アジア・マップ Vol.02 | パキスタン

ラホールは、実家だよ

 
劉 高力(国立アイヌ民族博物館 研究員)

 ラホールについてエッセイを書いて欲しいと頼まれた際に、どこから話せばよいか、まだまだ頭は整理されておらず、胸が暖かくなった。すべてその土地の温かい思い出で満ちているからである。

 2011年、民謡調査のため、初めてパキスタンの土地に足を踏み入れた。自爆テロなどの危険が横行するという噂を耳にしながらも、大学から提出を求められた厳格な自己責任の誓約書を受け入れ、死を覚悟して一人旅立った。なぜ私は恐れを知らないのか、当時の自分は理解できないし、いまの自分に聞いても、答えは変わらない。パキスタンにはきっと何か特別なものが待っているということである。

 最初に到着したのがイスラマバードであった、ごく普通の町で何の怖いものもなく、むしろ整然としていることでびっくりした。綺麗なまちづくり、スーパーで販売しているミルク、特に水牛のミルクが安くて美味しい。知らない人でも笑顔で挨拶してきて、楽しんでいた。そこの国立民間遺産博物館にしばらく滞在したら、職員たちと親しくなり、次にラホールへ行く計画を話すと、「そこが本当のパキスタンだよ、びっくりしないで」と言われた。みんな、笑いながら、パンジャブ語特有の語尾でLahore Lahore aye(ラホールはラホール)と言った。この話は、ラホールを知らない人には伝えられないもので、言葉では表現できないだろう。

 イスラマバードの風景から涙を流し、多くの本を持ち、長距離バスでラホールに向かった。それは2012年初頭のことで、冷たい風と薄暗い町に迎えられた。イスラマバードでの別れの寂しさがまだ胸に残り、この汚れた町では心が軽くならなかった。イスラマバードとは異なり、ラホールにはタクシーがなく、人力車を呼び、必死にパンジャブ大学へ向かった。留学生ではなく、普通の観光客としてパキスタンにいたため、大学などのサポートを期待できない。指導教員とのつながりがあり、中国で留学経験のあるムダサル先生がパンジャブ大学で教鞭をとっているので、世話してくれるかもしれないとのことだった。

 幸運なことに、ムダサル先生が私を連れて学長に話に行ってくれて、そのおかげで大学のゲスト向けの寮に泊まる許可を得た。パキスタンの人々は、何か問題があると「話をする」と言う表現が印象的だった。ムダサル先生は大学でメディア学を教えていて、女子学生のアムナさんを紹介してくれた。アムナは非常に強い性格の女性で、すぐに会話が弾んだ。私の不安そうな様子を見て、彼女は「良いものを見せる」と言い、私を名所「アナルカリバザール」に連れて行ってくれた。それからパンジャブ大学のオールドキャンパスまで歩いて行き、賑やかな町、古い赤レンガの建物、響く鳩の羽音中で、私はまるでムガル帝国の夢に落ちているようで、衝撃を受けた。私の人生においても、その夕日の中のラホールと、その突然の愛情と感動を忘れることはないだろう。

ラホール博物館 2012年 ラホール

ラホール博物館 2012年 ラホール

 その後、ムダサル先生の紹介により、私はラホール近郊の私立民芸博物館でインターンをすることができた。この博物館はイスラマバードの国立博物館とは異なり、パキスタンの文化に貢献した裕福な家族によって設立されたものである。博物館でラホールの芸術家、映像監督、写真家たちと展示を行い、国際人形祭りの準備をし、夜はスーフィーダンスを鑑賞し、博物館の同僚から伝統的な楽器を学び、時折裕福なボスの家に招かれた。詩人、音楽家、テレビ業界の人々が芸術と文学について語り合い、日々美しい夢を見た。

 博物館に行かない日には、アムナが私の寮の部屋によく遊びに来た。一緒に会話を楽しんだり、食事を共にしたりした。ある時、彼女の秘密を聞かせてもらった。彼女には好きな同級生の男性がいたが、会う場所がなかった。当時のパキスタン社会では、未婚の男女が単独で過ごすことは忌避され、ホテルに入る際には結婚証明書が必要であった。また、通常の女子学生寮は相部屋で、夜7時以降外出が許されず、男子学生の出入りも厳しく制限されていた。そこで、彼女はその男性と私の部屋で会いたいと頼んできた。自分の生まれ育った社会に慣れた恋愛感覚とはまったく違う社会の人々への好奇心から、私が断るはずはなかった。そして、ある日、彼女とその男性が私の部屋の前に現れた。急いで中に入り、すべてのカーテンを閉め、電気を消した。それでも誰かに見られることが心配で、私のトイレに入った。2時間後、我慢できずにドアをノックした。すると、男性が挨拶した後で部屋を去った。アムナは泣きそうな顔で、「彼は私にキスしようとしていた、どうしよう」と言った。当時、好きな人とキスすることが普通のことだと考える世界に育っていた私には、まだ結婚もしていない彼女が、男に単独で会ってキスしようとするということに、重い罪悪感や恐怖を感じていたらしいことを結局共感できなかった。

パンジャブ大学のバス 2013年 ラホール

パンジャブ大学のバス 2013年 ラホール

 その後、数回トイレを貸し出したお礼として、アムナが「我がパキスタンのハンサム男子」を紹介しようと言い出した。そして、彼女の同級生であるラシードを呼び寄せた。彼女の冗談のおかげで、私の人生に運命の出会いがあった。ラシードは当時、メディア学の修士を卒業したばかりの頃で、大手新聞社で犯罪報道をしていた。彼は夜間勤務が多かったため、アムナが冗談で人を招くと、彼はちょうど近くにいた。ラシードは確かに社会と国に対する責任感を持った魅力的な男性であった。初対面だったが、彼の話術に感心した。ラシードにとっても、私は初めての外国の友達であり、彼にとって新鮮な存在であった。当時、私は髪を短く切り、常にシャツとジーンズを着用していたため、現地の人々からは「少年」と呼ばれることが多かった。しかし、現地の社会では男性が女性よりも自由な移動ができることが一般的で、私が少年と見られていたおかげで、ラシードとの冒険が簡単にできた。

 私たちは、ラホールの名物料理を楽しんだり、古いパンジャブ語の民謡を探したり、ラシードからさまざまな社会犯罪のケースについて聞いたりした。ある日、夕食に行く約束をしたが、ラシードは急遽仕事に呼ばれた。翌日、ラシードからの電話で、前夜の驚くべき出来事を聞いた。イスラム教の女性とキリスト教の男性が恋愛関係にあり、結婚したいが、自由恋愛と宗教的な問題があり、家族からの許可が得られず、名誉のために殺される危険があった。彼らはラシードたちの新聞社に助けを求め、ラシードたちが駆けつけた。これは非常に危険な状況だと思ったが、ラシードは愛が無罪だと言った。この出来事をきっかけに、彼はラホールの歓楽街の話を私に教えてくれた。当時、私はジェンダーに興味を持っており、第三の性に関心を持っていたが、地下社会の人々と出会う機会がなかった。

 ラシードが同僚に話を聞いたところ、私を歓楽街に連れて行く機会を設けてくれた。歓楽街は町の中心に位置し、夜にならないと活気がなかったため、私たちは夜遅くに訪れた。その夜、風が強く、ラシードのバイクに乗り、彼の衣服が風でひらひらし、巨大なモスクの下に立つ影が奇妙な形に見えた。そういう不安があったが、第三の性のグルの家に到着し、中に入った瞬間、私の不安は消えた。非常に奇妙な幸福感を感じた。彼女の人生についての話、古い町の情報、踊りや歌についての話など、とても安心感を与えてくれた。彼女を「母」と呼んで、その関係は十数年にわたって、また私がこの歓楽街で1年以上過ごすことなどは、その時点では想像だにしていなかった。しかし、その日に、この歓楽街こそが自分が安心できる場所だと確信した。その理由もわからないが、運命の出会いとしか言えなかった。

 こうして、初めてのラホールの旅が終わり、25kgの本を持ち帰ることになった。さらに、博物館の同僚やアムナなどの友人からたくさんの贈り物を受けた。ラシードはその大量の物と私をバイクで連れて行き、イスラマバードに帰るバス停まで送ってくれた。その日、私は再び涙を流しながらラホールからイスラマバードに戻った。

 後日、何度もラホールを訪れ、歓楽街の母の家で長期滞在した。アムナは当時の彼と別れた。ラシードは結婚し、二人の子供を持つ父親になった。彼は冗談で「お前を歓楽街に連れて行くことが私の人生で最大の過ちだった」とよく言っている。これらの人々は私にとって本当の家族である。ラホールに戻るといつでも、その温かさを感じる。無論、そのような感覚が、私が摯愛しているパキスタンのどこでも感じている。ラホール、パキスタン、私の心の実家である。

礼拝する人々 2013年 ラホール

礼拝する人々 2013年 ラホール

ショッピングモール 2024年 ラホール

ショッピングモール 2024年 ラホール

書誌情報
劉高力「パキスタンの都市 ラホールは実家だよ」『アジア・マップ:アジア・日本研究 Webマガジン』Vol.2, PK.4.01(2024年5月14日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/pakistan/essay03/