地位と権限を残した間接統治の下に英領植民地となった。

 第二次世界大戦後に復帰したイギリスは、マラヤとボルネオ島の植民地(現在のマレーシアのサラワク州とサバ州)を統合し、経済権益を維持しつつ脱植民地化を進めようとした。一方、ブルネイ内部では、現スルタンの父であるスルタン・オマール・アリ・サイフディンが、1957年に独立したマラヤ連邦とブルネイを含めたボルネオ植民地との合併による「マレーシア連邦」の下での独立を望むようになった。しかし、この動きに対抗し、王権を否定して共和国としての独立を目指す左派政党のブルネイ人民党(PRB)が勢力を強め、ついに1962年に武装蜂起に打って出た。事態はまもなく英軍によって鎮圧されたが、同事件は後の独立過程に大きな影響を与えた。

 1963年のマレーシア連邦結成に際してブルネイは、加盟期限直前に不参加を決めた。ブルネイのスルタンは、イギリスが石油・天然ガスの利権と引き替えに安全保障の傘とスルタンの地位を保障する体制の下、引き続き自らが一国の長としての立場を維持する道を選んだのである。その後イギリスとの関係は20年にわたり現状維持が続いた。それでも1970年代後半には進展がみられ、石油・ガス利権を両者で分け合い、独立後もイギリスが安全保障を支援し、また独立後のブルネイに実質的な民主制を求めないことを条件に1984年の独立が合意された。

国王(スルタン)専制の構造 — 中東産油国モデル
 ブルネイの政治体制は、世襲制のスルタン兼国王(以下、国王と略す)に極度に権限が集中する専制的な君主制である。1967年にスルタンに就任したハサナル・ボルキアが、独立から現在に至るまで国王の座にある。彼が専制君主であることは、首相をはじめ財務相、内務相、国防相など主要閣僚をほぼ一貫して兼務し、かつ石油・天然ガス収入を年ごとに政府と同程度受け取ってきたことからも明白であろう。

 議会に相当する立法評議会はあるが、独立の1ヶ月後に憲法条項の「立法評議会」と「立法手続」が停止され、2004年まで20年間、立法評議会は一度も開催されず、政府の決定はすべて国王の勅令として布告されてきた。また、1962年の武装蜂起の際に宣言された「非常事態」が独立を挟んで現在まで継続されており、市民の政治活動は言論の自由も含めて厳しく規制されてきた。政党の結成は合法だが、体制批判に対しては裁判なしで拘束できる国内治安法(ISA)が発動されるため活動は自ずと制限される。

 このように書くと、強面な国王が独裁者として強権を振る国が想像されるかもしれないが、実際には国王は国民の間で絶大な人気を誇る。国王に就任して真っ先にしたことは、全国各地をくまなく回り、国民の声に耳を傾けることだったという。現在でも金曜日の礼拝の折には各地のモスクを訪れ、ラフな格好で町や村の集会所や村長の自宅などに出向いて気軽に直訴を受ける。公共施設の建設・修繕などの陳情、行政サービスへの不満などを聞く機会を設けているのである。ある村の村長は「役所に頼むと長時間かかることでも、国王への直訴が通ると翌週には実現している」と述べていた。このように政府の行政サービスとは別に国王から直接に「福祉」が提供され、その見返りに国民から国王への感謝や敬愛、さらには忠誠が示されるといった関係が、この国の君主制の支持基盤を成しているともいえる。

 こうした政治のあり方は、石油・天然ガス資源の輸出収入と海外資産の運用益が支える独特の経済・産業・財政構造と結び付いて現在の国家体制を築いてきた。ブルネイ経済は、先進国からの資本・技術と国内の安価な労働力に頼る輸入代替・輸出指向工業化ではなく、もっぱら外資が開発するエネルギー資源の輸出に依存してきた。独立後ほぼ一貫して、石油・天然ガス部門がGDPの約6割、輸出の約9割、政府収入の大半を占め、また政府や王室の海外資産は数百億米ドルを越えるともいわれる。

 この経済構造はASEAN型とは異なり、むしろ中東産油国のレンティア資本主義に類似している。つまり、①石油・天然ガス収入への高い依存度、②レント収入(石油・天然ガス企業が支払うロイヤリティや税金)を元手とする豊富な社会インフラや高福祉、③高い公務員比率、④低調な製造業と農業部門、⑤外国人労働者・技術者への依存、⑥王室と政府の巨額な海外資産とその運用、⑦国家会計と王室会計の区別の曖昧さ、といった特徴がある。国民に対して徴税や経済開発のための人的・物的動員を行う必要がない「与えるだけの政府」であるため、統治者への強い要求や批判が起こり難いともいえよう。

多民族な社会における国家理念MIB
 ブルネイの民族構成は、2021年の人口センサスによると、マレー人67.4%、華人9.6%、その他23.0%であり、その他にはインド系、マレー系少数民族、外国人が含まれる。また、人口の75.7%がブルネイ国籍を有し、5.9%が永住権を持ち、18.4%が一時滞在者である。一時滞在者の多くはインドネシアやフィリピンなどからの出稼ぎ労働者が占める。かなり典型的な多民族国家であり、多様な住民からなる社会をまとめ、積極的に国民意識を醸成することが重要なテーマとなり、そのための国家理念が生み出されてきた。

 ブルネイでは小学校から大学まで、各レベルでMIBを学ぶ必修科目が設けられている。MIBとは、「マレー(Melayu)、イスラーム(Islam)、王権(Beraja)」の頭文字をとったもので、換言すれば、多数派民族であるマレー人の伝統と文化を国家の核とし、マレー人の宗教であるイスラームに規範を求め、その上でマレー人ムスリム社会の守護者たるスルタンに国家の長である国王として絶対的な権力を与えることを正当化する国家イデオロギー(理念)といえる。 多様な民族の中でも、先住民かつ多数派民族であるマレー人を国家の中心に据えることが強調されており、マレー人優先主義を国家理念に組み込む隣国マレーシアに似ている。実際に現地の社会構成や民族間の関係をみるとマレーシア(特にマレー半島の東海岸)との類似点を数多く見いだせる。国語としてマレー語を設定していながら英語も広く使われ、中国語を話せる華人が多い点や、イスラームを国教に定めている点も同じである。

 ただし、イスラームに関してはマレーシア以上に「上から」のイスラーム化に熱心で、政府はイスラーム的価値や制度の導入・強化に積極的に取り組んできた。2014年には他の東南アジア諸国に先がけ、石打ちや鞭打ちなどの身体罰を含むシャリーア刑法の導入に踏み切り、また禁酒についても厳格である。とはいえ、いわゆる「イスラム原理主義」に基づく国作りは目指さず、あくまで世俗主義を貫きながらイスラームの純度を高め、かつ近代化に対応したイスラーム国家を目指している。

政治改革のかすかな兆しと急がれる経済改革
 この国の絶対君主制は、開放的で欧米的な対外政策もあって国際的な批判を強く浴びることもなく、国内政治も概して混乱なく安定的に推移してきた。とはいえ、途上国の民主化の波は次第にブルネイにも打ち寄せ、主に内発的ながら徐々に改革の兆しが表れた。2004年に国王は、20年間停止されてきた立法評議会を再開し、独立後初めて職指定と国王任命の議員21名を召集した。会期は3日のみだったが、議員定数を民選議員15人を含む45人に増員する憲法改正案などが可決された。その後、立法評議会は年1回、約1週間の会期で開かれ、次年度予算の審議と各種問題への質疑応答が行われている。ただし、法案の審議・採決は依然として行われず、肝心の立法機能は果たしていない。また、民選議員枠を設定したものの実際の選挙は長らく実施されず、2011年になってわずか4議席のみが、しかも候補者選定に政府が関与する制限付き選挙の形で選出されたに留まる。

 一方、この国の経済を支えてきた石油・天然ガス資源の枯渇が懸念され、同資源へ過度に依存する経済構造からの脱却を図るために産業構造の多角化を進める経済改革が急がれている。2007年には、産業の多角化政策を包括的に推進し、2035年までに先進国入りすることを目指す長期的開発ビジョン「ワワサン・ブルネイ2035」が発表された。しかし、狭い国内消費市場、国内金融市場の未整備、高い賃金・生活水準に加え、就労人口の7割が公務員職を得る状況下で国民(特にマレー人)のビジネスマインドが高まらず、産業多角化の進展は極めて鈍かった。

 それでも、2014年に原油価格が急落して不況に陥り、失業率が10%に近づき、特に若者の失業率が25%前後に達すると政府と国民の危機意識も高まり、政府はこれまでになく現実的な施策を矢継ぎ早に打ち出すようになった。その結果、限定的ながら新たな産業の芽もみられるようになり、石油・天然ガス部門の「川下」部門である石油化学分野をはじめ、自給用農産物、医薬品、ハラルフード、ICT、観光などの産業分野で外資の流入が進んだ。

 特に2010年半ば以降、大規模事業を中心に中国からの投資が目立つようになった。ブルネイ最大の港を有するムアラ地区での港湾整備、隣接する島への架橋建設、同島での石油化学プラントの建設などに中国から巨額の資金が投じられ、まさに救世主となった。また、政府の金融自由化を受けての中国銀行の進出、ムスリムが多い広西チワン族自治区との相互投資なども進められている。こうしてブルネイも、他のASEAN諸国と同様に、外資による産業多角化に真剣に取り組むようになり、その中で、同国がその沿線国にあたる「一帯一路」構想を掲げる中国への依存を強める経済開発の新たな方向性が明確になりつつある。

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書誌情報
金子芳樹,《総説》「ブルネイという国」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』2, BN.1.01(2024年00月00日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/burunei/country/