アジア・マップ Vol.02 | ウズベキスタン
《総説》ウズベキスタンという国
アラル海の枯渇:社会主義近代化が創出した環境問題
「我々は今、アラル海の上を走っているよ」
と2018年9月のある日、ウズベキスタンの運転手は私に云う。ジョークが好きな中央アジア人らしい言い回しだが、青い瞳の奥の悲しみを私は見逃さなかった。「アラル海の上」とは、乾上がって沙漠化した大地を指す。
夜、私たちはアラル海北岸から約2キロ離れた天幕に泊まった。波打つ音が枕元に届き、魚介類特有の悪臭も夜風に交じっている。翌朝、真っ赤な朝日に向かって南の湖岸へ歩くが、強烈な匂いに打ちのめされそうになる。死滅した魚介類の堆積から出る匂いで息苦しくなる。あたり一面の塩田で、命の気配はまったくない。
死んだ湖
アラルとは、テュルク・モンゴル語で「島」や「河中洲」、「沼地」の意味で、転じて湖を指す。湖面積は一時、6.8平方キロもあり、「北海道(8.3平方キロ)を少し小さくした広さである」、と日本の研究者は表現していた。
アラル海流域の年間降水量は270ミリ前後で、それもほとんど冬季に雪の形で降り、乾燥地草原が形成されている。植物も一本の樹にさまざまな形をした葉が生えるように進化して極端な乾燥に適応している。枯渇して沙漠となった塩田には有毒な植物が育ち、冬に枯れた後に駱駝だけが食べるが、他の家畜は決して口にしようとしない。
湖があった時に、漁村はあちらこちらに点在していたが、今や廃墟と化している。井戸水も有毒で、長期にわたって飲用すると、ガンと白血病などを患い、奇形児が生まれる、と地元の政府関係者も認めていた。
ウズベキスタン側のアラル海はもはや湖と呼べないほど乾上がり、厳密にいうと、大河アムダリアが流れてきて、沙漠に姿を消していく墓場となっている(写真1)。
一方、カザフスタン共和国側では、僅かに「小アラル海」が残っていると聞いたので、私は2020年春に再び現地を目指した。
カザフスタン共和国の旧都・アルマトイから天山(アラタウ山とも)北麓に沿って西へと車を飛ばす。アルマトイとはテュルク・モンゴル語で「リンゴのある地」との意である。果物の専門家によると、リンゴの原産地は天山山脈だといわれている。現に天山山中にリンゴの原種があるのを私も各地で確認しており、天山は植物相の豊かな地である。
私たちはカザフスタン共和国南西部のトルキスタン市まで行き、そこからアラル海に流れこむシルダリアに接近しようとしたが、道路事情で進めなくなり、断念した。案内してくれた同国の研究者らによると、シルダリアに沿って広大な麦畑が広がっていたが、ソ連の崩壊後には経営も廃れてしまったそうである。農業が不振に陥ったからといって、牧畜に頼るわけにもいかずに途方に暮れていた時期もあったそうである。
以上が、一時は世界4位だった湖、アラル海の無残な姿である。ウズベキスタン側から見ても、カザフスタン共和国側から眺めても、生き心地のしない、死んだ湖の現在である。
遊牧民の定住化がもたらす悲劇
アラル海周辺とそれに注ぐ2本の大河、シルダリアとアムダリア沿いは古来、カザフやキルギスなど遊牧民の冬営地であった。中央アジアの自然環境はユーラシア東部のモンゴル高原や最西端のアナトリア平原と異なり、主として山岳地帯と河川沿いに良質な草原が広がる(写真2)。河川と湖沼周辺以外は乾燥ステップか沙漠(コム)で、夏の間は遊牧民も避けたがる過酷な地である。
河川と湖沼地帯では夏季に虫の大群が発生し、家畜の生息に不向きである。オアシス都市も河川に沿って形成されているので、そこは農耕民と都市民の世界である。遊牧民は冬の間だけ、山岳地帯から下りてきて、河川沿いで越冬する。家畜で以て農作物と交換し、共生共存してきた。ユーラシアの東西を行き交う隊商も遊牧民の保護を受けて農村と都市を通過し、物質と情報を広げた。
平和な世界に異変をもたらしたのは帝政ロシアによる中央アジア征服である。ロシアは19世紀初頭からカザフ草原への侵入を繰り返した。ロシア人は次々と遊牧民の有力な集団(写真3) を支配下に組み込み、河川沿いに要塞都市を建築した。1847年にはアラル海艦隊を創設して、河を遡上して沿線のオアシス都市の征服を試みた。しかし、シルダリアもアムダリアも水深10メートル未満の流れがほとんどだったので、大型軍艦の遊弋は不可能であった。それでも、ロシアは旧来の河川と水路を利用して灌漑を拡大し、農耕地に綿花畑を開拓し、労働力として遊牧民の定住化を奨励した。
一所懸命、即ち一カ所に留まって土をいじるよりも、駿馬にまだがって広大な草原を自由に行き来するのを至上の誇りとする遊牧民は定住しようとしなかった。重火器で武装したロシア人とウクライナ人入植者は遊牧民を追い出し、河川と湖周辺に住み着き、農耕地を切り開いた。優れた冬営地から放逐されたカザフ人遊牧民は仕方なく沙漠地帯で越冬するが、次の年の春に家畜群を失った。食べる草がなく、餓死したからである。こうした中、カザフ人は1916年から大挙して東方の東トルキスタン(新疆)に流入し、その規模は数万人単位に上ると伝えられている。
レーニンが指導するロシア革命が勃発した後も、ロシア人とウクライナ人は「革命」と称して遊牧民から草原を奪い続けた。こうした略奪行為はその後次第に是正されたが、草原を国有地とし、遊牧民を組織的に定住させる政策は以前よりも強制された。定住こそが「進歩」で、農耕は遊牧よりも「先進的な生業」だとロシア人共産主義者たちが現地人を教育し直す。
ロシア人が強制した定住化政策はマルクス・レーニン主義に基づく発展段階論の思考に由来している。人類は均しく原始社会から奴隷社会と封建社会を経て資本主義社会に入る。人民を抑圧し、搾取する資本主義社会を葬ることこそ社会主義革命だという空想である。遊牧民は封建主義社会に留まっていたと断じられ、「先進的なロシア人」に従うことが「進歩」と定義されたのである。
家畜を追って移動できなくなったカザフ人は食料もなく、大量に餓死した。移動・遊牧しなければ生きていけない、と言われていた乾燥地草原は名実ともに「飢餓草原」と化し、犠牲者数は200万人を超える、というのが近年の研究者の見解である。不慣れな農作業、集団農場での過酷な労働と食糧不足がもたらした悲劇である。抵抗した者は容赦なく弾圧され、強制収容施設(ラーゲリ)に送り込まれた。
ソ連の社会主義者は沙漠を緑に改造し、人間は自然に勝つ、と宣言していた。ウズベキスタンは綿花を、カザフスタンは小麦と野菜を栽培する、という社会主義計画経済が導入された。アラル海の水は方々へと引かれ、遊牧民の草原から収穫した綿花と小麦はソ連人の虚栄心を満たした。
「昨日までの湖岸が翌朝には沖合200メートルまで引いていた。次の日には400メートルになり、三日目には600メートルも沖合にいってしまい、子供たちも泳ぎに行かなくなった」。
これは、ある有名なウズベキスタン人作家の文で、1960年代から死にたえていくアラル海を悲嘆した作品である(写真4)。多民族が創成してきた多種多様な文化と文明を根底から否定し、自身の生業を他者よりも優れていると決め込んで強制したのが最大の原因である。その上で更に人間は自然に勝つ、という思い上がりの思想が拍車をかけたことで、「アラル海は中央アジアの肺臓から発癌剤に代わった」、と現地のカザフ人は指摘している。
アラル海の悲劇は我々人類に警鐘を鳴らしている。人間は自然に勝てないし、開発もほどほどに!そして、自身の価値観を他者に押し付けないように、との警鐘である。
参考文献
石田紀郎. 2003.「アラル海の悲劇:無謀な農業開発と環境破壊」宇山智彦編『中央アジアを知るための60章』明石書店。
宇山智彦、藤本透子編, 2015.『カザフスタンを知るための60章』明石書店。
塩谷哲史. 2019.『転流:アム川をめぐる中央アジアとロシアの五百年史』風響社。
Cameron, Sarah. 2018. The Hungry Steppe, Famine, Violence, and the Making of Soviet Kazakhstan, Cornell University Press, Ithaca and London.
Kindler, Robert. 2018. Stalin’s Nomads, Power & Famine in Kazakhstan, University of Pittsburgh Press.
書誌情報
楊海英 《総説》ウズベキスタンという国「アラル海の枯渇―社会主義近代化が創出した環境問題」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.2, UZ.1.04(2025年1月7日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/uzbekistan/country2/