アジア・マップ Vol.02 | 台湾

《総説》
台湾文学

赤松美和子(日本大学文理学部 教授)

台湾文学の記述言語は?
 台湾文学は何語で書かれているのか?日本文学だと日本語だから、台湾文学だと台湾語だと思うかもしれない。半分正解、半分不正解だ。台湾では、話し言葉としては、中国語、台湾語が主に使われ、一部では客家語も話されている。だが、書き言葉は、中国語が圧倒的だ。台湾語はほんの一部の人しか書いたり読んだりできない。つまり、今の台湾文学はほとんどが中国語で書かれている。

 だが、台湾語で書かれている文学、客家語で書かれている文学もほんのわずかながら存在する。特に、近年は、話し言葉としては台湾語も頻繁に(時に文全体、時に単語のみ)使われている現状を反映して、地の文は中国語、会話文は台湾語が用いられている作品もある。

 台湾は、移民の国であり、統治者も何度か変わってきた。そのため、時代により言語も翻弄され、主要な言語も一様ではない。よって、台湾文学=台湾語、あるいは台湾文学=中国語というような単純な図式は成り立たない。

先住民族の文学
 台湾の最初の住人は先住民族だ。中国語では、原住民族(ユェンジュウミンズウ)と呼ぶ。現在、政府に承認されているのは、アミ、タイヤル、パイワン、ブヌン、プユマ、ルカイ、ツォウ、サイシヤット、ヤミ/タオ、サオ、クヴァラン、タロコ、サキザヤ、セデック、サアロア、カナカナブの16族で、台湾の全人口約2300万人のうち、先住民は約59万人、全体の2.5%を占める。それぞれの言語、文化を持つ先住民族の文学は、文字としては残っておらず、口承で伝えられてきた。だが、1945年の中華民国以降の中国語教育により、今では先住民たちも中国語で創作している。

 先住民の人たちは、清朝統治期は「生番」、日本統治期は「蕃人」、1935年以降は「高砂族」と呼ばれ、太平洋戦争では「高砂義勇隊」として多くの若者が日本兵として動員され命を落とした。さらに戦後、国民党統治期には「山地同胞」と呼ばれることになった。

 こうした悲哀を、パイワンのモーナノン(1956-)は、詩「僕らの名前を返せ」(訳:下村作次郎)に表している。

 「生番」から「山地同胞」へと
 僕らの名前は
 台湾の片隅に置き去りにされてきた
 山地から平地へ
 僕らの運命は、ああ、僕らの運命は
 ただ人類学の調査報告書のなかでだけ
 丁重な取りあつかいと同情を受けてきた
 (中略)
 どうか真っ先に僕らの名前と尊厳を返してください
  (モーナノン/トパス・タナピマ著、下村作次郎訳『台湾原住民文学選1―名前を返せ』草風館、2002年、7-9頁)

 なお、1994年に憲法が改正され、先住民自らが選んだ「原住民」という呼称が公式となり、さらに97年には「原住民族」に修正され、現在では「原住民族」が定着している。

 16族のうち、最も人口が多いのはアミの約20万人だが、第11位、約4000人のタオは、蘭嶼という台東の東にある島で暮らし、舟を造って、トビウオ漁に出る文化を持っている。シャマラン・ラポガン(1957-)の小説『大海に生きる夢』(下村作次郎訳、草風社)の海の描写は、息をのむほど美しい。

清朝統治期の漢文
 清代の漢人の文学には、知識人による伝統文学(漢文)と民間の口承文学の二種がある。国立台湾文学館のHPには、台湾文学の貴重な資料が掲載されており、清朝統治期の漢詩や漢文の文献も見ることができる。

日本統治期の漢文・日本語(台湾語・中国語)
 1895年、日清戦争に敗れた清によって、台湾は突然、日本に割譲され、日本植民地統治が始まる。統治開始直後は、互いに言葉は通じなかったが、台湾も日本も知識人たちは漢文の素養があり、漢文の筆談で意思疎通したそうだ。日本側にも、漢詩が書けるような台湾の知識人の協力を得たい思惑もあり、漢詩を詠む会も開催されていた。

 学校では日本語教育が行われ、日本に内地留学する台湾人も増えていく。近代化以降、日本でも、言文一致の文学表記が試みられた。台湾でも、台湾語での言文一致の文学表記、あるいは中国語での言文一致の文学表記が試みられたものの、日本語以外の言語の作品は発表の場も限られ、結局、台湾語は、文字として表記する絶好のチャンスを日本の植民地統治により失ってしまう。その後、台湾語の文字表記は未だに完全には確立されていない。

 文学活動も、次第に日本語で行われてく。日本の商業誌に台湾の作家の作品が掲載されたのは、楊逵(1906-85)「新聞配達夫」(『文学評論』1934)が最初だ。当時の日本では、小林多喜二の『蟹工船』のようなプロレタリア文学が流行しており、楊逵の『新聞配達夫』も、住み込みで新聞配達する青年を描いた資本家に搾取されるプロレタリア文学である。続いて呂赫若(1914-50)「牛車」、龍瑛宗(1911-99)「パパイヤのある街」も日本の商業誌に掲載された。

 日中戦争開始後、皇民化運動は文学にも及ぶ。代表的な皇民文学に周金波(1920-96)「志願兵」(1941)王昶雄(1915-2000)「奔流」(1943)がある。

国民党統治期の中国語

 1945年、敗戦により日本が引揚げ、自由な文学活動が可能になるかに思われた。台湾生まれの作家たちも、一瞬は祖国復帰を喜んだものの、統治する政府が変わっただけで、日本統治期と同じく搾取される社会に絶望する。

 「国語」は日本語から中国語になり、台湾の文学活動は、中国文学として中国語で為すべきものとなった。言語転換を受けて、台湾生まれの作家たちの一部は筆を折り、一部は発表媒体のないなか日本語で書き続け、一部は中国語を学び中国語で発表した。

 鍾肇政(1925-2020)は、日本語教育を受け、終戦を20歳で迎えた。戦後、中国語での創作に挑むものの、最初のころは、まず日本語で書き、それを自分で中国語に翻訳したそうだ。1960年にようやく中国語での小説「永遠のルピナス」を発表している。台湾北部の客家の貧乏な茶農家の一家に生まれた絵の天才的な才能を持つ少年の悲劇を描いた『永遠のルピナス』は、中島利郎の日本語訳で研文出版から刊行されている。

 1971年の国連脱退、72年の日華(日台)断交、79年の米華(米台)断交など1970年代、国際社会における中華民国の立場の揺らぎは、文学にも影響を与えていく。中華民族としての文学ではなく、郷土の台湾のリアルを描きたいという作家たちも現れ始めた。彼らの作品は郷土文学と呼ばれ、のちの台湾文学につながっていく。

 現在、日本で翻訳出版されている台湾文学は300冊以上あるが、恐らく最初に重版になったのは、郷土文学作家の黄春明(1935-)『さよなら・再見』(田中宏訳、めこん)であろう。当時、日本から台湾への買春ツアーが多く行われていた現状を踏まえ、台湾人青年ガイドと日本人買春観光団とのやり取りをアイロニカルに描いた作品だ。主人公の台湾人青年は社長からの命令で、日本の取引会社の7人の日本人男性を、接待で買春のために温泉に案内するように頼まれる。一行は、電車で移動中に日本留学予定の台湾の学生に出会う。青年はそんなおじさんたちの通訳に嫌気がさし、あるアイディアを思いつく。その学生と日本人7人とが互いの言語を解さないのをいいことに、両者を嘘の通訳で仲介し、青年がほんとは言いたかったこと、つまり日本による戦争や植民地統治や戦後の経済侵略への批判を言ってしまうというものだ。小説の最後で、日本人のおじさんたちは素直に過去の過ちを認め、最後の場面では、学生は「さよなら」と日本語で別れを告げ、日本人のおじさんは「再見」と中国語で別れの挨拶を交わして物語は終わる。

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『さよなら・再見』の日本語版(めこん/1979年)

 台湾は、1949年から87年まで世界最長の戒厳令が敷かれていたが、言論の自由のない社会において、もちろん瓊瑤(1938-)などの恋愛小説なども人気があったが、文学はフィクションである特性を生かし、社会的批判を込めた挑戦的な文学も多く発表されている。1980年代になると郷土文学に加え、政治文学、フェミニズム文学が多く発表される、李喬(1934-)は日本統治期初期のある客家の家族の物語『寒夜』(岡崎郁子、三木直大訳、国書刊行会)を発表。李昂(1952-)『夫殺し』(藤井省三訳、宝島社)は、郷土文学にフェミニズム文学を掛け合わせ強烈なインパクトを与えた。陳映真(1937-2016)は白色テロで処刑された兄の妻と名乗る女性の生き様を通して過酷な50年代を「山道」を以て描いた。息子の目から外省人第一世代を戯画化した張大春(1957-)「将軍の記念碑」、アメリカを舞台に台湾社会をパロディ化した平路(1953-)「奇蹟の台湾」など台湾の現状をアイロニカルに描いた政治小説も発表された。

民主化以降の台湾文学
 1987年の戒厳令解除を経て、これまで抑圧されてきた文芸活動が一気に萌芽し多彩な文学が生まれる。李昂『迷いの園』(藤井省三監訳、櫻庭ゆみ子訳、国書刊行会)では、女性主人公が自分の記憶を日本統治期に遡及し台湾史と重ね合わせ語っている。戦後教育で学んだ中国史に対して、本省人、外省人二世、先住民、女性など様々な立場から台湾に生きてきた者としてアイデンティティの構築を試みる語りは1990年代の特徴である。

 2019年、アジアで初めて、同性婚が法制化された。その40年も前から、文学はジェンダー平等を語る言葉と物語を世に送り出していた。1977年に連載が始まり83に出版された白先勇(1937-)『孽子』は、高校3年生の李青が、学校で同性と性的関係を持ったことにより退学処分を受け、退役軍人の父親から勘当され家を追い出される場面から始まる。居場所を失った李青は街をさまよい、台北の新公園(現:二二八平和紀念公園)のゲイコミュニティーに流れ着く。人目を忍びながらも、長老の保護のもと、同じ境遇の少年たちと共に過ごし、自分の生き方を模索する。『孽子』は、同性愛者がカミングアウトすれば、家に居続けることすら許されなかった1970年代の台湾社会における、ゲイの青年の葛藤と絶望、台北のゲイコミュニティーの証言者でもあり、台湾LGBTQ文学の金字塔といわれる。

 その後も、女友たちへの愛情に苦しむ女子大生の葛藤を描いた邱妙津(1969-95)『ある鰐の手記』(1994)は高い評価を受け文学賞も受賞し、陳雪(1970-)、紀大偉(1972-)の作品を始め、多くのセクシュアル・マイノリティ文学の誕生を導いた。紀大偉は、台湾のLGBTQ文学を研究し、その文学史を『同志文学史-台湾の発明』(2017年)と題して刊行している。

 2003年に国家台湾文学館(現:国立台湾文学館)が台南に開館した。台湾文学を冠した公的機関の誕生は、台湾の文学を、中国文学や日本文学の周縁の一地域の文学から、「台湾文学」という政府公認の国家文学へと押し上げた。このころ、大学に台湾文学科や研究所(大学院)が相次いで開設され、台湾文学が体制化されていく。

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台南市にある国立台湾文学館(赤松美和子撮影)

 台湾文学が当然のものとなった現在、呉明益(1971-)『眠りの航路』(倉本知明訳、白水社)、『歩道橋の魔術師』(天野健太郎訳、白水社)、『自転車泥棒』(天野健太郎訳、文藝春秋)、甘耀明(1972-)『鬼殺し』(白水紀子訳、白水社)、『真の人間になる』(白水紀子訳、白水社)、徐嘉澤(1977-)『次の夜明けに』(三須祐介訳、書肆侃侃房)、陳思宏(1978-)『亡霊の地』(三須祐介訳、早川書房)、柯宗明『陳澄波を探して―消された台湾画家の謎』(栖来ひかり、岩波書店)、楊双子(1984-)『台湾漫遊鉄道のふたり』(三浦裕子訳、中央公論新社)など、屈指のストーリーテラーである新世代の作家たちの作品は、最新の知見と多言語多文化を包容する現在の台湾社会の感性を以て台湾史を鮮やかに織り直し新たな世界を展開している。

 昨今では、東南アジアからの移民たちが母語で書いた文学を対象とした移民工文学賞(2013 -)も開催されている。

 先住民族の口承文学に始まる台湾の文学は、清朝統治期は漢文、日本統治期は漢文から日本語、戦後は中国語(北京語・台湾華語)が主要な書き言葉であり、そのほか、台湾語、客家語、日本語、先住民諸語、東南アジア諸語など多様な言語から成る。東アジアの近代において、一国家一言語一文学という近代国家意識と帝国に翻弄され闘ってきた台湾文学は、台湾の地で生まれたすべての文学を包容し、台湾文学として、世界に発信され続けている。

書誌情報
赤松美和子《総説》「台湾文学」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.2, TW.1.02(2024年11月15日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/taiwan/country/