アジア・マップ Vol.02 | 台湾

台北のたのしみかた

立命館大学経済学部教授 金丸裕一

 隣邦・台湾は、わたくしが最も好きな場所です。職業生活のゴール間近になりエッセイ執筆を拝命したので、回想と観察をまぜこぜにした雑文を書いてみました。

 学生時代の1981年に二度目の海外として中国文学科の先輩とともに五日間ほど同地に出掛けてから、既に40年以上の歳月が過ぎました。単なる物見遊山ではつまらないから、関西大学に赴任してまもない故・石田浩先生の農村調査を手伝いながら1983年の元旦を宜蘭で迎えたことなども、懐かしい思い出です。専門分野である民国史の一次史料が逸早く公開されて自由に閲覧できたこともあり、早稲田大学の恩師に紹介していただいた中央研究院の先生方には、その後もずっとお世話になり続けています。南港で家族と一緒に滞在した時間も丸二年を超えました。合計すると短い時間ではありません。ただ、わたくしはかなりの無精者でかつ無計画なタイプであり、進んで新奇な場所を開拓するのは苦手です。結果、必然的にぐうたらと過ごす日常になりました。

 最初の訪台から1990年代半ばまでに体験・思索した事柄については、1997年に報告をまとめています1。それを読み返すと、題材にした中央研究院や国立台湾師範大学のキャンパスでは、嬉しいことに現在、常時日本からの専門家や学生の姿を目にします。出生直後に台北で暮らした娘は、交換留学を機に「回家」しました。冒頭で登場するお二人の先生も、長年に亙り日本からの研究者を御世話した功績から、旭日中綬章の受賞に到ります。

 1980年代は戒厳令下に在ったためか息苦しさも感じ、臨検や防空演習に出くわして面食らったりもしました。もっとも、長くて一ヶ月くらいの滞在ですから「走馬看花」の域は脱しません。1990年代を迎え、給料や科研費その他の助成が使えるようになると、史料を求めてなるべく長期間滞在しようと頑張りました。ただ、1997年に財団法人交流協会から派遣された在外研究、1998年から1999年に頂戴した最初のサバティカルのころ、自宅がある南港はとても不便でした。中心部へ向かうにもバス以外の公共交通手段がなく、台北車站から真直ぐ東に伸びる忠孝東路は万年工事状態だったため、オートバイの車列を曲芸のようにすり抜けながら凸凹道を飛ばすバスでも、時間がかかって堪らない。タクシーに乗車拒否されたことも、一度や二度ではありません。したがって、ときおり招待される「美食」や「林森大学」征伐くらいしか娯楽はないのか知らん、と感じました。

 21世紀に入った頃から、たのしみかたは徐々に変わります。段々と、市内を歩き廻るようになりました。とくに、2018年8月末から19年9月末の外留時には併せて384回、北投や紗帽山、遠くは金山の温泉に出陣したのです。在外研究でこれだけ温泉を攻めた記録や伝聞に接したことはありませんから、非公式ですが立命館大学史上空前絶後の壮挙だと自負します。そして、その予兆は21世紀に突入したころに始まりました。自分史に重ねると四年間の別府出向の副作用かな、とも考えました。でも、歴史家として冷静に振り返ると、他の理由によって規定されていたのだと気付きます。それは、何だったのか?

 まずはインフラ整備です。2000年末に忠孝東路の地下を通る捷運板南線が昆陽まで延長され、2011年2月、遂に徒歩20分程度の距離にある南港展覧館まで開通しました。交通網が次第に充実したので、勢い行動範囲も広がります。決して、怠惰な性格が治ったわけではなく、単に動きやすくなっただけ。この時期は、南港方面だけでなく、台北から新北にかけて市域全体の交通網が再編され成長していたので、未知だった場所が実はこんなに近かったのかと、吃驚の連続でもありました。

 次に、お風呂のお話に移行しましょう。横着なシャワー派だったわたくしですが、先にチラっとふれた通り、APU開学要員として別府で暮らした四年間に、日々是温泉派に転向しました。思想的背景はありません。竹瓦に浸かり鐵輪で蒸され、明礬で寝ころび砂湯に埋もれているうちに、旧いイデオロギイは霧消しました。ただこうした私的事情だけでなく、1990年代後半には、どうも台湾の温泉を取り巻く様々な状況が変容していたようです。

 台湾の温泉は、地下水や火山帯だけではなく、日本要因と密接に関係しています。領台前も、原住民の利用や硫黄採掘、清代には漢人による沐浴などの記録は残ります。そして日本時代の1912年に金包里、13年の北投・草山と関子嶺、14年には知本などが「公共浴池」として開発されました。つまり、入浴や療養乃至はレジャーを目的とした利用が始まったのです。しかし、1930年に刊行された調査では、総計67ヶ所の温泉のうち浴場を備えたものは30ヶ所のみと報告されるだけでした2

 他方、総督府お膝元の北投は少し違っていたようです。領有直後から民間旅館や陸軍療養所が設けられ、また湯瀧という露天浴もありましたが、行政側の関与を通じて近代的温泉場と公娼制度が入り混じった「文化租界」的な空間へと転じます。大正期から昭和初期の旅行記を読むと北投はしばしば「名湯」として登場しますが、鉄道官僚で台湾総督府交通局鉄道部長だった武部英治によれば、戦時中に多くの施設は陸海軍に接収され、「民間人」に残されたものは2~3ヶ所に過ぎなかったようです3

 敗戦を境に、台湾の支配者層は入浴習慣の異なる外省人に交代しました。経済的混迷に加えて戒厳令、大陸からの敗走、米軍進駐、東西冷戦といった激動のなかで温泉郷の姿もうつろい、米兵相手の「歓楽街」機能が拡大します。やがて高度経済成長を機に、日本人も「復帰」しました。1970年代の週刊誌に紹介される「男性天国」北投は、さながら黄春明『さよなら・再見』を彷彿とさせる場であり、読んでいて恥ずかくなるほど4。1980年代初頭、ちょうど大学生だった頃、台湾を旅する際につきものだった同級生から向けられる「疑惑」の原因もこのあたりに由来するのでしょう。

 先ほど、交通インフラ整備のお話をしましたが、他にも考えるべき背景があります。1999年に台湾政府行政院交通部は「温泉観光年」キャンペーンを推進して、産業としての「温泉」活用を模索し始めます。さらに台湾人の日本旅行熱の副産物として、様々な「日式」が流行しました。アニメやコスプレに代表される「御宅」を好み、しかも日本統治時代はまったく経験したことがない「哈日族」と呼ばれる若者が出現し、遂に着衣義務がある温泉のみならず、日式「裸湯」に足を運び、かつ抵抗なく成敗する現地人も増加し始めたのです。烏来や金山、礁溪などでも、日本風情の「大眾池」が人気を呼びました。

 複数の因果関係が働いて、別の表現を使うならば必然と偶然が上手いことコラボして、わたしくしにとって最も愉快な台北の日常時間が、2000年代という条件下で与えられました。単に「親日」的な台湾は云々かんぬんといった次元の、オメデタいお話の産物ではありません。みずからの頑張りや努力ではなく、歴史的展開のなせる業としてプレゼントされた「台北のたのしみかた」ではありますが、いまこの瞬間にも他者は絶えず変化を遂げつつあることを覚えながらも、あとしばらくは通い続けたいものだ、と願っております。 ここまで飽きずに読んで下さった方々に感謝します。さあ、あなたもぜひ台湾へ赴いて、2020年代半ばの隣国ならではのたのしみかたを発見して下さい!

写真1

南港区研究院路の自宅からの風景。(2019年8月28日 筆者撮影)

写真2

新北投の温泉旅館街の様子。(2019年1月31日 筆者撮影)

写真3

ビル内にある天然温泉かけ流し銭湯。(2018年9月29日 筆者撮影)

写真3

水着着用義務風呂の写真。(2019年7月4日 筆者撮影)

1拙稿「台湾で考えたことー中央研究院・国立台湾師範大学での経験から」(『大学創造』第6号、1997年)。
2『台湾の鉱泉』台湾総督府中央研究所、1930年。
3武部英治「北投温泉」(『温泉』第22巻第3号、1954年)。
4黄春明『莎喲娜啦・再見』(遠景出版社、1974年)。

【主な参考文献】
曽山毅「日本植民地期における北投温泉の形成」(『立教大学観光学部紀要』第2号、2000年)/高田京子『台湾温泉天国』(新潮社、2002年)/陳柏淳「台湾的温泉分布与産業発展」(『台湾鉱業』第67巻第1期、2015年)/捲猫 著、三浦裕子 訳『台湾はだか湯めぐり 北部篇』(中央公論新社、2024年)。

書誌情報
金丸裕一《エッセイ》「台北のたのしみかた」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.2, TW.2.01(2024年10月21日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/taiwan/essay01/