アジア・マップ Vol.02 | エジプト

《エッセイ》コロナ禍のエジプトと私

深見奈緒子(国士舘大学イラク古代文化研究所・特別研究員/学振カイロセンター・センター長)

 コロナが過ぎ去って思い出せるのは、「夢のような異常な日々」ということだけで、記憶がバラバラだ。期せずしてコロナ発足から収束まで、何度か帰国をしたものの、基本的にはカイロで過ごすことができた。その時の状況や気持ちをメールの履歴などから時系列で集めてみた。

【2020年1月から;コロナの始まり、そして戒厳令の中で】
 2020年の1月頃から、エジプトにも、新型肺炎コロナという得体の知れない病名が日本から聞こえてきた。エジプトでの感染者確認は2月になってから、しかも外国人で、エジプトにとっては遠くの存在であった。事実、JSPSが主催し2月には3名の日本人研究者を招いてエジプト日本科学技術大学でシンポジウムを行い、その後私は短い一時帰国をし、さらに3月にはカイロのCEDEJとの共催で、日本からの研究者を交えてワークショップを開催した。

 3月8日エジプトでの初めての死者の報告以後、事態は急転していく。9日マドブーリ首相は、多数の市民が集まる行事,また県を越えて多数が移動する行事の一時中止を発表した。この頃、カイロ、特に旧市街では東アジア系の顔つきの私たちは、普段の「ニーハオ」ではなく「コロナ」と呼びかけられるようになった。悪気のない人もいるのだろう。握手等も、双方で控えてしまうようになった。事務所の掃除を担当する家政婦さんから「きちんと手を洗ってね」と言われ、彼女との構図が逆転したように感じた。

 3月12日、13日は稀にみる春の大嵐で、12日木曜日は学校をはじめ省庁、日本大使館も臨時に休業、14日午後に大学、学校に対して3月15日から2週間の休校の指示、16日には3月19日から31日まで,エジプトのすべての空港閉鎖が発表された。これらを受け17日に日本外務省の危険度レベルが、エジプト全土に対して危険度2に引き上げられた。エジプト人も急な発令に驚き、事務所からはエジプトに滞在中の日本人研究者に情報を回し対応に追われると共に、会食のキャンセルなどが増加した。19日にはコロナ期間最後となる直行便が成田へ向けて出発し、駐在のご家族などこの便でお帰りになった日本人も多かった。

 エジプト政府は、一種の軍事政権下にあるため、統制令を発令しやすくしかも効力が強く、サウジと歩調を合わせた形であった。私の場合、職場と自宅は同じ建物内にあり、公共交通機関等は外出時以外は滅多に使わなかったためか、取り立てて体に変調もなかった。

 学校や大学はお休み、シーシャは禁止、お店やレストラン、娯楽施設は夜7時から朝6時まで閉鎖、行政サービスも停止し、違反者には罰金令という厳しい状況であった。保健省関係の人と名乗る強面のエジプト人が事務所を訪問し「事務所にマスク、消毒液、加えて消化器(広いから大きいのを6台)を完備するように、指定の店から買うこと」、翌日再訪問「火災報知器をつけたことにする領収書を出すから、税金分だけ指定の店に払ってくれ」と言う。怪しいと思い、同建物にいる日本人に相談したところ、「取り合わなくて大丈夫、もしもの場合はレターを見せてと対応」と示唆された。私たちの事務所は女性ばかりで、強くモノを言える人がいないので、彼のような人が来たら居留守を使おうということで、「コロナのために閉室中」と玄関に掲示した。今考えると笑い話のようだが、エジプト版火事場泥棒だったのだろうか。

 4月に入っても国際線停止は続き、チャーター便だけが飛び、国際郵便は届かなかった。夜間外出禁止令はきちんと守られ、夜8時から朝6時までは静まり返っていた。ときどき見回りのパトカーのサイレンと夜明けのアザーンが聞こえるくらいで、日中もモールは閉鎖、レストランもテイクアウトだけになっていた。モスクでの礼拝は禁止で、24日からのラマダーンはどうなるのかと心配したが、スーパー、薬屋、パン屋等は開いているので、品薄感はなかった。

 16日、久しぶりにナスルシティのパスポートセンターに行き、ダウンタウンやアッバセーヤを通った。平日だったせいか、それなりに混んでいて、アタバ市場も営業していた。ラマダーン(断食月)前の22日、23日は、アタバ市場(カイロの中心的な市場)が混雑を極めていたという。そのせいか、罹患者の数と死者は、増加した。

 24日の金曜日からラマダーンに入り、夜間外出禁止令が夜の8時から9時と少し緩くなった。ラマダーンに入って数日は、夜9時を過ぎても大音量の音楽が聞こえることもあったが、落ち着いてきた。モスクで集会禁止は続いた。

 エジプト人は、かなりコロナを怖がって、一部の人を除き、政府の指示は守られている。違反者には5000LEの罰金ということも、エジプト人を家にとどまらせている。海岸に別荘を持っている富裕者層は、3月から移住してしまっている人も多い。銀行やスーパーでは、外の扉口で番号札を渡され、呼ばれるまでは外で待ち、内部滞在者数を調整していた。

 このような状況が功を奏しているのか、罹患者と死者は増加しているものの、間近での感染例はなかった。信憑性は疑われるが、エジプトはスーザン・ムバラク(ムバラク前大統領の夫人)の医療政策で、BCGやポリオ、そのほかたくさんのワクチンを子供達が受けているので、罹患者が少ないという説も実しやかに唱えられた。

 4月の事務所は、基本的には、扉に「閉室中」というメッセージを掲げ、自宅勤務を推奨し、掃除、集金、数名の日本人学生が出入りする程度だった。窓には網戸を設置、基本的には窓を開けた状態で作業した。大学も授業はないが、研究者の研究室への出入りは制限されておらず、徒歩で研究室へ行き、研究を続けているという報告がアルムナイメンバーの教授から届く。

 5月に入り、罹患者は着実に増え続け、初旬にはすでに一万人を突破した。今まで身近な罹患者を耳にしなかったが、秘書の息子(小学3年生)の同級生家族が、両親と子供3名を含め罹患し、父親は病院で亡くなった。医療関係者の死亡の記事が、毎日聞こえてくる。政府は、罹患者が増え続けているのは「政府の対応策を国民がきちんと守らないことが原因だ」と投げやりな報道。19日、最低気温29度・最高気温42度、そろそろ暑くなってきた。24日からはラマダーン明けのイードで、外出禁止令が夕方5時から朝の6時までに引き締められ、店舗は閉鎖、県境をまたぐ交通機関も閉鎖が29日まで続く。

 空港も特別便しか飛ばず、JICAは所長と数名、JETROは所長だけとなったが、日本大使館の職員はほとんど残っていた。通常は千人近い邦人も、配偶者がエジプト人などでこちらに腰を据えている約300名と、私のように帰国を選ばなかった方が150名ほどと半減した。

 役所や銀行、スーパーなどに入るときにはマスク着用が義務付けられ、着用していない場合には罰金(4000LE以下)を徴収される。エジプト企業のコットンニールもおしゃれな黒マスクの販売を始めた。銀行に入ろうとした老婦人が「マスクがなくてお金をおろせないで困った」と言っていると近くにいた老人が自分のマスクを取って貸してあげたとか、マスク貸出を商売にする人が出たとか、コロナはTVの宣伝に出ている緑の虫と思っている人とか、衛生観念やコロナが何かわかっていない庶民も多い。PCR検査には1000LEかかるので、具合が悪くても検査を受けていない人は多い。6月に入り、連日1000人を超える罹患者と40名を超える死者が出ており、少し心配な状況が続く。

【2020年7月から;コロナとの共存へ、開発の嵐】
そんな中、エジプト政府は方針を転換、収束を待たずに政府は感染との共存の指針を示す。イード明けからモスクが開き、ウドゥー(礼拝の前の浄)は事前に別な場所で行い、礼拝には自分の絨毯を持参し、周囲を2mずつあけて立つと厳しい決まりが採用された。7月に入ると、日本に避難していた人々も少しずつ戻り始めた。事務所としても、なんらかの活動をということで、7月25日には初めてのオンラインの懇話会を開催した。少し後になるが、11月にはオンラインの中東・オリエント建築研究会も始めた。前者は近頃では対面も交え、事務所の事業として継続している。しかしながら、後者は息切れし、2022年7月以後開催が途絶えている。

 8月3日は巡礼祭明けのイードの最終日で、一時期に比べると罹患者、死者数ともに減ってきた。カイロは例年になく涼しく、事務所でも家でもクーラーを入れずに過ごせる日々が続いた。コロナで交通量が減ったことが影響しているのかもしれない。窓全開のため、目に見えない砂埃がすぐにたまり、難儀である。

 8月には、大学でのイベントも開催されるようになった(写真1)。末には久しぶりの旧市街調査を行った。エジプト人は、もうコロナに飽きてしまったのか、街ではマスクをしている人もちらほらという感じとなった。アタバの近くは、買い物のおばさんたちで三密ではなく五密くらい。コロナの影響で、外国人観光客は激減し、政府は増税でそれに対処する状況であった。金曜礼拝が開始され、調査対象のモスクのいくつかは礼拝の時間だけ開く状況であった。

 9月1日には、役所が通常の稼働を始めた。この頃から、税金の値上げや各地でインフォーマルな街区が撤去されるなど、政権の強権が誇示されるようになった。3月からのロックダウンの6ヶ月間はその準備期間だったのだろうか。首相が、カイロのダウンタウン、スークシラーハ、公園の整備を打ち出した。その後、旧市街では乱暴なトップダウンの開発事業が始まり、今日まで続いている。

 コロナ対応についてエジプトと日本の温度差を実感した場面もあった。9月27日から3日間エジプトの紅海岸のホテルで大学主催のシンポジウムが開催され、JSPSとして現地参加を予定した。しかし、東京本部からの同意が得られず、対面を諦め、オンライン参加となった。日本との差異は、自宅療養が基本で呼吸器をつけるほどひどくなったら入院、PCR検査は感染症の一定症状が確認された患者のみに実施という側面にも現れる。実際入院するには1日10万円必要とのことで、庶民にはとても手が届かない。入院できずに自宅で亡くなった人の話も聞く。

 郊外には、たくさん自動車道路が整備され、インフォーマルな地域が一掃され、あるいは道路を作るためにモスクも引き倒され、普通の人々には不満が次第に募ってきているように感じた。新首都も操業にむけて工事が進展している。死者の街にも新たな高架道路が建設され、多くの墓が壊された。考古省の登録モニュメントは外れるようにしているが、景観が一変した。フスタート周辺では道路沿いに高い塀が建てられ、中で撤去作業が進んでいる。庶民は、ムバラクの時代の方が、まだよかったという人も多い。エジプトは若年者層が多く、人口増加度も高いので、経済的に有望と評価する向きもあるが、庶民の生活は、相変わらずだ。

 12月にはイギリスでワクチンが認可されるというニュースが届き、エジプト政府は中国製ワクチンを無償で国民に接種する方針を決める。2月半ばまで、大学および全ての学校はオンライン授業、集会は禁止、小中高等学校は週2日のみ、街ではスーパーや銀行、役所以外にはマスクをする人もほとんどいない。戸外での集会は普通に行われている状況であった。

【2021年1月から;ワクチンの普及、日本との温度差】
2021年に入り、いつものようにカイロには年末年始感はほとんどない。コロナ禍からの人々の立ち直りが早く、良くも悪くもすべてが元通りになってきている。

 2月中旬から微増が続く中、私は1年ぶりに帰国した。行きと帰りのPCR検査、日本での2週間の隔離生活など、国際移動の大変さを実感した。エジプトではPCR検査を依頼すると、指定場所に検体をとりに来て結果も届けるというサービスがあり、エジプト入国の際も陰性証明をチラッと見るだけという大きな差異がある。日本では入国には時間がかかり、出国の際の英文PCR検査も予約等で大変であった。また、日常に戻ったエジプトと対照的に異常時のままの日本という差異も感じられた。

 3月初めにカイロに戻り、月末には旧市街で行われた国際的なイベントを共催した。参加者の一人で事業のカウンターパートが「家族全員、多分コロナに罹患したと思う。ただ、検査はしていないので本当にコロナかどうかわからない。」という。大学教授の彼のような家族の場合でも検査はしていないのには驚いた。PCR検査をしても特効薬もないので、血液検査と肺のレントゲンをとり、その後自宅療養というのがこちらでは普通なようだ。

 5月から6月にかけて、在留日本人もエジプトでワクチン接種を受ける人が増えてきた。私も保健省のオンライン・サイトで申し込むと、すぐに順番が回ってきた。接種場所はカイロ北の庶民地区でナーセル時代のアパートの並ぶ地域の保健所で、多くの人でごった返していた。私の番が回ってきて、「ワクチンはシノファームだけで、3週間後に必ず2回目を接種すること」と言われた。6月中旬に日本帰国を予定していたために、折角の機会だったが諦めざるを得なかった。ワクチンには後日談があって、結局同年9月半ば、偶然にもジョンソン・アンド・ジョンソンを接種し、QRコード付きワクチン証明を得ることができた。そのいきさつは、カイロで外国人はジョンソン・アンド・ジョンソン(1回の接種で2回接種の効力)を接種できるという噂を聞き、指定された保健所を早朝飛び込みで訪ねた。すると現場で携帯手続き、接種してから保健省のサイトに登録、接種後1時間半ほどで証明が発行という流れであった(写真2)。パスポートを見せるだけで全てが済んでしまい、この時も、エジプトはなんだか不思議な国と実感した。エジプトに住み着く人は、こんなところに魅力を感じているのかもしれない。

 6月末には、エジプト入国がワクチン接種証明で可能となった。7月には、一人暮らしの邦人が自宅で亡くなっていたという悲しい知らせが届く。生前には事務所主催の懇話会の常連で、2020年3月に開催された対面最後の懇話会にも参加してくださった。死因は不明ながら、ちょうど私が6月の日本帰国中、図書の返却に事務所を訪れられたと聞き、何かできることはなかったのかと無念に感じた。昨年度以来、近所の日本人とは会う機会もあったが、現実の社会との接触が少なくなっていることは事実で、隠遁生活の中からいつもと違う問題や悩みが生じていることは確かだ。

 8月には、複数の日本からの研究者を事務所に迎えた。ほぼ1年半ぶりのことである。日本での大学等での出張手続きが大変だったとうかがった。私自身も長い蟄居からなんとか現実の動きを活性化させたいという意向で、あまりの開発惨状に対する処方として、日本の文化庁の援助での旧市街プロジェクトを始める準備にとりかかる。9月には去年はオンラインとしたアルムナイの総会を対面で開催し、日本大使ほか50名を超える人々が集まった。

 日本のコロナ禍の外国人受け入れに対する重装備な対応は、エジプト人研究者の日本訪問にも大きく影を落とした。研究ヴィザは難しいとのことで、教育に携わるということを証明し、教育ヴィザを出してもらった。しかしながら、11月末にはヴィザがあっても空港で日本の対応を根拠に搭乗を拒否されることもあった。いくつかのレターを提示しても、偽物と疑われ、泣く泣く空港から自宅へと戻った研究者もいた。オミクロン株でヴィザ規制がさらに厳しくなり、12月2日よりすべてのヴィザが停止され、ちょうどその日に日本に到着したエジプト人研究者の場合、到着直後は入国不可と言われ、入国管理局に経緯や来日の目的を説明、受け入れ側日本の教授に照会電話があり、本人の研究テーマがCOVID-19の診断技術に関するもので、その重要性について説明した結果、最終的に入国が認められたということもあった。まさにコロナ状況下でなければ経験できなかったことである。

【2022年以後;全てが元通りに】
 その後、2022年からはカイロでは、次第にすべてのことが普通に戻っていった(写真3)。2022年は、日本への帰国時の隔離日を除けば普通の日々を過ごすことができた。コロナ関連で特筆せねばならないのは2回目のワクチン接種と、今までオンラインだった懇話会を対面と併用にしようとした時の、苦い経験である。2022年6月、対面の懇話会に出席された方が陽性になり、私を含め数名が濃厚接触者となってしまった。エジプトには濃厚接触者という縛りはないが、エジプトでも日本人社会には厳しい掟がある。体調には全く変化はなかったが、主催者側の大変さを思い知ることとなった。

 幸い、期間を通して罹患の実感はなく、エジプト人と同じで単に検査をしなかっただけかもしれないが、今振り返ってみると、さまざまな社会の変化を感じる。2020年1月から21年の12月までの2年間、グローバル化と言われる時代がいかに脆弱か、そして半ば軍政のエジプトで着実に起きつつあった一方的な開発、対面とオンラインの相違あるいはオンラインのメリットとデメリット、人間の靭性、社会的生活の遮断による心的変容、さまざまなことが提示されたように思う。わたしたちは、コロナを生き抜き、この期間に何が起こったのかをきちんと捉え、良い方向へと舵きりしていかねばならない。

写真1 2020年8月15日メヌーフィヤ大学で開催されたJSPSの説明会、全員がマスクをしているわけではない。

写真1 2020年8月15日メヌーフィヤ大学で開催されたJSPSの説明会、全員がマスクをしているわけではない。

写真2 エジプトのワクチン接種証明。Q Rコード付きである。

写真2 エジプトのワクチン接種証明。Q Rコード付きである。

写真3 2022年3月16日マンスーラ大学の医学部のシンポジウム、医療関係者でもマスクをする人はほとんどいなくなった。

写真3 2022年3月16日マンスーラ大学の医学部のシンポジウム、医療関係者でもマスクをする人はほとんどいなくなった。

書誌情報
深見奈緒子「《エッセイ》コロナ禍のエジプトと私」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』2, EG.2.02(2024年4月1日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/egypt/essay03/