アジア・マップ Vol.02 | エジプト

エジプトの自然と景観から
モーゼ山を含むシナイ半島

西尾哲夫(国立民族学博物館 名誉教授)

 シナイ半島はアラビア語では、シブフ・ジャズィーラト・アッシーナーである。シナイという言葉の語源は、アラビア語と同じセム語族の系統に属するアッカド語でシン(sin)と呼ばれる月の神の名前に由来するとされる。山脈の形状が歯に似ているので、歯を意味するセム語系の言葉シンヌあるいはセンから来ているという説もある。

 基本的に乾燥地帯であり、冬は雨期となる。夏は内陸部の沙漠では気温が40度以上に達するが、冬は沿岸部のトゥールなどの町では20度前後まで下がり、内陸部の沙漠や山岳部では0度近くになる。ただし聖カトリーヌ修道院がある山間部は標高1,600メートルをこえており、真夏でも30度程度、カトリーヌ山頂付近では25度前後である。逆に冬の寒さは低地部に比べてはるかに厳しく、雪が降ることもある。

 逆三角形のような形をしたシナイ半島は、ユーラシア大陸とアフリカ大陸の接点に位置している。広さは約61,000平方キロメートルであり、四国と九州をあわせた面積にほぼ等しい。地理条件のため、古来よりアジアとアフリカをつなぐ陸路での人口移動の通過地点となった。北は地中海、東はアカバ湾、西はスエズ運河とスエズ湾、紅海に面しており、インド洋海域世界と地中海世界を結ぶ海路の中継地点ともなった。

 『旧約聖書』の舞台ともなり、モーゼ(ムーサー)ゆかりの地が多い。モーゼが、シナイ山頂で十誡を受けた聖書の話はあまりにも有名だが、シナイ半島にはいたるところにモーゼゆかりの場所がある。聖カトリーヌ修道院のあるモーゼ山(ジャバル・ムーサー)は聖書に出てくるシナイ山と考えられている。またモーゼ山の南麓にあるワーディ・アルアルバイーンには「モーゼの岩」(ハジャル・ムーサー)がある。聖カトリーヌ修道院の修道士や南シナイのベドウィンたちは、モーゼがこの岩を叩いてイスラエルの民のために水を出したと信じている。いわゆるホレブの岩である。現在では水は出ていないが、かつては巡礼者たちがここで岩清水を求めていた。この岩には、後に十字架が刻まれたが、実はもとから十二本の刻み目があった。この刻み目こそがクルアーンのなかでモーゼが岩を叩いて水を出したときに出た「十二の泉」だと信じられている(『クルアーン』第2章60節/第7章160節を参照)。この岩のもとから湧き出た清水が地下を通ってワーディ・フェイラーンまで至り、そのおかげでフェイラーンはいつも緑におおわれているのだと信じている。

 シナイ半島は地勢的に北部と南部に区分できる。北シナイは比較的平坦な沙漠地帯であり、南シナイは急峻な山岳地帯が大部分を占める乾燥地帯となる。人口は、北シナイでは地中海沿岸やスエズ運河東岸の町に集中しており、内陸部の沙漠地帯は遊牧民の居住地域となる。南シナイでは、トゥール、ダハブ、ヌウェイバなどの沿岸部の町と、ワーディ・フェイラーンから聖カトリーヌ修道院へいたる地域に人口が集中しており、内陸部のワーディ(涸れ川)沿いに遊牧民の村が点在する。南北シナイの二地域は自然環境の面でも異なっているだけでなく、歴史的・社会経済的にみても二つの地域とみなせる。北部は基本的に東西の人間移動の通過地点であったが、南部ではイスラームの拡大にともなうアラブ系諸部族の移動がはじまると、袋小路になるという半島特有の地理的事情もあってか、進入してきた多くの部族がそのまま留まって諸部族の居住地域が複雑に錯綜することになった。

 山岳部の多い南シナイには高い岩壁にはさまれたワーディがいくつもあるが、岩に降り注いだ雨はいったん地下にすいこまれ、岩盤のあいだを抜け、泉として地表に湧出する。セールというアラビア語はワーディを流れる洪水を意味すると同時に、ワーディなどに自生するアカシア科の木も指している。セールの木は格好の木陰を提供するだけでなく、小さな赤い実はラクダの好物でもある。高度差があって多くの気候変動を経験したシナイ半島では現在までにおよそ1,000種類の植物が確認されており、これはエジプトで確認されている植物種総数の約45パーセントにあたる。

 沙漠が広がるシナイ半島にも多くの動物が暮らしているが、ベドウィンの生活と関係が深いのはサソリや毒蛇のような有害動物、食肉や水袋用の皮をとるトカゲなどの動物、家畜や人間を襲う肉食獣などである。キツネやイタチのほかにも、絶滅に瀕しているが南部の山岳部にはクマやヒョウの存在も確認されている。クマ(シーブ)は前世紀に姿を消したらしいが、ヤマネコよりひとまわり大きいヒョウ(ニムル)は現在も岩山にひそんでいる。子どもを食べたヒョウに復讐した場所だと伝えられる所には、「ヒョウの岩」という地名も残っている。オオカミに似たズィーブもおそれられているが、ベドウィンのフォークロアによく登場するのは、ハイエナに似たザブアという動物である。

 シナイ半島には新石器時代の遺跡があり、古代エジプト時代には銅やトルコ石を産した。当時の労働者が残した文字は原シナイ文字とよばれ、アルファベットの起源と考えられている。西暦6世紀にはユスティニアヌスⅠ世が聖カトリーヌ修道院を建設、中世には多くの巡礼が訪れた。イスラーム時代にはアラブ部族が進入し、16世紀にオスマン帝国の支配下に入ると、サワールハやムゼイナなどの大部族が移住してきた。第3次中東戦争の結果、1982年にエジプトに返還されるまでイスラエルの占領下におかれ、半島全体が両国の国境と位置づけられることになった。イスラエル占領時代、道路などの社会的インフラの整備がすすんだ。返還後は、エジプト政府により観光業を中心に産業の振興がはかられた。だが今の南シナイには、かつての面影はあまりない。アルカーイダの流れをくむ集団の活動が活発になっていた時期もある。ただ現在は比較的安定が戻ってきており、2022年にはエジプト政府がホスト役を務めた、国連気候変動枠組条約第27回締約国会議(COP27)が開催された。

 最後に最近の話題から一つ。現在、中東地域にあるキリスト教関係の写本や文書類のデジタル化による保存作業が各地で進んでいる。聖カトリーヌ修道院に保管されている膨大な文書群もその対象だが、パリンプセストと言われている一群の羊皮紙文書が調査の過程で発見された。羊皮紙というのは名前の通り羊やまれには牛の皮からそれを丁寧になめして作る。一頭の羊から何枚もとれない貴重なものだったから、古くなったり用がなくなったりした羊皮紙を再利用していた。表面を薄く削ったり薬品を使ったりして、書かれている文字をうまく消してからその上に新しく書いていった。聖カトリーヌ修道院が保存していた古い羊皮紙文書を分析してみると、有名な聖書のシナイ写本よりももっと古い時代の文章が書かれていることがわかった。なかには失われた言語によるものもあって国際的な研究チームがその解読にあたっている。

モーゼ山麓にある聖カトリーヌ修道院

モーゼ山麓にある聖カトリーヌ修道院

南シナイに暮らすベドウィン

南シナイに暮らすベドウィン

南シナイのワーディ・イスラ

南シナイのワーディ・イスラ

書誌情報
西尾哲夫「エジプトの自然と景観から モーゼ山を含めたシナイ半島」『《アジア・日本研究Webマガジン》アジア・マップ』2, EG.6.01(2024年4月1日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/egypt/essay04/