アジア・マップ Vol.02 | 中国
《総説》中国という国
中国の現代文学
中国の現代文学を語る際、1915年の新文化運動および白話文運動から、中華人民共和国が成立した1949年までを一つの区切りとすることが一般的である。しかし、1980年代以降、中国現代文学史の「書き換え」が叫ばれるようになった。たとえば、1985年に北京大学の研究者である黄子平、陳平原、銭理群が「二十世紀中国文学談」と銘打っていくつかの鼎談を重ね、20世紀の中国文学を一つの有機体として捉えるべきだと主張している。この文学談では、中国を含む世界各地の文学には19世紀末にすでにモダニティの萌芽が見られるとして、中国文学と世界文学とのつながりを指摘した。また、ハーバード大学の王徳威は『抑圧されたモダニティ 清末小説新論』(2017)の中で、「晩清なくして五四はありえたか」という問いを投げかけ、清末文学におけるモダニティの問題の再考を促した。筆者もまた、中国の現代文学を考えるためには清末に遡らねばならないと考えている。このエッセイでは、清末から中華人民共和国成立までの中国文学の大まかな流れを紹介したい。
第一次阿片戦争及び南京条約の締結によって、広州や上海など五つの都市が外国に門戸を開き、中国と西洋の文化交渉が爆発的に増えた。上海では、西洋人による出版社や印刷所の創設によって出版ジャーナリズムが活発になった。1872年に創刊され、1949年まで続いた『申報』は、戦前の中国において最も長い間発行された新聞の一つであり、文人が詩歌などの作品を発表するメディアにもなった。1884年には絵入り新聞『点石斎画報』が創刊された。政治時事からファンタジー、民俗など多岐にわたる話題を提供しており、清末の知識人の世界に対する想像の一端を覗かせている。1894年、韓邦慶(1856~1894)が呉語(蘇州語)小説『海上花列伝』の単行本を出版し、上海の妓女の生活や当時の世相を描き出した。1897年、出版社である商務印書館が創立され、中国近現代の出版や文化、教育事業の発展を推し進めた。同年、林紓(1852~1924)が友人の協力を経てデュマの『椿姫』を文言小説に翻訳した。林紓はそのほかにも『アンクル・トムの小屋』や『ジョーン・ヘイスト』など、英語やフランス語の作品を続々と文言小説に訳し、中国の読書人に鮮烈な衝撃を与えた。
1898年の戊戌政変後、日本に亡命した改良派の知識人、梁啓超(1873~1929)は日本の政治小説に触発されて「小説界革命」を唱え、1902年に雑誌『新小説』を創刊して自らSF小説『新中国未来記』(未完)を発表した。
この時期、様々な小説誌が発刊されて創作の繁栄期を迎えている。探偵小説や恋愛小説、教育小説、救国小説、科学小説、軍事小説など、実に多岐にわたるジャンルが発表された。伝統的な章回小説の形式を取った劉鶚(1857~1909)の『老残遊記』、李伯元(1867~1906)の『官場現形記』、呉趼人(1860~1910)の『二十年目睹之怪現状』、曽朴(1872~1935)の『孽海花』は清末の「四大譴責小説」(社会批判、風刺小説)と言われている。さらに、纏足の廃止や女性の地位向上の呼びかけに伴い、頤瑣(生没年不詳)『黄繡球』など女性の解放をテーマにした小説も注目された。秋瑾(1875~1907)が革命のために犠牲になった翌年には、彼女の遺作『弾詞精衛石』が刊行された。
一方、呉趼人は1907年に「写情小説」と銘打ち、伝統的礼教が引き起こす悲劇『恨海』を出版した。さらに民国初期には徐枕亜(1886~1941)の『玉梨魂』や李涵秋(1873~1923)の『広陵潮』をはじめとする、才子佳人の恋愛を描く「鴛鴦蝴蝶派」が流行した。「鴛鴦蝴蝶派」は長い間新文学陣営の批判を浴びていたが、中国の市民社会を描いただけでなく、西洋小説の技法を取り入れるなどの手法について、最近再評価されるようになっている。
この時期の文学について、陳平原はナラティブの変化に着眼し、『中国小説叙事模式的転変』で、叙事時間、叙事角度(物語の焦点化)と叙事構造といった三つのレベルで伝統的小説が近代小説へ変貌してゆく過程を検証した。
1915年、陳独秀(1879~1942)が『新青年』を発刊し、伝統的儒教道徳や家族制度を廃絶し、民主主義と科学精神といった西洋文明の原理を全面的に取り入れるべきだと主張して新文化運動を発起した。1917年、アメリカに留学中の胡適(1891~1962)が雑誌『新青年』に「文学改良芻義」を寄稿し、白話による新文学を提唱した。『新青年』に発表された魯迅(1881~1946)の短編小説「狂人日記」は新文学の最初期の輝かしい成果となる。また、周作人(1885~1967)は「人的文学」を発表し、人道主義的、人類愛の文学を提唱した。
1921年、新文学の団体である文学研究会が北京で結成され、茅盾(1896~1981)が編集者を務めた『小説月報』を機関誌として、リアリズム文学を提唱し、鴛鴦蝴蝶派など旧文学に対して批判を展開した。一方、東京で郭沫若(1892~1978)や郁達夫(1896~1945)、張資平(1893~1959)などによって結成された創造社は「芸術のための芸術」を掲げ、文学研究会と論争を繰り広げた。
新文学運動の下、冰心(1900~1999)や凌叔華(1900~1990)、廬隠(1899~1935)をはじめ、中国現代教育を受けた女性作家がデビューを果たし、現代的家庭への憧れや女性の友情などをテーマに創作を行った。1927年、丁玲(1904~1986)が「莎菲女士的日記」を発表し、女性の欲望を赤裸々に綴った。
1923年、徐志摩(1899~1931)や聞一多(1899~1946)、梁実秋(1903~1987)などが「新月派」を結成し、中国近代詩の革新を目指した。メンバーの多くは欧米留学を経験し、リベラリストが多かった。1928年、邵洵美(1906~1968)が上海で金屋書店を作り、章克標(1900~2007)、滕固(1901~1941)らと共に独立出版を始め、唯美主義の陣営を張った。1930年代以降、日本の新感覚派から影響を受けた施蛰存(1905~2003)や劉吶鴎(1905~1940)、穆時英(1912~1940)は、ダンスホールなど大都会上海の風俗をテンポよく描写した。
北伐戦争後の1920年代後半以降、茅盾は「蝕」三部曲で国民革命運動に巻き込まれた青年男女の戸惑いを描き出した。1928年、共産党員によって結成された太陽社や革命文学に方向転換した創造社が革命文学を提唱し、郭沫若は「個人主義の文芸はとっくに過ぎ去った」と宣言した。1930年、国民党と共産党の緊張が高まるなかで中国左翼文学聯盟が結成され、マルクス主義文芸理論を積極的に宣伝する一方で国民党系の文学者を批判し、文学の政治性・階級性を主張した。
新文学から攻撃された鴛鴦蝴蝶派の文学は下火になったが、張恨水(1895~1967)は伝統的な章回小説を改良しながら青年男女の恋愛を描き続け、1924年から『金粉世家』や『啼笑因縁』といったベストセラーを次々と世に送り出し、魯迅の母から毛沢東に至るまでの広い読者層を持った。
1931年、巴金(1904~2003)が四川省の伝統的大家庭の崩壊や青年の覚醒を描いた『家』で一躍注目された。また、湖南の辺境からやってきた沈従文(1902~1988)は北京と上海を行き来し、郷土文学の代表的な作家となった。沈は1933年に北京の『大公報』の編集長に就任し、上海の商業主義的な文学を批判し、いわゆる「京派」と「海派」の論争の口火を切った。この時期、曹禺(1910~1996)は封建的資本家家庭の倫理劇『雷雨』を発表し、中国話劇史における地位を不動のものにした。また、『老張的哲学』や『離婚』など、北京の庶民生活の喜怒哀楽を語る老舎(1899~1963)が活躍している。さらに、林語堂(1895~1976)が上海で「幽黙 小品文」を提唱し、日常の事柄をユーモラスに綴った。
満洲事変の後、蕭軍(1907~1988)や蕭紅(1911~1942)を代表とする東北作家たちが上海に逃れ、閉鎖的な東北農村社会や日本の侵略者への抵抗をテーマにした作品を発表したが、古丁(1914~1964)や梅娘(1916~2013)らは日本の傀儡政権である満洲国に残って文学創作を続けた。
1937年の日中戦争勃発後、北京と上海は相次いで日本の占領下に置かれたため、多くの知識人が国民党政府のあった重慶や共産党が根拠地とした延安に撤退することを余儀なくされた。北京大学、清華大学、南開大学は昆明に「西南聯合大学」を設立し、陳寅恪(1890~1969)や朱自清(1898~1948)、聞一多など著名な作家を教員陣に迎え、詩人穆旦(1918~1977)や作家汪曾祺(1920~1997)などを輩出した。
1937年、文芸評論家胡風(1902~1985)が手掛けた雑誌『七月』が創刊され、抗戦文学を提唱し、愛国心と革命的情熱に満ちた作品を掲載した。1942年、毛沢東は延安で行われた文芸座談会(「文芸講話」)で、文芸が革命の教育とプロパガンダの役割を果たすべきだと説いた。具体的には、文芸は人民のために作られ、階級闘争を反映し、共産主義の理念を広める手段とされた。前後して趙樹理(1906~1970)の『小二黒結婚』が発表され、中国農村社会が自由恋愛をめぐって新旧世代で衝突するさまを生き生きと描き、「文芸講話」精神を反映する模範作とされた。「文芸講話」は長期にわたり共産党の文学綱領となった。
日本侵略下の上海では汪精衛政権に従う刊行物が発行されたほか、総合誌『万象』が進歩的作家を集結させた。この時期、女性作家の活躍が目立つ。家庭主婦だった蘇青(1914~1982)が近代的小家庭の破綻を告白した『結婚十年』(1944)はベストセラーになった。1943年、張愛玲(1920~1995)が『沉香屑 第一炉香』を発表した。『紅楼夢』などの中国伝統文学の素養に加え、香港大学で近代文学の訓練を受けた張は、上海や香港などの大都会に暮らす人々の孤独や悲哀を巧みに表現し、国内外を問わず多くの読者を虜にした。
1947年、銭鍾書(1910~1998)の長編小説『囲城』がウィットと諧謔に富んだ筆致で抗戦時期の知識人の群像を滑稽に描き出した。中国伝統文化と西洋文明の狭間に置かれた知識人の病態を暴露するというテーマと、メタファーを縦横無尽に使った描写は、中国文学と世界文学とのつながりを示す好例である。
参考文献
[日本語]
宇野木洋、松浦恆雄編『中国二〇世紀文学を学ぶ人のために』世界思想社、2003年
王徳威著、神谷まり子、上原かおり訳『抑圧されたモダニティ 清末小説新論』東方書店、2017年(Wang, David Der-wei. Fin-de-Siècle Splendor: Repressed Modernities of Late Qing Fiction, 1849–1911. Stanford, CA: Stanford University Press, 1997.)
藤井省三『中国語圏文学史』東京大学出版会、2011年
[中国語]
陳平原『中国小説叙事模式的転変』北京大学出版社、2010年(初版は上海出版社、1988年)
韓南(Patrick Hanan)著、林侠訳『中国近代小説的興起』上海教育出版社、2004年
銭理群、黄子平、陳平原『二十世紀中国文学三人談・漫話文化』北京大学出版社、2005年
呉福輝、銭理群、温儒敏『中国現代文学三十年』北京大学出版社、1998年
[英語]
Hsia, Chih-tsing. A History of Modern Chinese Fiction. New Haven: Yale University Press, 1961.
Wang, David Der-wei,ed.A New Literary History of Modern China. Cambridge, MA: Belknap Press of Harvard University Press, 2017.
林麗婷《総説》「中国の現代文学」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.2, CN.1.03(2024年10月15日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/china/country3/