アジア・マップ Vol.02 | 中国

《エッセイ》中国の都市
アラビア語があふれていた都市 義烏

 
松本ますみ(室蘭工業大学 名誉教授)

 私が義烏という都市のことをしったのは、2007年、回族女性の教育に関するインタビューで寧夏回族自治区の韋州というまちにある公立小学校の女性校長を訪ねた時のことであった。韋州は、沙漠の真ん中に忽然と現れる人口数万人の回族のまちであった。回族とは、漢語を話すムスリムとして民族認定された少数民族(人口約1000万人)だが、もちろん敬虔な人と敬虔でない人がいる。韋州の人々はほとんどが前者のムスリムで、韋州は小メッカと言われていた。漢語は非識字/半非識字だが、モスク付属のマドラサで学んだアラビア語はよめる、という人たちが多かった。親たちはモスクやマドラサを破壊した文革(1966―1976)を起こした共産主義政権を警戒し、特にむすめは無神論を教える公立学校にはやらない、女子マドラサ(女学)でイスラーム倫理を学ばせる、という風潮が強かった。

 この公立小学校はその風潮を打破すべく、改革開放後、女子学校として地方政府が肝いりで設立し、養成された回族女性教師を配置していた。すると、学習環境が整っているからという理由で男子生徒の希望者が増え、男子も入れるようになった。いきおい男女共学の初級中学も整備された。 さて、その女性校長と話している最中に彼女は「最近の子どもは、15歳で初級中学を卒業するとYiwuに出稼ぎに行ってしまって。アラビア語通訳や商売をしに」と語りはじめた。Yiwuが義烏という都市であると認識するまでは、しばらく時間がかかった。聞けば、浙江省の内陸部にあるという。さっそく、私は当時できたばかりの高速鉄道で行ってみることにした。

 日本では「100円ショップのふるさと」と言われた義烏は、世界中からバイヤーが集まる卸売りのまちでもあった。特に1990年代、人口が数十万から160万人(2006年)にまで急増し、世界一の巨大な国際商品見本市(中国義烏国際商貿城)や周辺のあまたの見本市に商品サンプルがあふれかえっていた。他の中国の街との決定的な違いは、世界中からのムスリムのバイヤーを非常に多く見かけたことである。ムスリムのバイヤーたちは中東、インド亜大陸、中央アジア、東南アジア、アフリカなどから来ていた。一部は定住もしていた。街角の表示は中国語、英語、アラビア語のトリリンガル。発展途上国の人々にも気軽に手に取ってもらえる廉価な価格設定が義烏の商品の特徴であった。当時は内陸港である義烏から沿海部の寧波まで商品を満載したコンテナをトラックで運んで世界中に海路送り出していた。

 見本市を歩いてみると、世界のさまざまな地域のムスリムのニーズに応えるグッズにあふれていた。アラブ式紅茶の茶器セット、色とりどり形いろいろのヒジャーブ、スタンドカラーの長い男性用白シャツ、礼拝用じゅうたん、電子クルアーン、アラビア語の電光掲示板、クルアーンの章句が付けられた掛け時計… さすが、世界の工場中国と感じ入った。このようなものを作ってほしい、とバイヤーから提案されれば、すぐサンプルが作れ、納品できる、というのが義烏の強みということであった。義烏の背後に多くの出稼ぎ生産人口を抱えていたからである。スーダン人やパレスチナ人のバイヤーと話してみたが、とにかくここは儲かる、というのが彼らの口癖であった。 さて、寧夏回族自治区から義烏に出稼ぎに来た中国語を母語とするムスリムである。彼らの多くは、はじめはアラブ圏からのバイヤーに対する通訳業務を行い、信頼ができて投資され、自分も投資できるようになると、貿易業務や世界のムスリム向けグッズの製造販売を始めた。彼らの多くは初級中学卒程度の低学歴者と見なされ漢人中心社会でチャンスに恵まれなかった。しかし、アラビア語という宗教言語を知っていて、礼拝を欠かさず、謙虚で正直という職業倫理をもっていた。だからこそ「敬虔なムスリム」として世界から義烏に来たムスリムのバイヤーから信頼を得て経済的成功を収めていった。

 義烏ドリームは中国の回族を中心としたムスリム社会全体に知られるようになった。寧夏だけでなく、青海、河南、雲南といった回族人口が比較的多い地方から若者は義烏を目指した。アラビア語能力と信仰深さという「武器」をもって。極東の地でグローバリゼーションとムスリムの信頼関係が結びついた瞬間であった。

 ただし、2000年代当時から彼らの商業活動や宗教活動が順風満帆であったわけではない。ムスリムの集会の自由は制限されていた。モスク建設も難航した。苦労してモスクを再建するも、次第に、モスクの阿訇(アホン:宗教指導者)の人事にも政府が口だしするようになった。そして2015年の宗教中国化を迎える。これは、宗教の中国共産党化ともいうべき政策で、中国共産党と国家への忠誠が最重要、というものだ。特にターゲットとなったのは外来宗教で一神教の、信仰者人口も多いイスラームとキリスト教であった。外国敵対勢力の影響を受けやすい、というのが名目であった。段階的に中国全体からアラビア語表記が消されていった。レストランのハラールのアラビア語看板は、「清真」と書き換えなければ営業停止となった。子ども向けマドラサは閉鎖となり、モスクは中国風の外観に強制的に改造されていった。国旗の掲揚も義務化された。少しでも中東風のものは「危険」として消されていくことになった。

 そうこうするうちに、2020年からのコロナ禍である。海外からのバイヤーが訪中できなくなったので、義烏は閑古鳥が鳴いている、という報道もあった。私もこの5年間中国に行けていない。海外からのムスリムのバイヤーが来なければ街にアラビア語表記は必要なかろう。しかし、この間、ムスリム向け商品は実物の見本市からヴァーチャルなEコマースという形で、世界に広がるようになった。AliExpress, Temuといったアプリをのぞいてみると、そこには、かつて義烏国際商貿城で見かけたようなヘジャーブ、電子クルアーン、クルアーン章句が書かれた装飾品といった商品が大量に廉価であふれている。それも送料無料だ。買い手データをのぞいてみれば、フランスやスペインの客が上顧客である。コロナ禍前の2017年に、義烏を起点とした大陸横断鉄道がロンドン、マドリードまで開通し、海路よりも短期間でヨーロッパに大量の荷物が運べるようになったからでもある。そして、アプリの商品の中国側出品者を見てみれば、そこにはムスリム名やイスラーム的企業名がある。どっこい、義烏のムスリムたちは政府の干渉やコロナといった逆風に負けずにICTの時代をしたたかに生き抜いている。ただ、商品買い付けに日参していた世界からのムスリムのバイヤーたちは、Eコマースという強敵の前でどうなったのか、気になるところである。

義烏国際商貿城のヘジャーブサンプル 2010年9月 (撮影 松本ますみ)

義烏国際商貿城のヘジャーブサンプル 2010年9月 (撮影 松本ますみ)

義烏の時光幼稚園の看板 2009年12月 (撮影 松本ますみ)

義烏の時光民族幼稚園の看板 2009年12月 (撮影 松本ますみ)

義烏国際商貿城のカフスの広告 2009年12月(撮影 松本ますみ) ン

義烏国際商貿城のカフスの広告 2009年12月(撮影 松本ますみ)

書誌情報
松本ますみ「《エッセイ》中国の都市(義烏)」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』2, CN.4.01(2024年4月1日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/china/essay02/