アジア・マップ Vol.02 | サウディアラビア

サウディアラビアと私

 
池端蕗子(立命館大学衣笠総合研究機構・准教授)

 2022年10月私は人生ではじめてサウディアラビアに降り立った。キング・アブドゥルアズィーズ国際空港は多くの人々でごった返していた。空港から外へ出ると、熱気とともに想像以上の湿気が全身を包み込み、ここジェッダが海に近い都市であることを思い出す。

 空港から車でジェッダの街中心部へと向かう途上で、見渡す限りの瓦礫の平原が出現した。ムハンマド皇太子が2021年に発表したジェッダの再開発計画に基づき、あたり一面が整地されていたのだ。ドライバーによると、再開発によって引越しを余儀なくされた人が多く、住宅価格の高騰も問題になっているとのことだった。到着初日に、国王と皇太子の圧倒的なパワーによるトップダウンの開発を目の当たりにすることとなった。ジェッダの中心部である旧市街には、古い街並みが残されていた。旧市街は更地にはされずに保存され、再開発計画のもと伝統的なデザインを残す建物の修復に取り組む労働者の姿が散見された。

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ジェッダの旧市街の街並み。外壁から突き出た飾り窓が特徴的。

 私がジェッダを訪れた最大の理由は、ここに研究対象であるイスラーム協力機構(Organization of Islamic Cooperation, 以下OIC)の事務局があることだった。OICは1969年にイスラーム諸国会議機構の名で設立され、2011年に現在の名前に改称した。OIC設立前夜には、このようなイスラーム世界を代表する国際機構設立に向けて、複数のイスラーム諸国がイニシアティブを取ろうと模索した。そして最終的にイニシアティブと事務局の所在地を勝ち取ったのがサウディアラビアだった。OICはイスラームという宗教を理念に掲げる珍しい政府間国際機構であり、現在57カ国の加盟国を有する(OICはパレスチナを独立国家として認定し、加盟国に加えている。シリアは2014年以降加盟資格停止処分中)。

 OICはその政治的実行力のなさが、しばしば批判の的となってきた。たしかに国連など他の国際機構と同様に、なかなか数の多い加盟国すべての意見を一致させ、問題を解決してみせることは難しい。その点で、OICの国際的な影響力が飛び抜けて大きいとは言い難いのだが、OICが提供する国際会議の場を各国がどのように利用しているのかについては、研究する価値があると考えている。OIC主催の国際会議は、加盟国の合意形成の場であると同時に、加盟国間の政治的闘争や交渉の場でもある。実際に会議に参加してみると、参加者それぞれが自国政府のアピールの場として捉えている様子が観察できた。各国が自国の利益を最大化するためのチャンネルは1つでも増やすべく動いており、OIC会議の場もそのチャンネルの1つとして、抜かりなく確保しているように感じられた。

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在ジェッダOIC事務局の会議室において、筆者が参加した国際会議の様子。

 ジェッダのショッピングモールでは、女性が頭髪を布で覆わずに歩く姿がちらほら見られた。モールには映画館もあり、本屋には英訳された日本の漫画のラインナップが充実していた。ホテルに帰ってテレビをつけると、弦楽器を奏でながら歌う女性が映し出された。これらの情景は、かつてのサウディアラビアを知る人にとっては驚くべきものかもしれない。

 サウディアラビアでは近年、さまざまな規制緩和が進められてきた。特に2018年以降、女性の自動車の運転が認められたほか、アバヤ(全身をゆったり覆うもの)やヒジャーブ(頭髪を覆うもの)といった女性の服装も事実上個々人の任意とされ、映画館も営業が認められた。これらの改革は「ビジョン2030」の一環として行われてきた。これは、脱石油依存社会を目指し、経済・社会のあり方を大きく変革させるべく、ムハンマド皇太子のイニシアティブのもと行われているものである。石油産業以外の、たとえば観光業にも力を入れており、外国人がサウディアラビアへ入国する際の観光ビザの条件も、近年大きく緩和されつつある。

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ジェッダのショッピングモールにて。髪を覆わない女性の姿も。

 ジェッダでの用務を終えた後、私は2018年に営業を開始したハラマイン鉄道にのって、聖地マディーナへ向かった。「ハラマイン」とは、アラビア語の「聖地(ハラム)」の双数形(複数形と別に、2個あることを表す語形)であり、ハラマイン鉄道は文字通り2つの聖地マッカとマディーナを結ぶ高速鉄道である。マディーナは2022年に異教徒への規制が緩和され、立ち入りが許されるようになったばかりである。現状では異教徒は、いくつかの外資系ホテルにのみ宿泊が可能である。なお、もう1つの聖地マッカは未だ異教徒の立ち入りを禁じている。

 マディーナは聖地であるから、全世界から巡礼のためにムスリム(イスラーム教徒)たちが集う都市であり、多種多様な服装、顔つき、言語のひとびとが通りを行き交う。ただしジェッダで見かけたような髪を覆わない女性の姿はどこにも見当たらない。私も頭髪を覆う服装でマディーナの中心部、預言者モスク付近を散策した。すると、これまで他の中東諸国を歩く時に常日頃感じてきたような「自分が異物である」という感覚が不思議と薄れていく。

 なぜだろうと考えてみると、ここにいるのは同じ「ムスリム」であり「巡礼者」であるはずという大前提が皆にあり、私に向けられる目線も、「部外者」と認識して向ける目線ではないからだった。「東洋人」で「外国人」で「異教徒っぽい」、「観光客かしら」といった目線を、たとえばヨルダンで生活しているといつも感じるものなのだが、ここではそれがない。全員が同じムスリムであることが大前提となっていて、かつ、全員が世界中からやってきた異なる人間であることも大前提となっている空間なのだ。だれもが「異物」として扱われない空間で、私は異教徒でありながら、居心地の良ささえ覚えるような、迎え入れられているような、不思議な感覚になった。異教徒の私ですらそのように思うのだから、たとえば世界各地でマイノリティとして暮らしているムスリムたちが初めて聖地へやってきた時、その感慨はいかほどだろうかと想像を巡らせた。

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聖地マディーナの預言者モスク前にて。老若男女、全世界から人々が集まっていた。

 ジェッダの書店で漫画『鬼滅の刃』が売られていることも、Uberで呼んだ運転手の男性がとても気さくに話してくれることも、渡航前にサウディアラビアに抱いていたイメージとは違っていて、意外に感じることが多くあった。その地に足を踏み入れなければわからないことがあると改めて実感した、サウディアラビア滞在であった。来たる2030年までに、この国が一体どのような変化を遂げるのか、これからも見続けていきたい。

書誌情報
池端蕗子「サウディアラビアと私」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ2, SA.2.01(2024年4月1日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/saudi/essay01/