アジア・マップ Vol.02 | 韓国
《総説》
日韓文化交流史に関する研究史
<日本列島と朝鮮半島、その間の島々>
「日韓」という言葉については(「韓」が「大韓民国」を指すならば)、積極的に捉えた場合、大韓民国が誕生した1948年から今日までを指すが、国交が正常化されたのは1965年なので時期はさらに縮む。また、「文化」と言ってもそれが指し示す内容は甚だしく広範である。日本と朝鮮半島と捉えても時期的困難が伴う。前近代の交流史については、「交易」(王権主体と商人主体、14世紀からは「倭寇」と呼ばれた多民族的な集団などによる交易)と「漂流民」などを中心に興味深い研究が多くなされている。一方、近現代を中心に交流史研究をみた場合、帝国日本と植民地朝鮮と呼ばれる時期では、事実上「日韓」というものが成立しない。その時期は、研究者によって「植民地帝国日本」や「日本植民帝国」などと呼ばれ、植民地の一つとして朝鮮半島を含む場合は「帝国日本・植民地朝鮮」などになる。「朝鮮王朝」を研究する立場からすれば、正式な王朝名である「朝鮮」に「植民地」という語がつくのは不愉快だと感じる人もいるが、現在では、1910年から1945年までの朝鮮半島を「植民地朝鮮」と呼ぶことが通例となっている。その根拠はむろん、当時、朝鮮半島を政治的に支配していた帝国日本の一方的な名称変更にしかない(1910年、帝国日本は大韓帝国を「地域名としての朝鮮」に変えた(「韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件」勅令第318号)。
以上の困難を前提に、以下では、とりわけ地図上における朝鮮半島と日本列島(その間につらなっている島々も含めて)を往復していた人々を想定する。また、彼らによって持たらされた、人間生活に関わる諸々の形成や変容の歴史を想定し、それに関わる研究史のごく一部を紹介する。いままで「朝鮮史研究」方面でなされた研究史整理を手がかりに(朝鮮史研究会[2011])、「文化史的」領域の研究史を紹介しておく。
<前近代における「倭寇」、「通信使」、「漂流民」>
前近代の交流史研究を網羅的に紹介することは不可能なので、ここでは「倭寇」というキーワードを糸の端として、その後の流れを簡単に触れておく。「倭寇」は14世紀後半と16世紀を中心に朝鮮半島と中国沿岸地域に出没した武装貿易集団を指す言葉である。その出現の背景には、14世紀後半ではモンゴルの高麗侵入や「元寇」の盛行、16世紀では明の海禁政策や日本の戦乱があった。1392年に成立した朝鮮王朝が沿岸防備につとめていくなか、なかには「倭寇」に対して官職を与えたり、朝鮮領内に家を与えたりする形で投降や「向化」を促した例があった。また、「倭寇」は、今日のいうところの「日本人」だけではなかったと言われ、時期によっては中国の武装商人が中心になったり、朝鮮人と耽羅人も加わったりしたという(朝鮮史研究会[2011]文献一覧、383〜387頁を参照)。
倭寇禁制要請がきっかけとなり、政権主体としては途切れていた朝鮮と日本との通交関係が再開されたのが、15世紀はじめごろである。室町幕府は150年間に60回も朝鮮に使節を送っている。朝鮮からも「報聘使」や「回礼使」を日本に派遣した。倭寇の被虜人や漂流人の送還などが目的であったが、それよりも貿易利潤の獲得が大きかったという。そのためか、架空の形もさまざまだった。朝鮮の大蔵経を得るために架空の国の使節を名乗った事例、博多商人や対馬宗氏による「偽使派遣」問題、琉球施設の偽使問題についても朝鮮史研究会[2011]の文献一覧(383〜387頁)を参照されたい。
使節のブームの時期に、「通信使」という名称がはじめて登場する。1428年、朝鮮使節が将軍足利吉持の死と義教の将軍職継承に対する慶弔のため派遣されたとき、はじめて通信使という名称が使われた。室町時代の朝鮮との交隣関係により日朝貿易は盛んとなり、日本からは銅、銀、鉛、硫黄、薬材、漆器などが、朝鮮からは綿布、麻布、米、大豆、朝鮮人参、毛皮、陶磁器、大蔵経などが、少なくとも年に60隻も往来する貿易船に載せられた(尹健次[2001])。
私たちに見慣れた「朝鮮通信使」というものが登場するのは壬辰倭乱(「文禄・慶長の役」)の後である。1607年、朝鮮は徳川家康からの国書に回答し、戦乱中に日本に連れ去られた被擄人を連れ帰ることを目的に「回答兼刷還使」を送った(朝鮮史研究会[2011]、151頁)。回答兼刷還使によって送還された被擄人、自力で朝鮮に帰った人など6千人を超える人々の移動や、両国における認識と待遇、また送還されずに日本に残った人など、その多様な側面については米谷均の諸研究が詳しい。この回答兼刷還使を含め、1811年まで12回にわたって日本に派遣した使節を通称、「朝鮮通信使」と呼ぶ。朝鮮史研究会[2011]では、朝鮮通信使に関する膨大な研究と文献目録を紹介しているので、詳細はそこに譲る。また、同時期、日朝通交に重要な役割を果たした対馬藩に関しても、国書偽造問題を含め多くの研究が出ている。実質的舞台であった釜山の「倭館」についても、公の交易だけではなく常に密貿易が行われたこと、殺人まで招いた無断の移動などについて、朝鮮史研究会[2011]の研究史整理を参照されたい。なお、渡辺浩[2021]第3章では、朝鮮通信使一行と、その応対に当たった日本の儒者たちの認識の齟齬が詳細に物語られていて興味深い。
同時期と関連して最後に、漂流民研究について付け加えたい。日本と朝鮮に限定せず、漂流民研究分野では2023年に『江戸時代の漂流記と漂流民-漂流年表と漂流記目録-』(平川新・竹原万雄共編、東北大学東北アジア研究センター)が刊行された。本書においては42件の朝鮮との関係が紹介されている(漂着地がわかる全体数341件で最も多いのが日本近海で99件、その次が中国47件、朝鮮42件)。また、朝鮮と日本間の漂流研究に池内敏[1998]、李薫[2000]が詳しい。
<近現代の日本と朝鮮半島における文化史研究と「言語」>
明治新政府の王政復古を伝えた書契に、従来の交隣関係において使われてこなかった「皇」や「勅」があることから、朝鮮はその受理を拒否した。その後、日本国内の「征韓論」世論のもとで日朝修好条規が結ばれる。この1870年代後半より日清戦争を経て、大韓帝国(1897〜1910年)と植民地朝鮮という時期まで、日本と朝鮮は文化史的に一つの近代を共有した。帝国との格差(ごく一面の例としてたとえば日本では1909年には就学率が99%まで達したが、朝鮮では1937年当時、まだ女子が14%、男子が47%ぐらいだった)が激しく、ほとんどの朝鮮の民衆たちはラジオどころか新聞も読めなかったとしても、昔の生活に戻れるわけにはいかなかった。
朝鮮史研究会[2011]が指摘するように、帝国植民地期文化史研究は、1990年代以降の国民国家論、植民地近代(性)論などの動向によって盛んになる。「日本人」や「韓国人」というカテゴリーを自明なものとしない前者の視点からみれば、「韓国人」や「朝鮮語」などは、植民地朝鮮時期に「内地」との文化的諸作用(たとえば、朝鮮語に対する弾圧が朝鮮語辞書編纂を促進するとか)を通じて作り上げられたことになる。また、近代性そのものの権力性や抑圧性、差別性を重視する後者の視点からすれば、帝国と植民地との格差よりも、近代的主体が諸文化によっていかに形成されたかが焦点となる。ここで、文化史研究も、以前の「文化政策」という上下垂直的側面から脱し、広がりをみせることになる。帝国日本と植民地朝鮮に関わる諸文化史(「朝鮮学振興運動」などの文化運動、文学、メディアー・言論・検閲・出版、言語、映画・演劇、美術、音楽・歌謡、日常史、ジェンダーなど)の研究史については、朝鮮史研究会[2011]の第7章に譲り、ここでは、当時の言語的状況がいかなるものだったか、まず、ラジオにまつわるエピソードから話を進めたい。
植民地朝鮮では社団法人朝鮮放送協会が日本放送協会の分局としてあり、1927年からラジオ放送が開始された。コーロサインは、京城がJODK、釜山はJBAK、平壌はJBBKなどに定められ、その他も清津、咸興、裡里、大邱、光州、大田、元山など朝鮮各地に地方ラジオ放送分局が置かれた。京城だけが「内地」と同様に「JO」になったのは、朝鮮逓信局がねばり抜いた結果であった。つまり、東京・JOAK、大阪・JOBK、名古屋・JOCKに続く「4番目の放送局として京城はJODKとすべき」と要請。「内地」の逓信省は最初に反対したが、京城側の「内鮮一致の国策に反する」との意思に負けた結果であった。こうして京城ラジオは1927年より放送を始め、第一声も日本語に続いて朝鮮語で「JODK・よげぬん・きょんそん・ぱんそんぐぎ・おるしだー(ここは・京城・放送局・である)」と発信された。当時の京城の都市空間は日本人街(南村)と朝鮮人街(北村)に区別されていたので、日常的には朝鮮語を聞く機会が多くなかったと思われる。そこでJODKの朝鮮語を聞いた人々は「ここは外地だ」とふと気が付いたであろう。
植民地朝鮮における言語政策や朝鮮語規範運動については多くの研究が出ており、その代表的なものに三ツ井崇[2010]が挙げられる。一方で、「外地」に住む日本人にとって朝鮮語とは何だったのか。しかも、小倉進平や時枝誠記、小林英夫(全員京城帝国大学に勤めていた)など、日本の言語学者の言説や周時經、崔鉉培、金枓奉など、朝鮮側の知識人のハングル規範化運動(朝鮮総督府が関わっていた)が進んでいた真っ最中である。それは今日においてハングルを学ぶことと異なるはずである。この視点から、日本人による朝鮮語学習という問題を取り上げた研究に、梶井陟[1980]と山田寛人[2004]が挙げられる。梶井は、「内地」の人が、朝鮮語を通じて朝鮮人や朝鮮文化を知ろうとしたのだろうかと問いつつ、彼らの朝鮮語学習は結局のところ、植民地を理解するよりは統治政策と治安維持に有効だったと結論づける。一方で、山田は、朝鮮語奨励政策が植民地支配末期まで、警察、教員、金融機関など広範に行われたことを実証的に論じる。また、在朝日本人のなかには特別な目的や制度的制約がなく、自分本位で朝鮮語を学習した者もいた。京城帝国大学の「哲学、哲学史」講座担任だった安倍能成(1883〜1966年)である。彼は同僚だった朝鮮人教員を訪ねて朝鮮語を学んでおり、彼の記録には彼の京城生活が窺える朝鮮語が、断片的でありながら登場する(参考文献は近刊予定)。
言語が「文化」理解の重要なきっかけであることは間違いない。であれば、「国語」とされたものが「日本語」となり、総督府の政策や在朝日本人の生活環境のごく一部であった「朝鮮語」が「外国語」となった解放後・敗戦後の状況はいかに変わったか。この点についてはまだ研究が多くないので、以下、問題提起に留めておく。
1910年から1945年の間、朝鮮語が専攻としてあった学校は天理外国語学校(現在の天理大学)しかなかった。東京外大では、あったものが朝鮮を植民地にしてからはなくなっている(1880年に「韓語学科」が設置され、1911年に「朝鮮語学科」に変更され、1927年に廃止される)。したがって、朝鮮語教育でいうと敗戦後にそれを受け継いだ唯一の機関が天理大学であった(平木實[2018])。実際に1950年代後半まで朝鮮語教材は天理大学か日韓協会(これに関しては宮田節子[2000]を参照)によって出版されている。これについては植田晃次[2023]が詳しい。また植田は、奥山仙三・相場清・梶井陟に焦点をあて、戦前と戦後の朝鮮語学習の断絶と連続性についても検討している。その後、東京外大に再び朝鮮語学科が設置されたのは1977年であった。一方、敗戦後の日本における朝鮮語学習という問題は、在日朝鮮人史においては別の意味において重要である。阪神教育闘争(1948)で知られる、在日朝鮮人の民族教育に対する弾圧と差別の歴史があるのだ。その歴史のなかで、民族教育の根幹として朝鮮語(国語)教育に献身したのは、日本各地の朝鮮学校(民族学級を含めて)であった。これについては呉永鎬[2019]を参照されたい。
一方で、解放後の韓国(大韓民国)では、1998年に金大中大統領と小渕総理大臣の間で日韓共同宣言が結ばれるまでは、日本の文化受容は厳しく規制されていた(筆者も日本で人気を得ていた漫画を海賊版で読んでいた)。特に李承晩政権(1948〜1960年)では強力な反日政策と請求権強硬路線をとり、日本語と日本文化は優先的に清算されなければならない対象とされた(李サンウォン[2023])。だが、「規制」そのものが、植民地期が残した痕跡の根深さを物語る。
以上、朝鮮史研究会[2011]に拠りながら日本と朝鮮半島の交流史に関わる研究史をごく一部紹介した。最後に、文化史研究の盛んにつれて、植民地朝鮮における都市空間に関する研究も、いまや鉄道、旅、食などに豊富になってきていることを記しておく。
(刊行年度順)
梶井陟『朝鮮語を考える』龍渓書舎、1980年。
池内敏『近世日本と朝鮮漂流民』臨川書店、1998年。
李薫『朝鮮後期 漂流民과 韓日關係』国学資料院、2000年。
宮田節子「解説・穂積真六郎と「録音記録」」『東洋文化研究』2号、学習院大学東洋文化研究所、2000年3月。
尹健次『もっと知ろう朝鮮』岩波ジュニア新書、2001年。
三ツ井崇『朝鮮植民地支配と言語』明石書店、2010年。
朝鮮史研究会編『朝鮮史研究入門』名古屋大学出版会、2011年
平木實『天理外国語学校・天理語学専門学校・天理大学における韓国・朝鮮学(koreanology)の展開―創設者中山正善二代真柱様の軌跡を辿る』私家版、2018年。
呉永鎬『朝鮮学校の教育史―脱植民地化への闘争と創造』明石書店、2019年。
渡辺浩『明治革命・性・文明―政治思想史の冒険』東京大学出版部、2021年。
李漢燮『 일본에서 들어온 우리말어휘5800』박이정、2022年。
이산원「일제 강점기와 해방 이후 일본어교육의 통사적 연구」『日語日文学』99号、2023年。
植田晃次「「旧朝鮮語学」と「戦後」の朝鮮語教育の断絶と連続性小攷―残された学習書を手掛かりとして(1945-1965)」
『言語文化共同研究プロジェクト』2022号、大阪大学大学院人文学研究科言語文化学専攻、2023年。
平川新・竹原万雄共編『江戸時代の漂流記と漂流民―漂流年表と漂流記目録』東北大学東北アジア研究センター、2023年。
丁致榮『근대 일본인의 서울・평양・부산 관광』사회평론아카데미、2023年。
書誌情報
許智香《総説》「⽇韓⽂化交流史に関する研究史」『アジア・マップ:アジア・日本研究 Webマガジン』Vol2, KT.1.03(2024年6月4日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/korea/country02/