アジア・マップ Vol.02 | イラク

イラクの自然と景観から
チグリス河

近藤久美子
(大阪大学大学院人文学研究科・教授)

舳先の灯りを煌々と水面に映して
チグリスの流れをゆくザウラク(船)
カリフや高官たち、女たちの騒めきが
バグダードの夜空の下に繰り広げられる饗宴

『アラビアン・ナイト』を中心に、中世アッバース朝期の文学を研究していた私は、先述のような光景をしばしば夢想し、憧憬の念を持っていた。

 初めてそのチグリス河を間近に見たのは、1998年にバグダードとバビロンを訪問した際であった。陸路アンマンからバグダードに入り、宿泊したのが市内屈指のマンスール・メリア・ホテルである。自室のバルコニーから眼下にあのチグリス河が流れている。夜だというのに何枚も写真を撮ってみた。

 憧れていたチグリス河。

 幅が・・・・・・ 「意外と狭い」と感じたのだ。それは私が以前住んでいたカイロのナイル河と比してしまったからだろう。ナイル河はカイロあたりだと中の島を二つ三つ並べ、その両側をゆったり流れている。眼下のチグリスはその中の島の東岸から街の西岸(コルネーシュ)くらいではないかとおもった。

 イスラーム王朝史の中でも、バグダードは西暦8世紀に建設された比較的あたらしい羅城である。なぜその場所をアッバース朝の帝都にしたのかについては、さまざまな説が述べられている。旧帝都ダマスカスとペルシアから遠く、チグリス・ユーフラテス両河の間が最も狭いところにあった小さなキリスト教徒らの村が新都に選ばれ、2代目カリフ、マンスールが自ら最初の煉瓦を地面に据えたのは762年のこととされている。

 チグリス河を使った水運、またひとびとの生活に欠かせない水をこの河は帝都に供給している。バグダード建設に風水を取りあげるひともいる。都のそばには水の流れが必要であるという。

 私が、この街に住むことになった時には、いくつかの長期滞在用ホテルを見て回った。クルマで案内してもらった時に、東へ西へとチグリス河の橋を渡って探し、あたらしい街区であるカッラーダ地区のホテルに落ち着いた。

 旧都跡の南のカルフ地域と、チグリスを渡った東側のルサーファは、のちに淀川をめぐる摂津と河内のことを思い出させた。カリフ、マフディーのために造られたルサーファと西岸カルフは、じつは方言が違うのだそうで、互いに「カルフの方がいい」「ルサーファに生まれてよかった」などと言い合っているのを耳にした。大統領誕生祭など、イラクの各県代表がさまざまな出し物をしていたが、バグダード県はカルフとルサーファに分かれての参加であった。

 カルフ側に大きな公園があり、その対岸のチグリス河に沿って延びる道は「アブー・ヌワース通り」と稀代の詩人の名を冠している。私が訪れた時は経済的な制裁をイラクが受けている時であり、物資や食糧が少なくなった時もあったが、アブー・ヌワース通りは賑わい、多くの川魚を料理する店が並んでいた。

 マスグーフ、というこのバグダード名物の川魚料理はとくにそこが有名である。チグリス河の魚を獲って生簀でしばらく泳がせておく。客は自ら生簀を見て魚を選ぶ。この魚は何という名前か尋ねると、料理人は一匹一匹その特徴で呼んでいる。これらの魚は料理店の生簀だけではなく、手押し車に乗せられて市内でも売られている。まだ生きて水を跳ねる、「テテ噛む」状態で買うことができる。

 さてマスグーフ、客が選ぶと料理人は網で魚を引き揚げ、まな板の上に乗せて棒で頭を叩く。これで魚は動かなくなり、ゆっくり開かれていく。真ん中に包丁を入れ二枚にすると、それを平らな木の棒に挟んで直火の遠火でゆっくり焼き上げていく。もちろん注文してから供されるまでは一時間ほどかかる。癖のないこの白身の魚には、オレンジやレモンが絞られる。焼き上がりを待つまで、前菜やスープなどでおなかをもたせているので、最後に出されるマスグーフのあっさりとした白身は待たされた分なお美味である。

 『アラビアン・ナイト』にはバグダードの「漁師」の話を扱ったものがいくつかある。投網を河に投げて日々の糧を得る漁師たちは、時に出会った相手をカリフと知らずに着物を交換してみたり、時に川底からあらぬ物を網で引き揚げたりしている。シンドバードが大海に乗り出してさまざまな冒険をするのとは趣がちがうが、バグダードの人々がこの河の中に「何か不思議なもの」が、「あってもおかしくない」と思うのは自然なことだろう。じっさい、海から遠く離れたバグダードに於いて、あやしいものと遭遇する「水辺」はこのチグリス河だけなのである。

 バグダード大学の友人は、この河の色が変わったことを見てきたように話してくれた。モンゴルによるバグダード征服時に、殺された人々の血で河の水は赤くなったそうである。そして翌日には図書館などから河に棄てられた書物のインクが流れ出して、河の水は黒くなったそうである。

 チグリス河の「テテ噛む魚」が町なかで行商されていることを書いたが、夏が近くなると道端に巨大な横長のスイカが積み上げられて「ラギー、ラギー!」と呼びかけられる。スイカはアラビア語では「バッティーフ」(ビッティーフとも)と言うのだが、なぜ「ラギー」なのだろうかと声高に呼びかけているオヤジさんに尋ねてみた。

 「ラカで採れてすぐに運んできたんだ」と言うので、「ラカの」と言う意味で言っているのだろう、どこの売り場でもそう言っており、ラカと言うのが「スイカの名産地」なのだと知った。ラテン字転写だとraqatになるが、イラクの方言ではqの音がgになるので、ラキーではなくラギーになるのだと、道を歩くのがつらくなる暑い日差しの中で考えていた。「なんだ、買わないのか?」と売り場のオヤジさんは言うが、「だって持てないもの……」。大きさは日本の丸いスイカを横に二つ並べたくらいのものだ。「クルマで来いよ」とオヤジさんは言うが、結局買う機会はなかった。

 そのラカという場所の近くに、サーマッラーという古都がある。アッバース朝の首都がバグダードというのは知られているが、第8代カリフ、ムウタスィムの時代にサーマッラーに遷都したことがある。バグダードはその前のカリフたち、アミーンとマァムーンの争いで荒廃し、またマムルーク軍たちの台頭もあり、ムウタスィムは首都をバグダードより北のチグリス河沿にある町に遷移したのである。それからほぼ50年はそこが首都であった。バグダードからサーマッラーに「遠足」に行かないかという誘いがあった時は一も二もなくクルマに乗った。チグリス河に沿って北上して一時間ほど、途中の「宮殿跡」の見学もした。3階建てほどの宮殿には、階段ではなく広いスロープで上がっていく。当時からのものだそうで、下馬することなく上の階に上って行けるようになっているという説明を聞き、バグダードの町の城壁もそのようになっていたとどこかで読んだ記憶が蘇った。「今では……」案内してくれるひとがため息半分に「バイクで乗りつけて走り回る連中がめちゃくちゃにしてしまうんだ」と言っていた。

 スッラ・マン・ラアー(見る者を喜ばせる)がその名の原意と言われるサーマッラーは、やはり有名な螺旋状のミナレットが目を引く。私の恩師もそのミナレットに上がり、「上にいくにつれ段々内側の壁にくっつくようにして上がる」話を聞かせてくれたことがあった。螺旋状のスロープには内側に手すりがついているだけで、外側には柵も何もない。上がっていくにつれ、恩師が語ってくれたように、皆が内側の手すりにへばりついていくため、足もとの土がえぐれている。頂上は直径2メートルほどのただの「てっぺん」で、サーマッラーを足もとに、イラクの大地が広がっているのを見ることができる。ここはバグダードとは違い、鄙の地になるので、チグリス河も、両岸に広い草むらを抱えて流れている。草むらは水量が増えて氾濫しそうになったときに調整する役があると案内人が教えてくれた。

 そこからまた一時間ほどクルマで南下すると大都会であるバグダードに入り、チグリスの両岸はコンクリートの岸壁になってしまう。サーマッラーの空の下のチグリス河は、投網を肩にかけた漁師たちが出かけていく光景を思い浮かべることができた。

写真1

近藤久美子「イラクの自然と景観から チグリス河」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』2, IQ.6.01(2024年5月8日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/iraq/essay03/