アジア・マップ Vol.02 | エジプト
《エッセイ》
エジプトのイスラーム建築
エジプト建築といえばピラミッドを筆頭に古代エジプト建築があまりにも名高く、イスラーム時代の建築の影は薄い。しかし、イスラーム建築史全体から見れば、エジプトは質・量ともに恵まれ、欠かすことはできない国である。まず、他地域と比べてみよう。
レンガをタイルで覆うという彩色豊かかつ建築としての実体からむしろ膜のように進化をとげたイラン系(ペルシア)のような洗練された美よりも、石造建築が多いために、むしろ構造体としての姿を強調し堅固で存在感のある方向へと発展したように感じられる。エジプトと同じく石造が主流な、大シリアあるいはアナトリアの建築と比べると、時代による方向転換が意外と早いのがエジプトの特色といえよう。加えて、他の地域からの技法や様式の摂取に優れ、それを土着化していく方向を好んだ。一方で、現地の古材の利用に徹し、新材で石柱(コラム)を構築するようになるのは15世紀からで、オスマン朝期にも普通に古材が使われた。かつての文明が残した材料が多大でそれを利用した方が経済的あったと捉えるべきか、はたまた過去の文化を賞用・共有したとみるべきであろうか。このような状況の中、エジプトに特有な伝統が育まれた。
実例を引きながら、エジプトのイスラーム建築を地域と時代から捉えてみたい。
時代から捉えると7世紀にアムル・イブン・アル・アースがエジプトを遠征し、各地にモスクを建設したことからエジプトのイスラーム建築は始まる(写真1)。しかしながら、フスタート(現在のカイロ)のアムル・モスクをはじめ、7世紀の様相が残っているものはない。遺構や発掘からわかるのは、他地域と同様に、メディナの預言者の家に倣って中庭の周りに柱を建てる形のモスク建築が採用されたという点である。9世紀のイブン・トゥールーン・モスクは、古い様相を伝える(写真2)。しかし、太い柱(ピア)を用い、エジプトを含む地中海周辺の早い時代のモスクとは様相を異にする。モスク本体を囲む外庭、螺旋形のミナレット、アーチの下端や透かし窓に残る多様な幾何学文様装飾などとあわせ、創設者がアッバース朝から派遣されたため、バグダードやサーマッラーなど東からの影響が強いと説かれる。もたらされたものの中でスタッコ製の浮き彫り細工は、その後も命脈を保つ。続くファーティマ朝時代には、矩形宮殿都市アル・カーヒラが築かれ、アズハル・モスクが創設され、壮麗な石造の諸門とともに東西の宮殿建築が営まれた。この時代、古材の円柱を建て並べる中庭式のモスクや現地のレンガ造のドーム技法を用いた小規模な廟が、カイロだけではなく、中エジプトや上エジプトにも普及したことは見逃せない(写真3)。ムハンマドの係累を祀った聖者廟が多く、ドームをいただく墓室だけでなく前室などを含む宗教施設であることは注目できる。
次の時代は、アイユーブ朝、マムルーク朝の時代である。サラディンは城塞を築くとともに、その後裔となる為政者たちは、新たなジャンルとしてのマドラサ(寄宿制高等教育施設)建設に勤しむ。シーア派を推進したファーティマ朝に代わるスンナ派王朝であったことにも起因するのだろうが、スルターンなど寄進者の廟が併設され、またハーンカーやリバットと呼ばれる神秘主義教団施設の建設にも資材が投入される。マドラサ建築自体、東から大シリアを経由してエジプトへと渡来した。同時にイーワーンと呼ばれる大アーチを開放しトンネル状のヴォールトをいただく大広間、シリアからの石造ドームの技法、中央アジアやイランからのタイル技法なども取り入れられる。一方で、装飾技法としては、イスラーム以前から地中海世界の伝統である色石張りが主流で、13世紀後半に集中してガラス・モザイクも用いられる。ガラス・モザイク技法は、ダマスクスのウマイヤ・モスク(8世紀初頭)やコルドバのメスキータ(10世紀中葉)の伝統を再生した形である
この時代、スルターン・ハサン複合体(写真4、10)が巨大かつ構想力にも優れた代表例と言えるが、黒死病流行の中で建設されたことは衝撃的である。取り入れられた新技法や新様式は、多作をこなしていく中で次第に土着化していく。イーワーンの天井は木造平天井となり、中庭にはシャクシェイハと呼ばれるランタン天井がかかり、大シリアまで広く普及するマムルーク朝の様式を作り上げる(写真5)。一方、マムルーク朝エジプト発と言えるのは、大規模複合建築の構想や、断面形を変えていく装飾的なミナレットの形式(写真10)である。前者はティムール朝の複合建築やオスマン朝のキュリイェに影響を与え、後者はカイロのスカイラインのトレードマークとなる。
次の画期となるのは、オスマン朝の支配下に編入された16世紀後半からである。帝都イスタンブルで流行したようなマムルーク朝期に比べると低く広い大ドームを持つモスクが好まれるようになる(写真6)。また、ミナレットの形は、スラリとした鉛筆型に変わっていく。墓建築でもあまり巨大なドームは作られず、柱を用いて開放的になり、ピラミッド型の屋根をいただくなどの変種も現れる。イズニクタイルやシリア製の彩色豊かな絵付けタイルで腰壁を覆うこともある。
このように流行が移っていく中、敢えてマムルーク朝風に作ったモスクからは、復古的な意識が汲み取れる。さらに、前時代からの継続性を保つのは、世俗建築である。サビール・クッターブは、小規模建築で寄進しやすいためか、カイロ旧市街のあちこちに建設される(写真7)。一階が給水所で二階が子供たちのコーラン学校となった。ウィカーラ(・ラブア)と呼ばれる商館(そこに付属する賃貸住宅)は、スークを構成する重要な要素である。驚くべきことは、こうした世俗建築や住宅では、ローマ時代などイスラーム化以前の古材(コラムと呼ばれる円柱)が使われる。また、オスマン朝期の建築について、カイロとデルタの街々の様式が異なる点は面白い(写真8)。それ以前の場合は、規模や贅投入の違いこそあれ、基本的には同質の様式が採用された。
ナポレオンの遠征とともに始まるムハンマド・アリー朝の時代、西欧諸国との密接な接触が建築に転機をもたらす。サラディンが建設した城塞上に建てられたムハンマド・アリー・モスクはむしろ前時代最後の例とするのが適当かもしれない(写真9)。いわゆるオスマン朝建築家シナンの影響下に位置付けられるモスクである。ただし広さよりも高さに傾き、楕円形の半ドームを使うなど、ヨーロッパの嗜好も見え隠れする。
1850年以後、当時ヨーロッパで流行した新古典主義などの様式建築が移入されると同時に、ネオマムルーク様式が西欧の建築家たちによって形成される。スルタン・ハサン複合体に向かい合うリファーイー・モスクはその代表例である(写真10)。その後は、もっぱらイスラーム各地から寄せ集められた様式が趨勢を占める。新首都のアフリカ最大のモスクもその一つである(写真11)。
7世紀から現代まで、モスクを軸に歴史を辿ってみた。特に19世紀まで、有名建築の地域はカイロに偏っている。時代を通じてカイロに政権が置かれたためだろうが、一方でカイロ建築の素晴らしさを物語る。街々の母カイロは、世界にも稀なイスラーム建築が積層する都市で、しかも古い都市組成を残している。このような街が、近年のインフォーマル住宅の一掃に伴い、疲弊していく姿を見るのは忍びない限りである(写真12)。エジプトのイスラーム建築発祥の地、フスタートも、地下水位の上昇と、開発の波に飲まれ、エジプト最大の公園に姿を変えつつある(写真13)。
書誌情報
深見奈緒子「エジプトのイスラーム建築」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.2, EG.7.03(2024年4月9日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/egypt/essay01/