アジア・マップ Vol.02 | パレスチナ
《エッセイ》パレスチナと私
ガザ戦争から1年:「導火線」としてのエルサレム
「呼び名」に込められた意味
2023年10月から今日まで続くガザ戦争は、アラビア語でしばしば「アクサーの洪水」の戦いと表現される。その理由は単純で、今般の戦争が起こる直接的なきっかけとなったハマースの奇襲攻撃が「アクサーの洪水」と命名されているからである。ここでの「アクサー」とは、エルサレムにあるイスラーム第三の聖地アクサー・モスクのことである。アラビア語でアクサー・モスクと言った場合、日本で一般的にハラム・シャリーフや神殿の丘と呼ばれる空間を指すことが多い。
ハマースが拠点とするガザ地区とエルサレムのアクサー・モスクは70km以上も離れている。なぜハマースは、2023年10月7日の軍事作戦に、ガザから遠く離れたアクサー・モスクの名を冠したのだろうか。アクサー・モスクは、ムスリムにとって大切な聖地であるとともに、パレスチナ人にとっては民族的なシンボルでもある。そのため、エルサレムや聖地に直接関連しなくとも組織名称などに「アクサー」という語が使われることは珍しくない。しかし、ハマースが今回の作戦をアクサー・モスクと関連付けた背景には、より明確な理由があった。ハマースは近年アクサー・モスクが憂慮すべき危機的な状況に置かれていると考え、今回の大規模攻撃を仕掛ける動機の一つにアクサー・モスクをめぐる問題を挙げたのである。
2023年10月に始まった戦争によって、ガザという「主戦場」には大きな注目が集まるようになった。日本国内の報道でもハーン・ユーニスやラファハといったガザ地区の地名が当たり前のように登場し、2007年頃からハマース支配下のガザ地区に課されてきた「ガザ封鎖」の非人道性に目が向けられることも増えた。しかし、ガザだけに焦点を絞ってもガザ戦争を総体として理解することはできない。この戦争の背景を掴み、戦後の展望を構想する上では、多方向に伸びるガザ戦争の「導火線」を辿っていく必要がある。ハマースが自らの奇襲攻撃を「アクサーの洪水」と名づけたことに象徴されるように、エルサレムをめぐる紛争は見逃すことのできない導火線の一つである。ここでは、ガザ戦争の勃発から1年を迎えたこのタイミングで、改めてエルサレムと聖地の問題に目を向けてみたい。
アクサー・モスクの「危機」とは何か
ユダヤ教、キリスト教、イスラームの聖都として名高いエルサレムは、三大一神教の有名な聖地がひしめくユニークな都市である。なかでもユダヤ教とイスラームにとって最も重要な聖地はハラム・シャリーフ/神殿の丘である。ハラム・シャリーフはイスラーム側の呼び名で、アラビア語で「高貴な聖域」という意味である。パレスチナ人は多くの場合、日本語で一般的にハラム・シャリーフと呼ばれる区域をアクサー・モスクと呼ぶ。アクサー・モスクという名称はイスラームの聖典クルアーンのなかに登場し、預言者ムハンマドと縁の深い場所として尊ばれている。他方、神殿の丘という呼び名は、ユダヤ教徒や欧米のキリスト教徒が一般に使用する呼称であり、2000年以上も前のローマ帝国時代にこの場所に存在したユダヤ教の神殿に由来している。なお日本でもよく名前が知られる「嘆きの壁」はこの神殿の西側の遺構であり、ユダヤ教徒は「西の壁」と呼んでいる。
ハマースが10月7日の奇襲攻撃を「アクサーの洪水」と命名したのは、この聖地が危機に瀕しているという認識が攻撃に至る一つの動機だったからである。それは、単純に言えば、イスラエル政府がアクサー・モスクをその手中に収めつつあること、そして、聖地を訪れるユダヤ教徒が急増し、彼らが礼拝の権利を強く要求するようになったことを指している。
イスラエルは1967年の第三次中東戦争(六日間戦争)でハラム・シャリーフ/神殿の丘を含むエルサレム東部を占領・併合した。だが、聖地管理においては1967年以前のヨルダン統治期の慣行を踏襲し、ヨルダン政府の宗教行政機関に管理を委ねた。また聖地における諸信徒の権利については、ムスリムが完全な聖地入構権と礼拝権を持つ一方で、ユダヤ教徒を含む非ムスリムは、ムスリムの宗教実践を邪魔立てしない限りにおいて訪問が可能であるが、礼拝行為は全面的に禁止されると取り決めた。明らかにムスリムの権利を優先する措置だったと言えるが、その背後には、エルサレムの占領に伴う国際的な反発を可能な限り避けようとする現実的な判断があった。
しかし、この聖地管理のあり方は2000年代に入ると徐々に改変されていった。きっかけとなったのは、1990年代にイスラエルとパレスチナ人の和平プロセスが開始されるとともに、神殿の丘に特別な関心を寄せるユダヤ教徒の運動が活発化したことである。ユダヤ教の伝統的な解釈では、神殿崩壊後、神殿の丘にユダヤ教徒が立ち入ることは禁忌であり、イスラエル政府の宗教行政を司る首席ラビ庁も1967年以降、一貫してこの見解を維持してきた。1990年代に支持を得るようになった運動は神殿の丘への立ち入りと礼拝の権利を擁護する新たな宗教解釈を提示したのである。
2000年代に入るとイスラエル政府は、占領地で拡大した民衆蜂起と情勢の緊迫化に乗じて、治安維持の名目で聖地管理への介入を深めていった。従来、ヨルダン当局が握っていた権限は大幅に縮小され、イスラエル政府は聖地への入構を希望するユダヤ教徒の期待に応えて、その動きを後押しするようになった。またそれと同時にムスリムが聖地を訪れる権利もたびたび規制されるようになった。今日、ハラム・シャリーフ/神殿の丘では、全ての通用門にイスラエル治安当局の人員が配備されているが、それも2000年代に始まった新しい現象である。
さらに、2010年代に入ると、イスラエル政治の右傾化とともに、ユダヤ教徒による神殿の丘への訪問と礼拝権の要求はますます加速していった。この頃から、数十人のユダヤ教徒の団体が治安部隊の護衛のもとで聖地を練り歩く光景は日常化し、以前は護衛役の治安部隊から固く禁じられていた礼拝行為も目立たないレベルであれば大幅に許容されるようになった。また、ユダヤ教徒が聖地を訪れる際に、無用な軋轢を避ける目的から、ムスリムの入構や聖地内での行動が規制されるようになり、パレスチナ人は不満を募らせた。2010年代の後半からは、特に、多くのユダヤ教徒が入構を要望するユダヤ教の祝祭日や多くのパレスチナ人信徒が聖地を訪れるラマダーン月(とりわけ最後の10日間)に、聖地とその周辺でイスラエル治安当局とパレスチナ人の衝突が毎年のように繰り返されるようになった。
ハマースの軍事部門「カッサーム軍団」の指導者であるムハンマド・ダイフやハマースの前政治局長であるイスマーイール・ハニーヤは、10月7日の攻撃に際して、国際社会のパレスチナ問題に対する無関心などと並び、イスラエルによるアクサー・モスクの冒涜に言及し、それを看過しないという立場から攻撃を起こしたと述べている。彼らが念頭に置いていたのは、特に2010年代に深刻化した、聖地を取り巻く上述のような苦境だったのだろう。
ハラム・シャリーフ/神殿の丘が置かれた状況に危機感を持っていたのはハマースだけではない。2021年にヨルダン川西岸地区とガザ地区のパレスチナ人を対象に実施された1000人規模の世論調査で、「イスラエルが〔エルサレムにある〕シャイフ・ジャッラーフ地区からパレスチナ人の家族を追放し、アクサー・モスクへの「侵入」と〔ムスリムによる〕礼拝の制限を続けた場合、ハマースやパレスチナ人はどうすべきか?」という質問に対して、イスラエルに対するロケット弾攻撃と回答した割合が最多の六割を占めた。聖地が危機に瀕するなかで武力による対抗も辞さないと考えるパレスチナ人は少なくなかったのである。ハマースが10月7日の攻撃に際してアクサー・モスクを自らの軍事作戦の大義名分として利用したと解釈することは確かに可能だが、その論理が十分な説得力を持つ素地があったことは見逃せない点である。
次なる戦争への導火線?
ハマースが大規模攻撃を起こす動機として挙げたアクサー・モスクの危機の構図は、ガザ戦争以降も変わっていない。今日イスラエル政府のなかでひときわ強硬にパレスチナ人の権利を抑圧しようとしているのは、極右政党「ユダヤの力」の党首であるイタマル・ベン=グヴィール国家治安大臣である。2022年末に成立したネタニヤフ政権で初入閣を果たした彼は、長らくヨルダン川西岸地区に住む暴力的なユダヤ人入植者などの権利を擁護する弁護士としてその名を知られてきた。パレスチナ人に敵対的な姿勢を明示し、過去には人種差別的な言動によって有罪判決を受けたこともある。現在のガザ戦争をめぐっては、停戦を「ハマースに対する譲歩」と捉え、停戦交渉の妥結に強く反対する非妥協的な立場をとっている。
ベン=グヴィールはガザ戦争以前から、神殿の丘におけるユダヤ教徒の権利拡大とイスラエル主権の貫徹を再三にわたり主張し、自ら複数回にわたり聖地を訪問してきた。直近では2024年8月の「神殿崩壊日」(ユダヤ教の祝祭日の一つ)に支持者を引き連れて神殿の丘を訪れた。その際に彼は、ユダヤ教徒の入構に関する全ての制限を撤廃し、礼拝の権利も正式に認めると発言した上、イスラエル国旗の掲揚や礼拝所の設置までも要求した。これに対しては、ユダヤ教超正統派の議員などを中心に物議を醸したほか、ネタニヤフ首相も政府見解として聖地の現状改変をほのめかすベン=グヴィールの発言を否定している。その一方で、2024年9月にはベン=グヴィールの主張に賛同する人物がエルサレム行政区の警察署長に昇格されたと言われており、予断を許さない状況が続いている。このほか、ベン=グヴィールは2024年2月、イスラーム暦のラマダーン月を前に、この時期に聖地を訪れるパレスチナ人の信徒数を大幅に制限する提言を行い、さらに3月には、通例ムスリムだけが入構できることになっていたラマダーン月の最終10日間にユダヤ教徒の訪問も認めるよう呼びかけた(いずれの提案も関係各位の支持が得られず頓挫)。一連の言動からは、彼がユダヤ教徒の利害を最大限尊重し、聖地管理のあり方を変えるべく様々に画策していることが分かる。
今のところ彼の立場がイスラエル政府のなかで幅広い支持を得ているとは言い難い。しかし、なにより国家治安大臣としてのベン=グヴィールは、治安機関の行動にも一定の影響力を持つ重要な立場にある公人であり、聖地管理に関わるその扇動的な言動を野放しにしているイスラエル政府の姿勢はパレスチナ人の不安をかき立てている。また、かつて、1990年代に台頭した神殿の丘に特別な関心を寄せるユダヤ教徒の主張が2000年代以降に現実化していく過程で、活動家自身や彼らに親和的な政治家が国会議員として一定の役割を果たしたことを考えると、ベン=グヴィールのような人物は今後も警戒感をもって注視すべき存在であると言わざるを得ない。
今般のガザ戦争に至る導火線の一つとなったハラム・シャリーフ/神殿の丘をめぐる問題は、多くのパレスチナ人が懸念を示してきた深刻なイシューである。しかし、ガザ戦争から1年が経つが、今のところイスラエルや国際社会において、エルサレムの問題をはじめとするガザ戦争の導火線にしっかりと目を向けて、根本的な処置を施そうとする機運はいまだ見られない(激しい戦闘が継続し、むしろガザを超えて戦線が拡大する現状では仕方ないかもしれない)。それでも、ガザ戦争の要因をなす様々な課題に改善が見られない限り、たとえ今般の戦闘が終わったとしても、またいずれ戦争が繰り返されることは避けられない。ガザに関わる問題に対処するだけでは、次なる「ガザ戦争」を防ぐことはできないのである。現在の悲惨な戦争も終わらぬまま、次の戦争について考えるのは時期尚早だが、この地域の平和と安定を望むのであれば、今こそ、パレスチナ問題の総合的な理解を促進させ、根本的な解決に向けた構想を練り始めるときであろう。
書誌情報
山本健介《エッセイ》「パレスチナと私 ガザ戦争から1年:「導火線」としてのエルサレム」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.2, IL.2.01(2024年10月7日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/israel/essay01/