アジア・マップ Vol.02 | カンボジア

《総説》カンボジアという国
アンコール遺跡観光で触れるカンボジア文学

岡田知子(東京外国語大学 教授)

 Kingdom of Wonder –feel the warmth―

 カンボジア政府が外国人観光客に向けてアピールする英語によるキャッチコピーである。日本の旅行会社などのツアー紹介で、「神秘の」「悠久の」「壮麗な」といった言葉で形容されるアンコール遺跡は、昔から世界中の人びとを魅了してきた。日本人作家も例外ではなく、1964年の海外旅行自由化により、いち早くアンコールワットを訪れたのは三島由紀夫や向田邦子であった。そのときに感じたWonder、カンボジア語で「アチャリヤ」な感情はそれぞれ戯曲「ライ王のテラス」(1969年)、エッセイ「鉛筆」(1981年)として昇華されている。あるいは、村上春樹は、『スプートニクの恋人』(1999)で恋の激しさを「アンコールワットを無慈悲に崩し」と表現している。小川哲や桐野夏生も『ゲームの王国』(2017)、『インドラネット』(2021)を通して、カンボジアへの熱量を伝えている。

 「アンコール遺跡はカンボジア人の魂」の言葉通り、アンコール遺跡はカンボジアの人びとの誇りでありカンボジアの象徴である。1953年の独立以降、カンボジアは東西冷戦など世界情勢に翻弄され、何度も国名を変え、その度に国旗や国歌も変更されたが、かの悪名高いポル・ポト政権の時代ですら、そのデザインや歌詞からアンコール遺跡が欠けることはなかった。

 カンボジアの人びともアンコール遺跡から感じ取れる「アチャリヤ」を言葉にして謳い、伝え、また書き残してきた。詩人ソトン・プライチア・エンは、1909年に国王がアンコールを行幸した際に随行して、『アンコールワット訪問記』を韻文で綴った。現在も国民文学として名高い近代小説『萎れた花』(1947年)では、かなわぬ恋に身をやつしていくヒロインが、アンコール遺跡を家族とともに訪れ、芳醇な花の香りや心地よく響く蝉しぐれに束の間の安らぎを見出す。

 もちろん、カンボジアの文学はこれらだけではない。アンコール遺跡群やそれが位置する古都シェムリアップを観光で訪れただけでも、さまざまなカンボジアの文学作品に出合える。

 アンコール遺跡群の行く先々で目にするのは、カンボジア版ラーマーヤナである『リアムケー』からの一場面を表現したものだ。リアム王子は、アユティヤー国の王位継承問題から、妻セダー妃と弟レアク王子を従えて森での隠遁生活をすることになる。そこに魔王リアプがセダー妃を見かけて気に入り、住処であるランカー島に連れ去ってしまう。レアク王子は白猿ハヌマーンの軍勢とともに魔物たちを倒してセダー妃を救い出し、故国に凱旋して王位に就く。アンコールワットの第一回廊西面北側にはランカー島でのリアム王子軍と魔物軍による活劇が彫刻による絵巻物のように続く。「東洋のモナリザ」と称される女神像のあるバンテアイ・スレイ遺跡には、猿の軍勢たちが戯れる様子を描いた彫刻が見られる。

 遺跡を離れてシェムリアップ市内に行くと、ユネスコ無形文化遺産にも登録されている大型影絵芝居スバエク・トムのティー・チエン一座の劇場がある。縦横1m~1.5m四方の一枚の牛皮に、背景図も一緒に彫りこんだ150体あまりの人形を使って、リアム王子の弟レアクと魔王の息子であるアンタチットの合戦を七夜かけて演じるように構成されている。

 同じく市内には、一般の人びとが日常生活の一部として出入りする仏教寺院が点在している。釈迦の生涯を描いた絵画と並んで、布施太子物語の一場面を描いた絵画が本堂内の壁に並んでいる。お布施に喜びを見出すように生まれついた布施太子は、乞われるままに国の象徴である白象を与えたことから、王都を追放され妻子とともに森で隠遁生活を送る。そこに欲深いバラモン僧が子どもたちを所望し、太子は応じてしまう。次に人間に姿を変えたインドラ神が妻を所望した時も、応じてしまう。だが、インドラ神は太子を祝福し、妻を返し、子どもたちは祖父である国王の財力によってバラモン僧から解放され、布施太子は帰国して王位に就く。絵画は、人びとがお布施の一貫として絵師を雇い、自分の好きな場面を描かせ寺院に寄付したもので、絵画の下方部には寄付者の名前や寄付額が明記されていることが多い。布施太子物語は、釈迦の前生の生涯の物語で、本生経、前生譚、ジャータカとして知られている物語集全547話の中の最終話である。ジャータカは、輪廻、因果応報といった仏教的思想を反映している。

 カンボジアの仏教寺院には日本のおみくじのようなものはないが、参詣者は、貝多羅葉(ばいたらよう)によって、家族の問題、将来のこと、恋愛のことなどについて、僧侶あるいは、寺院の総合マネジメントを担うアチャーといわれる白装束の高齢男性に、そのよしあしを占ってもらうことができる。貝多羅葉とは、紙の代わりに椰子の葉を薄く長方形に加工したもので、そこに鉄筆でさまざまな経典や古典物語が刻まれている。通常、それに穴をあけて数十枚が糸で綴じてあり、1冊の本のようになっている。占いに使う貝多羅葉は、その一枚一枚にリアムケーやジャータカからの一場面が書かれている。占いを希望する人は、その貝多羅葉を頭の上に載せ、ペン状の棒をどこかのページとページの間に差し込む。そのページに書かれている物語の一節で、とても良い、良い、良くない、などと占うのだ。例えば、「チンナボン王子物語」では、父王の側室たちから命を狙われたチンナボン王子が冒険の旅に出て、道中、魔王、蛇王、妖精たちに助けられる。途中、機械仕掛けの白鳥に乗るなど奇想天外な展開が繰り広げられる。チンナボン王子はいかなる困難に出会っても必ず超自然的な力に助けられ、事態を打開することができる。どのページを引き当てても、「今のあなたの状況は必ず良い方向へ向かう」と占ってもらえそうだ。

 リアムケーやジャータカなどの古典物語はすべて韻文で書かれている。伝統的な詩形には、アンコール時代から伝わるという4詩形、その後に発達したといわれる、一句が七音節からなる七言歌、同じく八言歌、九言歌などがある。それらのバリエーションで押韻箇所の複雑さから「獅子が尾で遊ぶ型」「波が打ち寄せる型」「三層の天蓋型」「龍王が変身する型」などユニークな名称をもつ型もある。吟唱法も詩形によってそれぞれ複数ある。国民的詩人として名高いのがフランス統治期に活躍したクロム・ゴイである。彼は伝統楽器サーディアウを奏でながら、農村の人びとに日常生活を賢く幸せに暮らすための助言を詩にして謳い聞かせた。現在でも中学や高校のクラスメートの誕生会や送迎会では、自作の詩はプレゼントや記念品のひとつであり、詩吟クラブは大学で人気の部活でもある。それほど詩は、カンボジアの人びとの中に浸透しているのである。

 市内にいくつかある大型書店に行けば、古典文学以外の文学作品についても知ることができる。日本の高校2年生、3年生に相当する11年生、12年生向けのカンボジア文学の国定教科書には、リアムケーや布施太子物語の原典の一部が掲載されているのはもちろんのこと、最もカンボジアらしい特徴を兼ね備えた作品として『トム・ティアウ物語』(1915年)がとりあげられている。これはサオムという僧侶によって書かれた七言歌による長編小説である。美声による読経が有名な青年僧トムと美しい村娘ティアウの悲恋物語である。結婚相手は親の意向に従うべきであることを示唆した、「お菓子は焼き型より大きかったことはない」という表現は、『萎れた花』など、後の時代の小説にもよく引用される。翻って、最近、若者の間で人気のある小説が何段もの陳列棚と何台もの書棚を占めている。有名俳優を起用し実写化した映画のポスターのような表紙、アニメ風に描かれた男女のキャラクターで華やかな表紙、あるいは抽象的なデザインで飾られた表紙など、思わず衝動買いしてしまいそうなものばかりである。歴史・時代小説や伝承・神話やSF、ホラー、ファンタジーも売れ筋の分野だ。学校を舞台にした学園ものはもちろんのこと、ボーイズラブ(BL)だけではなく、ガールズラブ(GL)も最近、トレンドとなっている。カンボジア政府が国語辞書編纂の祖であるチュオン・ナート高僧の誕生日である3月11日を読書の日として制定して国を挙げて読書運動を推進し、ブックフェアを開催していることも、読者人口を増やしている要因かもしれない。

 観光の終着地点はシェムリアップ国際空港だろうか。空港の前に、ニアク・ポアン遺跡でも見かける、空駆ける馬にしがみつこうとする人々の彫像がある。これもジャータカ第196話「雲馬前生物語」からの物語の1シーンで、釈迦の前生である雲馬王が神通力を使って250人の商人を女夜叉の島から救い出すという物語である。

 アンコール遺跡観光はカンボジア文学に触れる旅でもある。

写真1

写真1(提供:福富友子)大型影絵芝居スバエク・トム、リアム王子の弟レアクと魔王の息子であるアンタチットの戦い

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写真2(提供:福富友子)大型影絵芝居スバエク・トムの上演風景。屋外にスクリーンを設置し、椰子殻を燃やして光源にする。遣い手たちはスクリーンの内側だけでなく、観客側にも出てきて演じる。

写真3

写真3(提供:福富友子)占いに使う貝多羅葉。ジャータカのひとつである「ティキアブコマー物語」からの1場面で、「とても良い」と書かれている。

写真4

写真4(提供:ラオ・ソクヘン)シェムリアップのコンポン・クダイ高校に設置されている詩人クロム・ゴイの銅像。台座の下のプレートには銅像建立の寄付者名が彫られている。

カンボジアの文学作品『萎れた花』『現代カンボジア短編集2』は、大同生命国際文化基金のウェブサイトより無料で電子書籍をダウンロードできます:https://www.daido-life-fd.or.jp/business/publication/ebook

書誌情報
岡田知子《総説》「カンボジア文学」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.2, KH.1.02(2024年12月12日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/cambodia/country/