アジア・マップ Vol.02 | 韓国

《エッセイ》
韓国と私

文京沫(立命館アジア・日本研究機構 アジア・日本研究所 上席研究員)

 私が大学院で韓国についての研究を始めた頃(1970年代後半)、韓国は軍事独裁とか権威主義体制とかいう悍ましい名称で呼ばれる国だった。1972年の七・四南北共同声明で南北和解の機運が醸し出されたのも束の間、南北間の厳しい対立がつづいていた。同じ年の12月には維新憲法が制定され、有権者の参政権は形だけのものとなり、61年にクーデターで政権の座に就いた朴正熙は事実上、終身大統領となった。学生や野党政治家、新旧のキリスト教徒など民主勢力の抗議行動は超法規的な緊急措置権の発動によって封じられた。七三年には朴正熙の有力なライバル政治家だった金大中が東京のホテルで白昼、韓国の情報部員に拉致されるという事件も起こった。在日の若い二世で母国留学などを通じて韓国の民主化運動に身を投じて投獄されたり、極端な場合、死刑判決を受けたりするケースもあった。そういう時代にあって在日朝鮮人という立場の私にとって、韓国は単なる地域研究の対象というわけにはいかない意味をもった。

①金大中拉致事件の新聞報道

金大中拉致事件の新聞報道

 大学院のドクターコースにすすんで間もない頃、朴正熙が側近の銃弾に倒れて、20年近く続いた朴正熙政権がようやく終わった(1979年10月)。ところが、朴を引き継ぐ「新軍部」勢力が台頭し、「ソウルの春」は暗転して軍部主導の強権政治が復活した。これに最後まで抵抗した光州市の学生・市民に対して新軍部は空挺部隊を投入して武力鎮圧した。いわゆる「光州事件」(1980年5月)である。

 韓国は、分断国家という重いハンデを背負って戦後の歩みを始めた国である。同族相残の朝鮮戦争(1950年6月~53年7月)は、韓国を徹底した反共国家に変え、反共安保の名の下に情報機関・軍隊・警察による国家暴力が猛威をふるう時代がつづいた。だから、日本社会でどちらかといえば北朝鮮系のコミュニティーに育った私は、四〇歳代になるまで韓国の土を踏むことができなかった。それは韓国を地域研究の対象とする者にとっては致命的なハンデといえた。けれども、当時の韓国は、体制批判につながる文献資料へのアクセスが禁じられ自由な学問研究が許されていなかった。その点、日本にいることのメリットがなかったわけではない。

 光州事件に始まる80年代の韓国は社会思想や社会運動の一大転換期を迎えていた。韓国は農村中心の伝統社会から都市中心の近代社会に変貌しつつあった。成長した市民社会と強権政治とのギャップが徐々に拡大し、そのギャップは学生を中心とした社会運動の急進化をもたらした。朝鮮戦争で途絶えていた、マルクス主義をはじめとする急進的な社会思想が復権し、学界でも、かつての講座派・労農派間の日本資本主義論争を彷彿させるような韓国資本主義論争が起こった。80年代に台頭した、そういう社会思想・運動の潮流は「運動圏」と呼ばれた。87年6月に軍事政権を退陣に追い込んだ民主化は、この「運動圏」と、産業化・都市化の波から生まれた「新中産層」が両輪となって実現した変革だった(韓国では「6月民主抗争」と呼ばれている)。私はこうした80年代の変革の過程を「市民社会の胎動」という観点から分析した(鄭章淵との共著『現代韓国への視点』大月書店1990年)。今では月並みでほとんど日常用語として定着している「市民社会」という言葉も、当時では韓国や朝鮮に「市民社会などあろうものか」というのがもっぱらの反応だった。

 しかし、市民の自発的な抗議行動が韓国ほどに政治過程を左右してきた国はそれほど多くはない。初代大統領の李承晩を退陣させた4・19学生革命(1960年)、6月民主抗争、さらに最近の朴槿恵大統領弾劾を実現させた「ろうそくデモ」など、市民社会での対等で開かれた熟議と、この熟議に裏打ちされた集合的な意思が韓国政治を動かしてきた。そういう強い市民社会と強い国家がいつも火花を散らして確執し合いながら政治のダイナミズムを生み出してきた国、私にとって韓国とはそういう国である。

②ろうそくデモ2016年12月26日(友人撮影)

ろうそくデモ2016年12月26日(友人撮影)

 1999年度の1年間、私は、韓国南端の済州島で在外研究の機会を得た。済州島は私の両親の出身地で、母方の祖母の下で育った実の兄や姉など親族が農業などを営みながら暮らしている。だから、韓国は、現に身内の暮らす国でもある。

③済州島でのひととき(兄嫁)

済州島でのひととき(兄嫁)

 一方、この島は、分断国家の成立期に南北の分断に反対する住民の武装蜂起があり、その鎮圧過程で3万人の島民(当時の島の人口28万人)が犠牲となった済州島四・三事件が起きた土地でもある。四・三事件の犠牲者はすべて“アカ(共産主義者)”だとされ、これについて語ることは久しくタブー視されてきた。民主化は歴史の掘り起こしを伴う。1987年の民主化以後、事件の真相究明と名誉回復の取り組みが本格化し、私の在外研究はそうした取り組みや研究のためでもあった。まだ在外研究期間中であった2000年1月、四・三特別法(済州四・三事件真相究明および名誉回復に関する特別法)が制定され、事件の問題解決が大きく前進した(2022年には同法の全面改定があって犠牲者への補償が実現している)。

 この四・三事件だけではなく、朝鮮戦争時の住民虐殺、4月学生革命や光州事件、6月民主抗争、さらには修学旅行中の高校生など300人以上が犠牲となったセウォル号の惨事(2015年)など、戦後の韓国の歩みは、そうした公権力による不当な暴力や過失による集団・個人の犠牲に満ちている。そうした犠牲がいまを生きる人々の記憶に宿り、犠牲者の無念の死への弔いの思いが市民社会の養分となって韓国の民主主義を支え、紆余曲折を経ながらも、これを前進させているのである。Kカルチャーや半導体分野ではいまや日本を凌駕するようになった韓国であるが、私を韓国に引き付けて止まないのは、そういう「弔いの民主主義」を支える市民社会の底流にほかならない。

書誌情報
文京沫「《エッセイ》韓国と私」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』2, KR.2.02(2024年4月1日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/korea/essay01/