アジア・マップ Vol.02 | ラオス

≪総説≫
ラオスという国:ラオスの言語ナショナリズムと外国語

矢野順子(愛知県立大学外国語学部 准教授)

 ラオス人民民主共和国(以下、ラオス)は、北に中華人民共和国とミャンマー連邦共和国、東にベトナム社会主義共和国、南にカンボジア王国、西にタイ王国の5か国と国境を接する、インドシナ半島の内陸国である。総人口は744万3千人(2022年、ラオス統計局)で、国内にはラオ族を中心に50のエスニック集団の存在が認定されており、各エスニック集団によってさまざまな言語が話されている。そのうち、憲法で公用語と定められているのは主要民族ラオ族の言語であるラオ語のみで、教育も一部の例外を除き、すべてラオ語で行われる。このことは、ラオ語を母語としないエスニック集団の子どもたちを学校教育において不利な状況におくこととなり、ラオ族の子どもに比して、ラオ族以外のエスニック集団の子どもたちの初等教育退学率や留年率が高い原因のひとつとなっている。

 ラオ語は言語学的にはタイ・カダイ語族タイ諸語南西タイ語群に分類される。同じ語群に属する隣国タイ王国(以下、タイ)の公用語であるタイ語とラオ語はよく似ており、その差は「方言ほどの違い」ともいわれる。実際、ラオスとの国境地帯であるタイ東北地方メコン川流域に住む人たちは、かつて「ラオ」と呼ばれ、彼/彼女らの話す言語は、「ラオ語」の名称で呼ばれていた。19世紀末、タイ(当時の国名はシャム)とフランスの間でメコン川が国境と定められ、タイが近代的な中央主権国家建設を進めていくなかで、東北地方の人たちは「タイ人」へと統合され、その言語は「タイ語東北タイ方言」に位置づけられていった。

 文字に関しても、タイ文字とラオ文字はともに古代インドのブラフミー文字を起源とするとされ、形もよく似ている。ただし、ラオ文字の子音文字が27文字であるのに対し、タイ文字は42文字と多い。この理由は、タイ語が主にパーリ語、サンスクリット語を起源とする外来語の表記に関して、綴りに語源を残す正書法を用いているのに対し、ラオ語は語源に関わらず発音通りに綴る正書法を採用していることによる。両言語の正書法にこのような差異が生じたのは、国家の政治的な思惑と無縁ではない。とくにラオスにおいては、ラオ語の正書法を定めるにあたり、つねにタイ語との距離が意識されてきた。

 ラオスでは、ラオ語の正書法を統一しようとする動きはフランスの植民地支配下ではじまった。現在のタイとラオスの国境線が、19世紀末、タイとフランスの間で行われた国境交渉の結果、決定されたのは先述のとおりである。国境となったメコン川の両岸にはラオ語を話す人たちが居住しており、かつて自由に行き来していた彼/彼女らは分断されるかたちとなった。そうしたなか、国境画定後もタイでは言語的・民族的な類似性に加え、フランス到来以前、ラオス地域の諸王国がタイの属国となっていたという歴史から、ラオスを「失地」ととらえる考えが根強く残った。フランスはタイの領土的要求を退け、自らの植民地支配を正当化するため、ラオ語はタイ語の「方言」ではなく、独立した「言語」であることを示す必要があった。こうしてフランスのもと、タイ語からのラオ語の「言語的独立」を目指すべく、ラオ語正書法を確定する作業がはじまったのである。

 ラオス人知識層も参加した植民地時代の議論では、仏教関係者を中心にタイのような語源をあらわした正書法を採用すべきとの意見もみられた。それに対して、新しい西洋式の教育を受けた人たちの多くは、学習のしやすさやタイ語との視覚的な差異がより明確となることなどから、発音どおりに綴る正書法を支持した。最終的には、後者が植民地政庁によって正式に採用されることとなった。しかしその後、第二次世界大戦が勃発し、フランスがナチス・ドイツに降伏、インドシナにおけるフランスの勢力が弱体化すると、失地回復の好機ととらえたタイで「大タイ主義運動」が巻き起こった。「大タイ主義」とはラオスをはじめタイ系のエスニック集団(タイ・カダイ語族に属する諸集団)が居住する地域をタイに統合しようとする運動であり、言語的・民族的な類似性を根拠に「失地」であるラオスの「回復」が目指された。こうしたタイの主張に対抗するため、ラオ語の「独立」を確固たるものとする必要に迫られたフランスは、ラオ語表記のローマ字化に着手し、1944年にラオ語のローマ字表記の方法が正式に決定された。ラオ語表記のローマ字化については、それを支持し、推進役となったラオス人知識層が存在した一方で、「我々の文字」の放棄につながるとする批判の声があがった。このことは、フランスの支配下、ラオス人の知識層の間でラオ語とラオ文字を「我々の言語と文字」とするナショナリズムが醸成されていたことを意味するものといえる。1945年5月、日本がラオスに侵攻すると、フランスの支配は一旦終了する。日本の敗戦後、フランスは再植民地化を果たすが、独立運動が盛り上がるなか、ラオ語のローマ字化が再び議論されることはなかった。

 このように、フランスの植民地時代をとおして、ラオ語のタイ語からの言語的独立を目指す言語ナショナリズムが育っていったといえるが、独立後はタイ語に加え、フランス語からの独立も問題となった。ラオスは1953年に「ラオス王国」として完全独立を達成する。しかし、独立運動の過程で生じた左右両勢力への分裂が独立後も解消することはなく、王国政府と左派共産主義勢力パテート・ラオとの間で1975年まで内戦が続いた。ラオス王国では、独立後もフランス語がラオ語とともに公用語とされ、公務の多くがフランス語で行われた。中等教育以上の教授言語も一部を除きフランス語で、社会的に上昇していくにはフランス語能力が必須であった。そして中等教育以上へのアクセスが限定されるなか、フランス語能力を要因とする社会階層の分化が深刻化していった。一方、1960年代に入り、ラジオや映画といった新しい娯楽が普及すると、ラオス人の間でタイ語のラジオや映画が人気となり、ラオ語へのタイ語の影響が指摘されるようになる。例えば、数字の百はラオ語では「ホーイhooy」、タイ語では「ローイrooy」という。当時の新聞記事には、数字の百をタイ語風に「ローイlooy」と発音するラオス人が多くいるとして、日常の言語使用において、ラオスの人たちが無意識にタイ語を使ってしまっていることへの危機感を示すものがみられる。こうした状況について、タイ語の影響の拡大を招いているのは独立後もフランス語を重用し続ける王国政府の政治家や高級官僚などのエリートたちが、ラオ語の発展のために十分な措置を取ってこなかったからだとの批判が沸き起こった。そして、人びとの間でタイ語とフランス語からの言語的独立を目指す言語ナショナリズムが高揚していった。

 一方、対立するパテート・ラオの支配領域では、初等教育から大学までラオ語のみを教授言語とする教育制度が構築されていった。王国政府支配領域の人たちの間で、言語ナショナリズムが盛り上がるなか、パテート・ラオはフランス語を主な教授言語とする王国政府の教育制度を「奴隷的・植民地的」であると非難し、自らの教育制度を「愛国的・進歩的」であると訴えるプロパガンダを展開し、王国政府の人びとの間で支持を集めていった。また、王国政府ではラオ語以外の少数エスニック集団の言語にはほとんど関心が示されなかったのに対し、パテート・ラオでは「諸民族の平等と団結」を掲げ、一部のエスニック集団の言語の表記を創造し、教科書も作成された。この背景には、北部山岳地帯が中心であったパテート・ラオの支配領域では、戦闘を有利に進めるためには少数エスニック集団の支持を得ることが不可欠であったという事情もあった。1975年12月2日にパテート・ラオの勝利によって内戦が終了し、ラオス人民民主共和国が建国される。「30年闘争」とも呼ばれる長い内戦の背後では、フランス語、タイ語からのラオ語の言語的独立という言語面での戦いが繰り広げられていたのであった。

 1975年に現体制が成立して以降、ラオ語が唯一の公用語となり、フランス語は急速に存在感を失っていった。一方で、タイ語の影響は依然として続いており、現在でも、学校教育では数字の百を「ホーイ」と教えているものの、日常会話で「ローイ」と発音している人は多い。今ではタイ語のラジオやテレビ番組、映画に加えてインターネット上の動画の視聴やソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の利用など、ラオス人がタイ語に接する機会はいっそう増加しているといえる。

 また近年、ラオスにおいて急速に存在感を増しているのが中国語である。2021年12月のラオス・中国鉄道の開業に代表されるように、ラオスにおける中国のプレゼンスが大幅に拡大し、経済分野をはじめ多方面に影響を及ぼすようなった。そうしたなか、ラオスの人びとの間で中国語学習ブームといえる現象が起こっており、例えばここ数年、ラオス国立大学では文学部中国語学科が全学部学科のなかで最も人気があり、ラオス国立大学に設置された孔子学院の語学コースにも受講希望者が殺到している。今や中国語の人気は英語をしのぐものとなっているといえるが、その一方で、中国語の看板が国内のいたるところで見られる状況に危機感を表すような動きもみられる。すなわち、中国語人気が沸騰するなか、その存在がラオス人の言語ナショナリズムを刺激している側面もあるようである。筆者がラオスに留学していた2000年代初頭には、ASEANの公用語でもある英語が大人気であった。しかし英語に関して言語ナショナリズムを表明するような動きを見聞きすることはほとんどなかった。中国語に対するラオスの人たちのアンビバレントな反応は、ラオスが中国という近隣の大国への依存を急速に深めていく現状に対する、ジレンマの表れとみることができるかもしれない。

参考文献
矢野順子『国民語が「つくられる」とき―ラオスの言語ナショナリズムとタイ語』風響社 2008年
―――『国民語の形成と国家建設―内戦期ラオスの言語ナショナリズム』風響社 2013年
―――「ラオスにおける中国語学習ブームと言語ナショナリズム―中国依存を巡るジレンマ」『IDEスクエア』(2021年9月)
―――「社会開発戦略と人材開発―国民による主体的な貧困解決」山田紀彦編『ラオス人民革命党第11回大会:転換期を迎える国家建設』日本貿易振興機構アジア経済研究所 2021年
Laos Statistics Bureau

写真1

写真1 ラオ文字のアルファベット表

写真2

写真2 タイ文字のアルファベット表(廃字の2字が含まれているため44字掲載されている)

写真3

写真3 ラオス・中国鉄道の首都ヴィエンチャン駅(2022年9月3日、筆者撮影)

書誌情報
矢野順子《総説》「ラオスという国:ラオスの言語ナショナリズムと外国語」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.2, LA.1.01(2024年11月18日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/laos/country/