アジア・マップ Vol.02 | ウズベキスタン

《総説》
日本におけるウズベキスタン研究

 
小松久男(東京大学名誉教授・東洋文庫研究員)

 日本におけるウズベキスタン研究を振り返ると、最初に想い出されるのは西徳二郎(1847-1912)の著書『中亜細亜紀事』(陸軍文庫、1886年)である。彼は明治新政府からロシアに派遣されてサンクトペテルブルグ大学に学び、在ロシア臨時代理公使を務めた後、1880年の帰国に際してロシア領トルキスタンを広く巡り、この間タシュケント、サマルカンド、カルシ、ブハラ、コーカンドなど、現ウズベキスタンの主要な都市を訪問している。彼の目的は当時露清関係の焦点となっていたイリ問題の視察にあったが、帰国後に中央アジア関係の内外の文献を参照してまとめたのが本書である。これは現地旅行で得た知見をもとに、中央アジアの地誌と歴史、現況を詳細に記した大著であり、いわば日本における中央アジア地域研究の嚆矢ともいえる。これを直接受け継ぐ研究は現れなかったとはいえ、帰国後に書かれた旅行報告書も含めて、西の著作は今も同時代史料としての価値を有している。

 西が訪れたロシア領トルキスタンの一部にウズベキスタン(当初の名称はウズベク・ソビエト社会主義共和国)が成立するのは、1917年のロシア革命を経てソ連邦が形成された後の1924年のことである。日本におけるウズベキスタン研究というときに留意すべきことは、それはかつても今も、より広い中央アジアあるいは中央ユーラシア研究の一部としておこなわれてきたことだろう。たとえば、中央アジア史研究は、現在のウズベキスタンを含むトルキスタンやマーワラーアンナフル(8世紀のアラブ・ムスリムによるアム川以北のオアシス地域の征服に由来する地域名称)の古代から現代までの歴史を対象としてきた。ウズベキスタンに特化した研究が現れるのは、ウズベキスタンが1991年にソ連から独立して以後のことである。中央アジア地域研究もこの時期に始まるが、それが対象とするのはおもにウズベキスタンのほかカザフスタン、クルグズスタン(キルギス)、タジキスタン、トルクメニスタンの5カ国である。

 これをふまえてこれまでの研究を見ると、二人の先達の業績にふれないわけにはいかない。一人は加藤九祚先生(1922-2016)、先生は戦後に厳しいシベリア抑留を経験されながら、その間に習得したロシア語を駆使して中央ユーラシアの歴史と文化の研究に没頭された。先生の多数の著作と翻訳が後学に与えた影響ははかりしれず、私も高校時代に『西域の秘宝を求めて-スキタイとソグドとホレズム』(新時代社、1969年)などを読んで中央アジア史の奥行きを学んだ一人である。ペレストロイカ期の1989年からはウズベキスタン南部のテルメズを拠点にカラテパやダルヴェルジン・テパなどの仏教寺院址の発掘調査に取り組まれ、自ら資金を調達しながら進めた調査によって、埋もれていたストゥーパ(仏塔)の発見にも成功された。このような先生の熱意と偉業はウズベキスタンの学校教科書にも取り上げられ、ウズベキスタン政府からはドストリク(友好)勲章を授与されている。最後にお目にかかったのは、2016年6月に国際交流基金主催の国際シンポジウムで基調講演をされたときのことで、遺跡保全の緊急性を指摘されたことが記憶に残っている。同年9月、先生は発掘調査先のテルメズで亡くなられた。

 もう一人の間野英二先生は、日本における東洋史学の創設に尽力した桑原隲藏(1871-1931)以来の学統を受け継ぎ、中央アジア史とテュルク文献学の分野で卓越した業績を挙げられている。ライフワークとされているのが日本学士院賞の対象ともなった『バーブル・ナーマ』の研究である。これは、ティムール朝の王子として生まれ、中央アジアにおける政権樹立には失敗したものの、北インドを征服してムガル朝を創設したバーブル(1483-1530)がチャガタイ語で記した回想録であり、君主が経験した出来事のみならず、自らの心の内まで記した希有の著作として知られている。先生はこの貴重な著作の現存する諸写本を精査して、現在望みえる最良の校訂版を作成し、それに基づいた一連の研究と日本語訳を刊行されている(『バーブル・ナーマ-ムガル帝国創設者の回想録』全3巻、平凡社、2014-15年)。先生の校訂版はウズベキスタンの学界においても高く評価され、この功績に対してバーブル国際基金章が授与されている。先生は近刊の「ムガル朝の創設者バーブル-その波乱に満ちた生涯と人間的魅力」(『アジア人物史』第6巻、集英社、2023年)でも健筆をふるわれている。

 日本における中央アジア・ウズベキスタン研究は長く歴史研究が中心を占めていたが、こうした研究状況は、1991年のソ連の解体とウズベキスタンの独立によって大きく変わることになった。ソ連時代のさまざまな制約が解かれ、現地での調査・研究や共同研究、さらに若手研究者の留学が可能となったからである。それ以来のウズベキスタン研究の進展には目を見はるものがある。これを一望するには、帯谷知可編著『ウズベキスタンを知るための60章』(明石書店、2018年)が、参考文献も含めて役に立つ。これを開くと、アレクサンドロス大王の中央アジア遠征からソグド商人の広域にわたる活動、マーワラーアンナフルのイスラーム化とテュルク化、ティムール朝の興亡を経て、19世紀後半のロシアによる征服以後の近現代史の諸問題まで、動態に富んだ歴史の解説にとどまらず、現代のウズベキスタン社会と人々の生活、教育、文化・芸術、政治・経済(とりわけ市場経済化に伴う変容)と国際関係の動向、環境問題、さらには日本との関係など、研究のテーマが大きく広がっていることがわかる。

 このような研究テーマの多様化は、若手研究者によるフィールドワークによってもたらされたところが大きい。たとえばイスラームについてみれば、ペレストロイカ期以来のイスラーム復興と政治権力との関係性のほか、人々の生活に根付いた信仰実践の諸相やヴェールを媒介としたジェンダーとの関係性まで研究の及んでいることが注目される。一方、ロシアと中国という二大国の狭間にあってグローバル化を進め、アフガニスタンにおけるターリバーン政権の復活やウクライナ戦争に対応するウズベキスタン外交は、国際関係学の観点からも注目されている。さらに在日ウズベク移民の研究も始まった。自然科学分野の研究も環境問題や農業開発から恐竜に及んでいる。ウズベキスタンをはじめとする中央アジアは多彩な研究の沃野となっているのである。

 こうしたなかで、ほぼ未開拓となっているのがウズベク文学の研究・翻訳ではないだろうか。現地では20世紀初頭に現代のウズベク語に近い文章語を用いた近代文学が生まれ、その潮流はソ連時代を経て現代に受け継がれている。文学はウズベク文化の重要な柱であり、有力な文芸誌には日本文学の翻訳が掲載されることもある。私は畏友から作家三浦哲郎(1931-2010)の短編の翻訳(ロシア語訳からウズベク語への翻訳)をもらったことがあるが、日本でウズベク文学が紹介された例は寡聞にして知らない。日本では2012年東京外国語大学に創設された中央アジア専攻でウズベク語の授業が始まり、ここ数年に限っても島田志津夫『大学のウズベク語』(東京外国語大学出版会、2019年)や日高晋介『ニューエクスプレスプラス ウズベク語』(白水社、2024年)などのウズベク語学習書が刊行されるなど、環境はすでに整っている。ウズベク文学の研究や翻訳の開拓を期待するのは私だけではないだろう。ここでAIに頼るわけにはいかない。

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ウズベキスタンの創成を主導したファイズッラ・ホジャエフ(1896-1938)の邸宅(ブハラ)。彼は豪商の息子だった。

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その内部

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エドヴァルド・ルトヴェラゼ著・加藤九祚訳『考古学が語るシルクロード史-中央アジアの文明・国家・文化』(平凡社、2011年)の表紙

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帯谷知可編著『ウズベキスタンを知るための60章』(明石書店、2018年)の表紙


書誌情報
小松久男「《総説》日本におけるウズベキスタン研究」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』2, UZ.1.02(2024年4月1日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/uzbekistan/country/