アジア・マップ Vol.02 | シリア
《エッセイ》シリアと私
パルミラ遺跡の元遊牧民
2010年6月、はじめてシリアを訪れた。当時、私はイエメンのサナアに居住していたのだが、シリアとヨルダン、エジプトを縦断しようと、ふと思い立った。サナアからシリアのダマスカスへ飛び、エジプトのカイロからサナアへ戻る便だけあらかじめ確定し、道中のルートについては旅のなかで考えていく、一か月ほどの小旅行である。
ダマスカスで数泊した後、パルミラへ向かった。パルミラは、紀元前1世紀から紀元後3世紀にかけて隊商交易の拠点として栄えた、オアシス都市であった。パルミラ商人の移動範囲は広域にわたり、エジプトやルーマニア、そしてイエメンのソコトラ島でも、その形跡が見られる。ローマ期につくられた都市は後に廃墟となったが、イスラーム化した後も人々はそのほとりで町をつくって暮らし続けた。17世紀にヨーロッパ人が都市遺跡を「発見」すると、その歴史的な価値が広く認められるようになった。そして1980年に、この遺跡は世界遺産に登録された。
パルミラ遺跡は、要はローマ遺跡である。複数の神を祀るベル神殿や凱旋門、列柱道路、四面門、円形劇場、水路などが、これまでに修復されていることもあって、この頃にはまだよく残っていた。だだっ広い砂漠のなかにあるため、激しい日差しと相まって、観光はなかなか大変である。それでも頑張って写真を撮って歩き続けたが、途中で飽きて、観光客がいない閑散としている方へ向かうこととした。しばらく歩いたところ、簡素なテントが二基、前方に見えてきた。脇には、水が入っていると思しき青い大きなタンクもある。何かしらと思いながら近づいてみると、そばにいた男が手招きするので、誘われるがままにテントのなかへ入ってみた。
テントのなかでは、砂の上に一枚の大きな絨毯が敷かれていた。ほかには、一台の小型テレビと一棹の木製の棚が置かれているのみである。テレビでは、サッカーの試合が行われている。絨毯の上では、幼い女の子が二人転がって遊んでいた。男が「コーヒーを持ってきてくれ」と叫ぶと、隣のテントから赤ん坊を抱えた女性がコーヒーを持って入って来た。
男はアフマド(仮)といった。アフマドは、妻と三人の娘とともに、この二つのテントに暮らす、元遊牧民である。かつては羊を飼っていたが、数年前にそれらをすべて売却し、代わりに一台のバイクを購入したのだという。今ではこのバイクを使って、毎年やって来るイタリアの発掘隊の手伝いをして暮らしている。
子供たちの年齢は、上から五歳、三歳、九か月であったと思う。長女はとても人懐っこく、会ってそうそう私の膝の上に座ってきた。耳元で「お金持ちなの?」と私に尋ねたがために、「客人に何てことをきくんだ」と、アフマドにこっぴどく叱られていた。次女は、私のデジカメをケースごと水が入ったたらいに落とし、アフマドにこっぴどく叱られていた。水が汚れていたようで、ケースにはとれない染みがついた。私はこのケースを今でも使い続けている。赤ん坊の三女は、絨毯の上に転がって、大きな目で私を見つめるばかりであった。
長女あるいは次女を膝にのせて、夕暮れに染まるパルミラ遺跡を見つめながら、アフマドといろいろなことを話した。アフマドは寡黙な男だが、話すこと自体は好きなようだった。遺跡の目と鼻の先に町が展開しているのになぜ砂漠で暮らしているのか尋ねると、「消費が多いから」という答えが返って来た。遺跡のなかでの暮らしは、無駄な消費を必要としないので、好きだ。これからも、ここでこうして暮らしていきたい。これが遊牧民の感覚なのかもしれないと、ぼんやりと考えた。
パルミラには四日間滞在し、連日午後にアフマドのもとを訪れた。念のために申し添えると、私が無理やり訪問し続けたわけではなく、アフマドと娘たちの求めに応じた次第である。子供たちと戯れ、薄いコーヒーを飲みながらアフマドと話し、あとはただ遺跡をぼーっと眺めていた。風の音しかきこえない、贅沢な時間だった。毎回お菓子を買って持って行ったが、次女が独り占めしようとするので、アフマドにこっぴどく叱られていた。
四日目に訪ねたときには、アフマドの父親と母親、二人の弟、三人の妹が来ていた。アフマドのテントの引っ越しの手伝いのために、片道二時間の道のりを歩いてやって来たのだ。今のテントの場所では蛇が出るため、数十メートル離れたところに引っ越すのだという。
大人たちは、強い日差しが照り付けるなか、ほとんど水を飲むこともなく、黙々とテントを解体し、移動させていた。私の「子守り」は、アフマドの娘と妹たちが務めてくれた。テントを再度組み立てるときに、ようやく私も少しだけ手伝うことができた。
ある程度組み立て終わったテントで、昼食休憩となった。ジャガイモと羊肉、トマトを炒めたものを、皆で食べた。たくさん食べるように勧められたが、飲料水が切れたこともあって、なかなか難しいところがあった。食後には大きなスイカが出てきた。砂漠のなかで食べたためだろうか、人生で一番美味しいスイカとなった。
この日の午後に次の町へ向かうバスの便を予約していたため、スイカを食べ終わるとすぐにテントを離れた。また遊びに来る旨を伝えたところ、アフマドは頷いていた。何度振り返っても、大人も子供も手を振り続けてくれていた。
その後、ユーフラテス川河畔の町デリゾールとドゥラ・エウロポス遺跡に立ち寄り、シリア北部のアレッポに到着した。実はそこで、もう一度パルミラを訪れようとも考えたのだが、日程が限られているために断念した。またいつでも戻って来られるだろうし、イエメンから日本へ帰国する途中で立ち寄ることもできるだろう。その際には、撮影した写真を現像して渡そう。そう考えて、アレッポで夜行バスに乗り、一路ヨルダンの首都アンマンを目指した。そのままヨルダンを南下し、エジプトへ船で渡った後、予定通りに2010年7月にイエメンへ戻った。
そのわずか半年後のことである。2010年12月に、チュニジアで革命が起きた。その影響はアラブ諸国へ瞬く間に広がり、諸国の政情が急激に不安定になっていった。2011年3月にイエメンの日本国大使館が撤退すると、私はイエメンを離れてオランダへ向かい、後に日本へ戻った。シリアに立ち寄ることはしなかった。
シリアの情勢もまた、悪化の一途をたどり、ついには内戦が生じた。パルミラ遺跡もこの戦禍から逃れることはできず、2015年から2017年にかけて、ISILによる徹底的な破壊を受けた。パルミラの住民のほとんどは早々に逃げ出したが、それでも幾人もの人々が犠牲となったり処刑されたりした。いくらかのニュース記事に目を通したものの、町の話ばかりで、パルミラ遺跡のなかで暮らすアフマドたちに言及したものはなかった。
2024年現在、赤子だった三女はもう14歳になっているはずである。手元には、アフマドたちを写した大量の写真と動画が、今なお残っている。
書誌情報
馬場多聞《エッセイ》「シリアと私 パルミラ遺跡の元遊牧民」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.2, SY.2.03(2024年10月21日掲載)
リンク:https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/syria/essay02/