アジア・マップ Vol.02 | ミャンマー
《総説》
現代ミャンマー文学
本稿はビルマ語で記述・表現される芸術的表象をビルマ語文学と呼ぶ。ビルマ語はミャンマー共和国連邦の公用語で、多数派民族・ビルマ族の母語だ。「ビルマ(バマー)」と「ミャンマー」はビルマ族をさす同義語で、1948年の独立時に国名にも併用された。88年に登場した軍事政権は、「ビルマ」はビルマ族、「ミャンマー」は全民族をさすとして、国名表記を「ミャンマー」に統一した。では「ビルマ文学」がビルマ族の文学、「ミャンマー文学」が全民族の文学を指すかといえば、「ミャンマー文学」は「ビルマ文学」と同義的に扱われたままだ。各民族が固有の言語と文化を持つ。2004年シャン州の古都ではシャン語小説本も多数見かけた。以下では、ビルマ語文学の1945年からの歩みを概説する。
45年3月に抗日統一戦線が蜂起し、英国植民地統治が復活すると、出版界では新聞、週刊誌、月刊誌の復刊・創刊が相次いだ。日本占領期小説は娯楽ものも含め、戦後文学の花形となった。デルタ農民の日本占領期の受難を描く『ガ・バ』(マァウン・ティン、1947年)も人気を呼んだ。46年に『ターヤー(星座)』誌を創刊したダゴン・ターヤーは、古い文学を捨てて資本主義体制を打破するよう訴えた。『シュマワ(見飽きず)』『パデーター(豊穣)』などの文芸誌が創刊された47年には、ビルマ文学振興を目指すビルマ翻訳文学協会も設立され、48年度から国家的文学賞の授与を開始した。
48年の独立直後から、共産党、国軍の一部が、続いてカレンニー族、カレン族が蜂起して内戦が始まった。主要都市は各種反政府軍に制圧され、一時は「ヤンゴン政府」と揶揄される事態も生じた。それ以来国土は、国軍支配下の合法地帯と各種反政府軍支配下の非合法地帯に分断された。ビルマ語文学は、分断社会における合法地帯からの発信だ。分断社会の合法地帯ゆえの諸制約の下で、それは時代の証言録としての役割を担ってきた。
流入する避難民を抱えて肥大化する首都で、文学論争も活発化した。テインペーミンは48年に、文学は被抑圧階級解放の武器となるべきだと主張し、『ビルマ1946』(1949年)で激動の時代を複数視座で再現した。階級性重視派が芸術性重視派を圧倒したかに見えたが、前者の間でも表現の方法を巡る論争が絶えなかった。しかし、大半の作品は政治性が希薄で、恋愛小説やミステリー小説のほか、写実的中編や短編も登場した。
もの書く人びとの不服従は英領期以来の伝統だった。独立後、彼らと監獄との距離はさらに縮まった。48年は共産党蜂起直後に、53年には非合法組織との接触容疑で、言論出版関係者の逮捕が増加した。逮捕の波は58年と63年にも生じ、以後は日常化していった。
50年代は、農村改革小説や日本占領期小説のほか、主張を排して様々な階層の人生を描写するビルマ式リアリズム・人生描写小説が広がりと深まりを見せた。また「解放区」内の出来事や「解放区」との往来を描く内戦小説も登場した。50年代後半になると、労働運動などを描く闘争小説がそれに取って代わった。合法地帯の闘争は、非合法地帯における死闘の延長線上にあった。地続きの国土において二領域の境界は曖昧で、越境は後を絶たなかった。合法政界への失望も「解放区」への憧憬をかきたてた。内戦は国土を血に染め、死者数は今なお公表されない。内戦の一方の当事者である反政府軍内では、諸勢力が消長を繰り返した。もう一方の当事者である国軍は強大化の道をたどり、62年にビルマ式社会主義という名の軍事独裁を発足させ、文学への介入も始める。
彼らは飴と鞭を使い分けた。文学は社会主義建設への貢献を義務付けられた。文学賞の受賞枠は広げられ、賞金も引き上げられた。『初夏 霞立つ頃』(マァゥン・マァゥン・ピュー、1967年)のようなビルマ式社会主義に期待する小説のほか、大河小説、歴史小説、女性小説など多様な作品が登場した。花形は日本占領期小説だった。そこでは、抗日闘争における「ビルマ軍主導」や「民族友好」などが史実以上に誇張され、虚構による史実再編が試みられた。
彼らは75年ごろから事前検閲を始め、79年にはその手続きを詳細に定めた細則を発行した。作家たちは創作を控え出し、日本占領期小説も花形の座を退いた。長らく文学の階級性を主張した左翼的潮流も撤退した。ミャタンティンは、『剣の山を越え火の海を渡る』(1973年)で階級闘争を描こうとして描けず、仲間内から酷評されて翻訳に、テインペーミンは随想的私小説に転じた。社会の闇に切り込んだ人気作家ナインウィンスエーは、78年に「解放区」へ逃れた。文学界の主流となったのは、物売りが生活の周辺を語る『それを言うとマウン・ターヤの言いすぎだ』(マウン・ターヤ、1979年)のような人生描写小説だった。
撤退した男性作家に代わり、モウモウ<インヤー>、マ・サンダー、サンサンヌエ<ターヤーワディー>ら女性作家が浮上した。「女性作家時代」なる呼称も登場した。これは、女性作家名の娯楽恋愛小説が多数出版され、書き手の多くが男性覆面作家だった事態への揶揄を含んでいた。検閲がそれらを簡単に通したのは、読者が人生描写小説でこの国の日常を認識するより、娯楽小説で日常から逃避するほうが、支配に好都合だったからだろう。
88年に民主化闘争を圧殺した国軍は、社会主義を放棄し、市場経済とビルマ族仏教文化至上主義を掲げた。モウモウが病死し、サンサンヌエが投獄され、マ・サンダーが政権支持に転じると、「女性作家時代」の呼称も鳴りを潜めた。文学賞長編部門受賞作は60年代に多数に上ったが、73年度以降空白が目立っていた。一方短編集部門は、恒常的に受賞作を出し続けた。長編不振の80年代後半、「短編黄金時代」なる呼称が出現した。それは、言論統制と貧困が生み出した小説の運命への、作家たちの最大限の抵抗を込めた呼称だった。
政権は愛国文学育成や作家の組織化に努めたが、文学の停滞は続いた。検閲の厳酷化で、90年代半ばから雑誌掲載短編が減少し始めた。代って「モダン」と呼ばれる難解な非定型詩が多数登場する。文学厳冬の時代に、最も熱く語り続けたのが詩人たちだった。「人生描写」という名のビルマ式リアリズムも、「モダン」という名のビルマ式モダニズムも軍事独裁の申し子だ。文学史上、日本占領期はビルマ語文学の「暗黒時代」とされるが、70年代後半以降は「第二の暗黒時代」の名に値する。
2011年、「民政移管」が始まり、翌年に検閲が廃止された。数々の作家組織が生まれ、文芸講演会が復活し、自作朗読会も始まった。SNSに短編や詩を発表する若手が増加した。若者の書籍離れで、貸本屋が姿を消した。ノンフィクションは売れ行きが良く、文芸誌は不振だった。発禁小説も復刊された。50年代の質量に及ばないが、長編も息を吹き返した。2015年のNLD(国民民主連盟)政権発足後、モダン詩集や長期投獄作家など、前政権時代では予想もできなかった作品や作家に国家的文学賞が授与されるようになった。
そのような矢先の2021年「クーデター」である。惨殺された者、投獄された者、国外に拠点を移す者、武装革命勢力を率いる者など、もの書く人びとは多様な道をたどった。国軍支配地域の人びとは、手探りで文芸誌を創刊し、短編集や詩集や実用書などを出版している。検閲は機能していない。24年9月現在、一説には国軍支配地域が国土の四割という。分断社会の壁が崩れ、全民族の文学の名にふさわしい「ミャンマー文学」が出現する日がくるのかもしれない。
*文中『 』内の長編小説には邦訳がある。
*拙著『ビルマ文学の風景』(2021本の泉社)ならびに同社HP連載中の「ミャンマー便り」も参照されたい。
書誌情報
南田みどり《総説》「現代ミャンマー文学」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』Vol.2, MM.1.02(2024年11月20日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/myanmar/country/