アジア・マップ Vol.02 | キルギス

キルギスの読書案内

秋山 徹(北海道教育大学釧路校・准教授)

一般書
小松久男・梅村坦・坂井弘紀・林俊雄・前田弘毅・松田孝一(編)『中央ユーラシア文化事典』丸善出版、2023年
 キルギスを単独で扱う日本語の概説や事典は現時点で残念ながら存在しない。明石書店が出しているエリア・スタディーズ(~を知るための…章)で中央アジア、ウズベキスタン、カザフスタンに続き、キルギス版が期待されるところである。本書は中央ユーラシアの歴史と文化を解説することを目的に出版され、キルギスに関する事項も多数含む。文化や歴史についての概説書としてのみならず、読み物としても大変興味深い内容となっている。小松久男ほか編『中央ユーラシアを知る事典』(2005年、平凡社)との併用がお薦め。
宇山智彦・樋渡雅人(編)『現代中央アジア:政治・経済・社会』日本評論社、2018年
 歴史と文化に重点を置く『中央ユーラシア文化事典』と並行して読みたいのが本書。日本の中央アジア地域研究は世界的に見てもレヴェルが高いが、本書は、社会科学分野を中心とする気鋭の研究者たちが、長年の現地調査にもとづきながら、的確な分析を加えた概説書。初版は2004年に『現代中央アジア論』として出版されたが、その後の政治社会情勢の変転を踏まえ、2018年に改訂版として出された。旧ソ連地域におけるロシアの威信低下を背景に、世界中から俄かに注目を浴びつつある中央アジアであるが、そんな時だからこそ誤解や偏見を排した確かな理解を得たい。
シンジルト・地田徹朗(編)『牧畜を人文学する』名古屋外国語大学出版会、2021年
 キルギスの基幹民族であるキルギス人をはじめ、中央アジアはカザフ人やトルクメン人をはじめとして、遊牧民が活躍する舞台となってきた。遊牧とは定期的な移動を行なう牧畜のことを指すが、キルギスを理解するためには、牧畜という生活様式を理解することが不可欠であることは言うまでもない。本書は、中央アジアを含むアフロ・ユーラシアをフィールドとする人類学者と歴史学者が共同で刊行した牧畜社会論である。高校生から学部教養課程のテキストを想定して作成されており、専門用語に丁寧な解説が付されている点もありがたい。
小松久男(編)『テュルクを知るための61章』明石書店、2016年
 本書は、ユーラシアの歴史において重要な役割を果たし、現在も広範な地域にまたがって暮らすテュルク系の諸民族を包括的に紹介する初めての入門書である。言わずもがな、キルギス人もテュルク系遊牧民である。本書においても一章が割かれ、キルギス人の民族形成過程や現代にいたるまでの歴史、宗教などの側面から解説がなされている。さらに、現代のキルギス人につながる「天山キルギス」とは別に、それとの関係性が未だに不明瞭な存在である「エニセイ・キルギス」についてのコラムも興味深い。
坂井弘紀『中央アジアの英雄叙事詩:語り伝わる歴史 (ユーラシア・ブックレット35)』東洋書店、2002年
 遊牧民は文字による記録を残さなかったため、しばしば周辺の定住農耕政権から「野蛮な破壊者」といったネガティヴな偏見の対象とされてきた。しかし、それは大いなる誤解であり、遊牧民は文字や文書を介さずとも、豊かな口頭伝承の伝統を育んできた。本書は、中央アジアのテュルク系遊牧民を中心に、彼らの口頭伝承の世界を解説する。ちなみに、キルギス人に語り伝わる英雄叙事詩「マナス」は日本語で読むことができる。若松寛(訳)『マナス:キルギス英雄叙事詩』平凡社、少年編(2001年)、青年編(2003年)、壮年編(2005年)。
研究書
吉田世津子『中央アジア農村の親族ネットワーク:クルグズスタン・経済移行の人類学的研究』風響社、2004年
 1980年代のペレストロイカ、そして1991年のソ連邦解体を契機に、日本の中央アジア地域研究は本格的な産声を上げた。外国人研究者が公文書館に入って史資料を閲覧できるようになったのも然ることながら、現地に長期間滞在してフィールドワークを行なえるようになった。本書は、北部キルギス牧村での2年以上におよぶフィールドワークにもとづき、ソ連時代初期から1990年代にかけてのキルギス人の民族誌を社会人類学的手法に拠って描き出す。中央アジア地域研究草創期を代表する記念碑的労作。
小田桐奈美『ポスト・ソヴィエト時代の「国家語」:国家建設期のキルギス共和国における言語と社会』関西大学出版部、2015年
 本書は、キルギス現地での緻密なフィールドワークにもとづきつつ、ソ連末期から連邦解体を経て独立した若い国家キルギスの社会・政治プロセスを、言語という切り口から動態的に描き出す。多言語状況のなかにあって、キルギスにおいて「国家語」が形成されていくプロセスが論じられる。中央アジアに限らず、地域研究は地域固有の論理の析出に主眼を置きがちだが、吉田本にしても、本書にしても、社会人類学や社会言語学というディシプリンにも豊かなフィードバックを還元できるだけのキャパシティを有することが納得できる。
秋山徹『遊牧英雄とロシア帝国:あるクルグズ首領の軌跡』東京大学出版会、2016年
 本書は、ロシア帝国の中央アジア征服・支配に「協力」した人物として知られるキルギス人首領のバイオグラフィーを未刊行一次史料にもとづいて再構成。それを通してロシア帝国の中央アジア支配をめぐる動態と葛藤を考察した。ロシアが首領を利用した側面のみならず、逆に首領の側もロシアをしたたかに利用していたことを、ロシア語のみならず、テュルク系現地語史料も参照することで活き活きと描き出した。ちなみに、本書が扱う時代にキルギス人地域を探検に訪れたロシア人地理学者セミョーノフの旅行記の翻訳も参照されたい。セミョーノフ=チャン=シャンスキイ、ピョートル(樹下節 訳)『世界探検全集 天山紀行』河出書房新社、2023年。
植田暁『近代中央アジアの綿花栽培と遊牧民:GISによるフェルガナ経済史』北海道大学出版会、2020年
 本書は、定住農耕地帯、なかんずく綿作地帯としてのイメージばかりが先行しがちな近現代のフェルガナ地方を「農牧接壌地帯」として再定置し、19世紀から20世紀初頭におけるそのダイナミズムを、近年本格的に歴史研究への応用が模索・実践されるようになった地理情報システム(GIS)を用いた社会経済史的手法にもとづいて再構成した力作。山岳部に生きるキルギス人の社会経済上の変化を、平野部における綿作モノカルチャーの展開との相関から捉える。
小沼孝博『清と中央アジア草原:遊牧民の世界から帝国の辺境へ』東京大学出版会、2014年
 中央アジアの近代史を理解する際には、ロシア帝国のみならず清朝の動向も押さえておきたい。19世紀以降ロシア帝国の傘下に入ったカザフ人やキルギス人――清朝史料では「ブルト」と呼ばれた――の多くは、18世紀から19世紀初頭にかけて清朝とも密接な関係を有していた。満州語で書かれた清朝期の膨大な档案史料をはじめとする多言語史資料の精緻な読解にもとづき、清朝の中央アジア進出を包括的に描き出した力作。カザフ人の動向をメインに扱う、野田仁『露清帝国とカザフ=ハン国』(東京大学出版会、2011年)も併せて参照したい。

書誌情報
秋山徹「キルギスの読書案内」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』2, KG.5.02(2024年4月1日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/kyrgyz/reading/