アジア・マップ Vol.02 | 北朝鮮

《エッセイ》北朝鮮の都市
金正淑と北朝鮮の建築――会寧革命事績館とその周辺

金沢大学・新学術創成研究機構
谷川竜一

1.抗日の女スナイパー

 長いまつげの下に、光を湛えた美しい瞳が、スコープ越しにターゲットを捉える。細く白い指が動いたその瞬間、大柄な兵士がドサリと倒れ落ちる・・・。

 軍隊のなかでも狙撃手は、やや特別な印象を与える存在である。しかもそれが女性の場合、多くの人々はそこに倒錯した美しさや儚さを夢見がちだ。結果、女性スナイパーを主人公に据えた小説や映画は、古今東西多く作られてきた。大韓民国の映画『暗殺』(監督:チェ・ドンフン、2015年公開)もその一つである。時代は1930年代、朝鮮独立を目指して中国東北地方(以下、満洲)で活動する抗日独立軍の朝鮮人・女凄腕スナイパー、アン・オギュンが、上海の大韓民国臨時政府の企図する暗殺計画に巻き込まれていく物語だ。アンを演じたのは、美しく芯の強い女性を演じることになれば、右に出るものがいないアジアの大スター、チョン・ジヒョンである。制作陣が創り出したかったイメージもそこから想像できよう。

 以前、ある人から、そのアン・オギュンのモデルは、現在の朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)建国の父である金日成の妻・金正淑(キム・ジョンスク)なのではないかという話を聞いた。というのも金正淑は、16歳にして満洲で金日成らが率いていた抗日パルチザン組織に参加し、その後彼とともに戦う中で、射撃の腕がピカイチだったとされているからだ1。そんな抗日の女スナイパーという広い意味で、アン・オギュンと金正淑は一見似た位置にいる。

 ただし、具体的に比べてみれば違いはたくさんある。例えば映画中のアン・オギュンは、1911年頃に京城(現・ソウル)の裕福な親日派の父の下で生まれたという設定だが、実在の金正淑は1917年に、現在の中朝国境である会寧市に住む貧農の子として生まれている。年齢はもちろん、家庭環境なども大きくことなっており、完全なモデルではないだろう。

 しかしながら、抗日運動の凄腕女スナイパーという「キャラ」は実に魅力的であり、制作陣がヒロインとしてそんな女性を思いついたとき、「本家」の一人とも言うべき金正淑は、多少なりとも参考にされたのではないか。このエッセイでは、そんな歴史上に実在した金正淑について、北朝鮮の建築とともに少し紹介をしてみたい。

写真1:会寧市に保存されている金正淑生家

写真1:会寧市に保存されている金正淑生家

2.金正淑の生家と会寧革命事績館

 金正淑は1917年12月に、現在の咸鏡北道・会寧市の貧しい農民の子として生まれた。彼女が生まれた草葺きの家(写真1)は、1973年に「見つかり」、現在保存されている。この家はある自作農の家で、貧しい金正淑の家族はこの一室に間借りしていたらしい。傍にたつポプラの大木は、樹齢100年をこえるだろう。彼女はここで育ち、そして5歳の頃、会寧を流れる豆満江を越えて、中国側の北間島へと渡っていった2

 そんな金正淑が歴史の舞台に登場するのは、1930年代に入ってからだ。先述のように抗日パルチザンに入り、金日成とともに当時の満洲・朝鮮の国境地帯を転戦していくのである。こうした金正淑の歩みは、関係する遺品や彼女の活躍を描いた後年の絵画などとともに会寧革命事績館(写真2)で展示されている。事績館は1982年に竣工したようだが、この「1982年」という年は、北朝鮮の都市・建築史にとっては重要なので、少し解説しておこう。

写真2:会寧革命事績館

写真2:会寧革命事績館

3.北朝鮮建築において「1982年」が持つ意味

 強力な統治者がいた場合、その人物が生まれた年や成し得た功績からの周年を、当該社会全体で記念するというのは珍しいことではない。北朝鮮におけるそうした人物としては、金日成がまっさきに思い浮かぶが、彼は1912年に生まれた。そう、1982年は金日成が70歳――つまり古稀を迎えた「めでたい」年なのだ。この年、首都・平壌市内にはそれを祝って記念碑的な建築がいくつも建てられた。例えば大同江河畔にたつ主体思想塔、あるいは日本植民地支配からの解放後に金日成が初めて平壌に帰ってきた(凱旋した)場所の近くにたつ凱旋門などだ。

 また、そもそも日本植民地支配や朝鮮戦争から30年ほど経った1970年代の後半から80年代前半においては、北朝鮮の国作りの総括的な印象を与えるような建築や史跡の整備が、同国内で広く行われていた。そうしたプロジェクトの多くが、1982年という慶賀すべき金日成の古稀を一つの目標として、その年に完成することが企図されていたようだ。例えば平壌の中心を成す金日成広場の西側にあった最後の空地を埋めるようにして、巨大な人民大学習堂(写真3)が竣工したのも1982年だし、国家の記念碑的なスタジアムである金日成競技場も同年に拡張されて完成していた。

 そのように視野を広げてみると、先に述べた会寧革命事績館もこの流れのなかにあったと考えることができる。建設をともなった金正淑関連の事業を調べてみると、そのほとんどは1970年代から進んでおり、そのなかで事績館も工事が始まり、それが1982年に合わせて竣工したようだ。つまり、建築から見れば、金正淑は1970~80年代にかけて抗日のアイコンとなっていき、その結実として事績館が完成したように見える。

 そして実のところ、北朝鮮のメディアの中でも金正淑をめぐるトピックは1980年代以降に増加しており、それは金日成から金正日への権力移行に際して金正淑が利用されたことを示しているという3。解放と独立、朝鮮戦争からの復興が過去へと遠のいていくなかで、当時の統治権力の正統性を再確認するためにも、金日成の妻であり、金正日の母たる金正淑の施設や記念碑が、過去と現在を結びつける機能を帯びて建設されていったのだ。

写真3:金日成広場と人民大学習堂

写真3:金日成広場と人民大学習堂

4.会寧革命事績館の建築的特徴

ただし興味深いことに、金正淑に対する社会的認知が深まりつつあった一方で、その記憶を展示する建築については、金日成と金正淑の長男で二代目の指導者である金正日は、満足していなかったようだ。2009年2月24日に会寧革命事績館を訪れた際に次のように言っている。


 事績館の内容は結構ですが、建物はほめたものではありません。建物が大きすぎるし、階の高さも高すぎます。この建物は事績館のような感じがせず、文化会館のような感じがします。事績館のホールが高いので、天井を見上げていると首が痛くなりそうです。事績館の各室の窓も多すぎます。建物の階の高さが高く、各室に窓が多いと室温を保つことができません4


 どうやら開口部が多すぎるために展示品が傷むことが予想されたり、あるいは冬期にかなり部屋が寒くなったりすることが不満だったようで、金正日は続く発言の中でも「この事績館は設計がまずい」と繰り返している。

 最高権力者の評価は厳しいものだったが(しかも竣工後しばらく時間がたった後の評価だが)、今改めて解放後の長い北朝鮮の建築史の視点から眺めて見れば、使い勝手はともかくそのデザインはそれほど悪い建築ではないように思う。むしろ、全体として均整のとれたプロポーションとそこに埋め込まれた東洋的な意匠のバランス、そしてスカイラインをリズミカルに切り取る緑色の軒丸瓦やそれが醸し出す繊細で優雅な雰囲気を見る限り、設計者たちの努力は大変なものだったと推察できる(写真2、4)。この建築は、1980年代の北朝鮮の地方都市においては、質の高い建築の一つと言ってよいだろう。ちなみに壁面にリズミカルに展開する白く美しい花のレリーフは、金正淑が愛したツツジ(チンダルレ、진달래)だ5

写真4:会寧革命事績館のエントランス

写真4:会寧革命事績館のエントランス

5.金正淑の素顔とイメージ

 金正淑は1945年以後、公的な場にはあまり出てこなかったようだが、彼女個人を知る上でいくつか興味深い記録や伝承はある。例えば、1946年夏頃に金日成一家にメイドとして雇われていた日本人の少女は、一家の世話をしながら金正淑と親しくなるに連れて、「初めは美しいと思えなかったこの女性が、野性的魅力とやさしい人柄の持主であることがわかってきた」と述べている。メイドたちにも食事のときに次々と皿を回してくれたり、家族で食卓を囲むことを重視したりする母親らしい一面を見せつつも、裏口から裸足で出て素早く鶏をつかんで絞めてしまうような野性的な姿を時に見せたからだ。そんな金正淑の得意料理は餃子で、機械のようにてきぱきと器用に皮を伸ばして餃子を作り、それを夫の金日成も好んで毎日一回は食べていたらしい。餃子は、彼女の育った朝鮮半島の北部から満洲にかけてはなじみの食文化であり、作るのはお手の物だったと思われる。こうした彼女に対する語りは、「国母」といった大文字のイメージよりもずっと身近に響いてくる(ただし、こうしたイメージも、喧伝された彼女のイメージと矛盾するものではない点は注意が必要だろうけれども)。

 他方で、金正淑の射撃の腕前は、やはり自他共に認めるものだったようで、このメイドとして働いた日本人の少女もその話を本人かその近辺の者から聞かされていた。

 その金正淑の射撃の跡が、咸鏡北道・鏡城郡の集三革命史跡地に今日残されている(写真5)。場所は鏡城駅から5kmほど東に行ったやや寂しい漁村のなかだ。1947年10月、息子の金正日を連れて金日成・金正淑夫妻はこの地を訪れたが、そこで金正淑が「百発百中」の射撃の腕前を人々に披露したという。この痕跡が海岸の岩場に刻まれているのだ。

 ここでなぜ射撃をしたのかはよくわからないが、どうやら周りの人々が彼女の腕前を見たいと言い出したらしい6。金日成や金正淑にとってみれば、自分たちが本当に独立の闘士であったことを、手っ取り早く仲間や田舎の漁民・農民たちに見せてわかってもらうデモンストレーションの良い機会だったのかもしれない。逆に、見る者たちにとっては女性が銃を撃つ姿は、その巧さ云々より前に衝撃的なものだったろうし、それが故に尾ひれがついて拡がりやすい話だったのではなかろうか。実際に彼女は、海岸部分の突き出た岩場の上から、その向こうの海中にある別の岩場に向けて銃を撃ったという。距離にして少なくとも40~50mはあるだろうか。その標的となった岩の一つには白い丸印がつけてあるが、ここに命中したようだ。

写真5:集三革命史跡地に残る金正淑の射撃跡

写真5:集三革命史跡地に残る金正淑の射撃跡

6.終わりに――フィクションと現実のあいだで

 1949年、金正淑は若くして亡くなってしまったが、先述のように彼女のイメージは1970年代以降に本格的に編集され、変化していったようだ。もしかするとここで話題にした「パルチザンで活躍した小柄な女狙撃手」という彼女のイメージ自体が、かなりの程度創り出されたものかもしれない。それに、紹介した史蹟自体もそういうストーリーに合わせて編集・創造された可能性だってある。

 しかし私は、そこに潜むいくつかの話がフィクションだからといって、こうした景色や歴史のすべてを嘘っぱちだと軽くあしらったり、退けたりする態度には賛成できない。会寧の革命事績館や集三の革命史跡地で、私に真剣に説明してくれた人々の表情を忘れられないというのもある。それに、たとえそれがフィクションだったとしても、あり得そうな物語としてリアルに響いてきたこと自体が重要なことではないか。もっと言えば、それがリアリティを持ち得てしまう背景には、北朝鮮云々というローカルな事情を超えて、近代国家とはそういう物語と一緒に建設されるのだということを示しているのかもしれない。

 映画『暗殺』の女スナイパー、アン・オギュンが醸し出す美しさや儚さは、私たちを容易にフィクションの世界に連れ去ってうっとりさせるが、それは私たちがいかに歴史に対してロマンチックな物語を求めているのかを逆に照らし出しているとも言えよう。しかも、下手くそなフィクションであればいざ知らず、それがあり得そうな話として編集されながら、実際の建築や史蹟をともなって場所として構築されていくとき、その世界のリアリティに私たちは引きずられる。それは北朝鮮に限らない。いやむしろ、私たちが生きている現代社会とは、どこだってそうした世界になっているのではないか。そしてそんな風にときにでたらめな世界に生きているとすれば、北朝鮮の言説のみに眉につば付けて聞くだけでは不十分だ。当然ながら同じくらいだけ眉につばをつけて、フィクションを心地よく感じてしまう私たち自身の心の様態と、それによって構築されている私たちの社会もまた、見つめ直していくべきなのではあるまいか。

1 一般的には、アン・オギュンは、ナム・ジャヒョン(1872~1933年)という女性の独立運動家がモデルと言われているようだが、射撃の腕前という点では金正淑の方がイメージと重なるのではないか。
2 金正日「抗日の女性英雄金正淑同志は朝鮮人民の心の中に永遠に生きておられる(咸鏡北道会寧市の革命事績事業を現地で指導した際の活動家への談話、2009年2月24日)」http://www.korean-books.com.kp/KBMbooks/ja/work/leader2/00000279.pdf
3 김석향、박민주「『조선녀성』 기사 제목에 등장하는 “김정숙” 호칭의 의미구조 분석」『현대북한연구』22巻、3号、북한대학원대학교 심연북한연구소、2019年。
4 金正日「抗日の女性英雄金正淑同志は朝鮮人民の心の中に永遠に生きておられる(咸鏡北道会寧市の革命事績事業を現地で指導した際の活動家への談話、2009年2月24日)」http://www.korean-books.com.kp/KBMbooks/ja/work/leader2/00000279.pdf
5 ツツジは北朝鮮にとっては重要な花だが、とりわけこの会寧では金正淑と相まって、特別な意味を持っている。
6 http://uriminzokkiri.com/index.php?ptype=cbooks&stype=0&page=32&mtype=view&no=2451&pn=18.

書誌情報
谷川竜一「《エッセイ》北朝鮮の都市(会寧)」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』2, KT.4.01(2024年4月1日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/north_korea/essay02/