アジア・マップ Vol.02 | イラン

ペルシア文学(総説)

中村菜穂(大阪大学大学院人文学研究科・講師)

 イランには悠久の時が流れている、と人はいう。どこまでも続く広大な大地、草木のない土色の山々、遮るもののない紺碧の空。テヘランの喧騒を離れて、ひとたび街の外に出れば、この土地をかつて旅した詩人たち、学者たち、修行者、歴史上の人物たち、各々の時代の軍勢や、流浪の民、彼らもまた同じ風景を見たのだと、感慨を抱かずにはいられない。しばしば言われてきたように、ペルシア文学を生み出した土壌は、たしかにイランの地理・自然的条件と不可分であるにちがいない。日本でも愛読されているペルシア詩人オマル・ハイヤームの『ルバーイヤート』には、そのような、イランの人々の地理・時間的な感覚や根源的な世界観が映し出されている。岩波文庫の小川亮作訳から引用してみよう。

われらが来たり行ったりするこの世の中、
それはおしまいもなし、はじめもなかった。
答えようとて誰にはっきり答えられよう――
 われらはどこから来てどこへ行くやら?

あるいは、

ああ、全く、休み場所でもあったらいいに、
この長旅に終点があったらいいに。
千万年をへたときに土の中から
草のように芽をふくのぞみがあったらいいに!

 イランを旅し、美しい庭園や壮麗なモスクを訪れるにつけても、私たちがそこに住む人々の考え方や人生観を知る一番の手がかりとなるのは、その言語で書かれた文学である。イランの公用語であるペルシア語は、西暦7世紀半ばにサーサーン朝がアラブ・イスラーム軍によって征服されてから、同地で話されていた言語にアラビア語の文字と借用語を取り入れて、約2世紀後に成立したもので、言語学のうえではインド・ヨーロッパ語族、インド・イラン語派に属する言語の一つで、近世ペルシア語と呼ばれている。今日、ペルシア語といえば多くの場合、この近世ペルシア語を指している。驚くべきことに、ペルシア語は、一千年の昔から今日にいたるまで、ごくわずかしか変化を被っていない。約千年前に書かれたフェルドウスィーによる民族叙事詩『王書(シャー・ナーメ)』を、現代の人も、多少の勉強は必要であるとはいえ、原語で楽しむことができるのだ。これは、アラビア語の『クルアーン』が厳格に不変性を保つ一方で、いわゆる書き言葉(正則語)と民間の話し言葉が大きく乖離していったことに比べても、ペルシア語の特徴といえるだろう。

 ペルシア語は詩の言語であると言われる。それは、この言語が持つ響きの美しさや、簡素でかつ含蓄に富む日常語彙のためでもあるが、この言葉によって生み出された詩文の数々がペルシア語のなかで格別な地位を占めていることにもよっている。

 現在のイランから中央アジアにかけての地域がイスラーム化された後、学問・宗教の共通語はアラビア語であり、中世ヨーロッパに名を知られたイブン・スィーナーやザカリヤー・ラーズィーのような、著名なイラン系学者たちも多くがアラビア語で執筆を行った。ペルシア語による詩作はアラビア語の韻律形式を取り入れて9世紀半ば以降に発展し、あまたの綺羅星の如き大詩人たちを生み出した。9-10世紀サーマーン朝の宮廷詩人でありペルシア詩の祖と称されるルーダキー、イラン古来の神話・伝説を集めた民族叙事詩『王書(シャー・ナーメ)』を韻文によってまとめあげた大詩人フェルドウスィー、イスマーイール派の哲学詩人ナーセル・ホスロー、数学者・天文学者であり四行詩集『ルバーイヤート』の作者として有名なオマル・ハイヤーム、『ホスローとシーリーン』や『ライラーとマジュヌーン』の恋物語を含む5部作の叙事詩作品を著したニザーミー。12世紀以降顕著になるイスラーム神秘主義文学では、『鳥の言葉』などの象徴的物語の作者アッタールに続き、大神秘主義詩人と称えられるジャラールッディーン・ルーミー(イランでは「わが師・われらが師」の意味でモウラヴィーまたはモウラーナーと呼ばれる)が現在のアフガニスタン、バルフに現れ、やがてトルコのコンヤに拠点を置いた。また同じ時代のシーラーズには、サアディーが世に出て、長い旅の後、故郷で教訓文学作品『薔薇園(ゴレスターン)』を執筆する。その1世紀後には、イランで最も敬愛されるシーラーズの詩人ハーフェズが、それ以前の神秘主義的語法や伝統詩の様々な要素を凝縮した「神秘的」言語によって数々の抒情詩(ガザル)を詠んだ。15世紀、ヘラートの巨星と呼ばれたジャーミーは、代表作『ユースフとズライハー』のほか先人にならって多くの神秘主義的物語を執筆した。

 以上は数世紀間にわたる膨大なペルシア語による著作のなかの最も有名な詩人たちとその作品である。ペルシア・アラブの伝統的な見方で文学といえば第一に詩、すなわち韻文によるものを指し、古典文学の作者といえばほとんどが詩作を行った人々である。一方で、現代に伝わる優れた散文作品としては、11世紀ガズナ朝の史書『バイハキーの歴史』や、教訓文学の名著として知られるカイ・カーウース『カーブースの書』、セルジューク朝期の宰相ニザームルムルクによる『統治の書』(または『政治の書』)などがあり、当時の学問的水準や知的戦略・営為を窺うことができる。とりわけモンゴル期以降には多くの歴史書が編纂され、なかでもラシードゥッディーン『集史』が傑作として名高い。近年、その続編とも称されるカーシャーニーによる『オルジェイトゥ史』の優れた邦訳が刊行された。そのほか、関心をお持ちの方には黒柳恒男著『ペルシア文芸思潮』(初版1977年、増補新版2022年)と巻末の文献案内を参考にしていただきたい。

 ペルシア文学の時代と場所について、以下に少し付け加えておきたい。ペルシア文学(Persian literature)といえば、一般には近世ペルシア語による文学を指し、したがってイスラーム期の文学がその対象となる。しかしながら、それ以前の文学とも関連性がないわけではない。また16世紀に始まるサファヴィー朝は、シーア派を国教に定め、現在のイランの基礎を築いたといわれる。同朝下では建築や美術はおおいに花開いたものの、政権は詩人たちを庇護しなかったために、ペルシア詩人たちの多くがインドのムガル朝へと移っていった。また、現在の国境が画定される以前、ペルシア詩は詩人や人々の移動とともに地域を超え、東は中央アジア、北インド、西はアナトリア、バルカン半島にまで及んだ。これらの地域には母語とペルシア語のバイリンガル(もしくは複数言語の)詩人たちがいたことも興味深い。インド出身のペルシア語詩人として古くは13-14世紀のアミール・ホスローが知られており、17世紀以降ではベーディル(ペルシア語ではビーデル)が注目される詩人の一人である。近代ではパキスタンの詩人として知られるムハンマド・イクバールも母語のウルドゥー語のほかペルシア語で詩作した。

 19世紀から20世紀にかけて、近現代のイランでは国民国家の枠組みのもとに、ペルシア語の純化運動や、伝統文学の批判的継承および新しい文学への模索の動きが見られた。立憲革命を中心とする政治的文学の一時代の後、現代詩においてはニーマー・ユーシージに始まる新しい形式の詩が編み出され、ジャマールザーデやサーデグ・ヘダーヤトらによって近代小説の時代が幕を開けた。ペルシア文学は、広い意味では現代文学までを含むものの、形式と内容の点で古典文学と現代文学には大きな隔たりがあると言ってよいだろう。ともあれ、現代のイランにおいては古典の巨匠たちも現代の詩人・作家たちも同じく重要な精神的遺産であり、人々の日々の心の糧となっていることに変わりはない。

カーシャーン近郊の風景(2023年3月)

カーシャーン近郊の風景(2023年3月)。

テヘラン市内、路上に面して貼られた文学関連の催しのポスター(2023年3月)

テヘラン市内、路上に面して貼られた文学関連の催しのポスター(2023年3月)。

書誌情報
中村菜穂「《総説》ペルシア文学」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』2, IR.1.01 (2024年4月1日掲載)
リンク:https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/iran/essay03/