アジア・マップ Vol.02 | イエメン

《エッセイ》
イエメンと私その1

大坪玲子(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 フェロー)

 なぜイエメンを研究しているのか。これまで何度も訊ねられてきた。学生に対しては「今サークル活動をしているのなら、そのサークルをなぜ選んだのか、なぜ続けているのかと同じ」、会社員の友人には「今の会社にいる偶然性と必然性と同じ」と答えた。ただし人類学でフィールドを選ぶのに試験や面接はないから、どちらかというと学生のサークル活動の選択に似ていると思う。面白そうだから。面白いから。一言で言えばそれだけだ。その連続で続けているのだと思う。

 大学の学部では、アラブの遊牧民(ベドウィン)に興味があって、文化人類学を専攻した。高校時代の世界史の授業でイスラーム王朝の興亡が面白かった。社会科の先生が「砂漠で一生懸命働くことは美徳ではない」と言ったのが気になった(その言葉は多分に環境決定論ではあるのだが)。梅棹忠夫や和辻哲郎の文明論が面白かった。高校のクラスで回し読みしていたマンガにも影響を受けた。小学生の頃から何度か映画「アラビアのロレンス」をテレビで見て、その時代に興味を持った。最初のきっかけはきわめて単純だ。卒業論文ではベドウィンについてまとめ、在学中にヨルダンに行った。ベドウィンがいる国の中で調査のできる可能性の高い国だったからだ。

 大学院進学の決まった春休みに、調査地をあらためて考えた。ヨルダンならフィールドワークはできそうだが、ベドウィンの調査ではビザの取得が難しいだろう。ベドウィンとはいえ、現実には定住化が進んでいる。ヨルダンは歴史的に見れば大シリアに含まれるので、歴史を追うのであればアラビア語と英語以外にフランス語、オスマン語等も必要になる(と先輩に言われたのを覚えている)。そして実は私は動物が好きではない。動物とともに砂漠を数週間移動するのは、どう考えてもしんどい。このような理由からベドウィンの調査を諦め、それではどうするかと考えてイエメンかモロッコか二択に絞った。モロッコはフランス語やベルベル語が必要になるうえに、有名な人類学者が何人もいる。イエメンは英語とアラビア語で大丈夫だろうし、人類学者に限らず研究者がそもそも少ない。イエメンはアラブの源流と言われ、農業が盛んだ。これまでとは異なるアラブ文化を扱えそうだ。ということであっさりイエメンを選んだ。それからイエメンの数少ない民族誌や論文を読み、修士課程1年の夏休みに実際に行くことにした。1992年7-9月で期間は2ヶ月半だ(その後の2週間は友人が調査していたエチオピアに行った)。

 人類学者はいわゆる途上国で調査することが多いが、私は貧困が深刻な社会問題である国で調査をしたくなかった。それに気候や食べ物が合わなかったら、長期の調査など不可能だ。それでまずフィールドワークの下調べに行くことにしたのだ。学部時代に前述のヨルダン以外に、友人とトルコ、シリア、エジプト、モロッコも旅行していた。

 イエメンへ行くには「安いが時間がかかる」ことで有名だった南回りではなく、アエロフロートを使う方が安く行けたので、モスクワ経由でアデンに入った(サナアへの便はなかった)。南北イエメン統一[1990年]後だったが、アデンではまだ南イエメンの紙幣が使えた。社会主義政権の名残か、アデンの地図が入手できず、自分で歩いて作ってみた。アデンから長距離タクシーで北上し、タイズ、ジブラ、イブに寄ってからサナアに入った。

 イエメンは当時も今も最貧国の1つであるが、当時から雑貨屋に商品があふれていた。ほぼ自給でき、種類も豊富な野菜(トマト、ジャガイモ、オクラ、ズッキーニ、長ネギ、玉ネギ、ナス、ピーマン、ニンジン等)や果物(夏に限定するとパパイヤ、スイカ、バナナ、ブドウ等)。ありとあらゆる国から輸入されるお菓子。田舎の小さな雑貨屋でも売られている国産のミネラルウォーター(イエメンの水道水が危険だからというわけではない)。貿易収支は大赤字だが、そんなの関係ない。輸入してしまえばいいのだ。

北に向かう長距離タクシー

サナアから北上する長距離タクシー

ズベイリ通りから撮影した旧市街

ズベイリ通りから撮影したサナア旧市街

 サナアでは午前中旧市街をひたすら歩き、サルタを食べ、ライムジュースを飲んで滞在先に戻って一休み。サルタはサナアの代表的な昼食で、肉、野菜、炭水化物がまとめて摂れるワンディッシュ(石鍋)ランチである。ライムジュースはライム数個、大量の砂糖、水をミキサーにかけたもので、サルタの口直しに最高である。午後、少し涼しくなってからまた旧市街を歩きまわった。喉が渇くと、マンゴーやグワバ等の果汁ジュース(100%ではない。砂糖が大量に投入されている。これもミキサーで作られる)や、砂糖たっぷりの紅茶(ミルクなしやミルク入り)を飲んだ。スパイスの効いたサルタも他のイエメン料理も、ジュースも紅茶も美味かった(胃腸はかなり丈夫であるかもしれない)。

 サルタ屋にイエメン人女性が1人で来ることはありえない。私が1人で食べていると、面白がって「美味いか?」と身振りで示されたり、少しアラビア語が話せることがわかると「サルタはどうだ?」と訊かれたりした。「これを食べてみろ」とキダムをもらうこともあった。キダムは雑穀から作られたゲンコツのような形で、噛み応えがあるパンだ(サルタの具を摘みやすいので、私はいわゆるアラビックパンでサルタを食べることが多かった)。

サルタ屋。右手前の黒い石鍋に大鍋に入っている野菜のトマト煮、肉、炊いた米を入れる。

サルタ屋。右手前の黒い石鍋に大鍋に入っている野菜のトマト煮、肉、炊いた米を入れる。

 サナア市内はダッバーブと呼ばれるワンボックスカー(日本のダイハツ製である)が市民の足だ。路線が決まっていて、どこでも乗降できる。乗るときに行先を示すサインを手で出し、降りるときには決まり文句を言う。お釣りに小銭がないと、アメが1個=1イエメン・リヤルで使われることもあった。

 サナアから紅海沿岸のホデイダ、ベイト・アル=ファキーフ、北上してサァダ、東部のマーリブにも行った。サナアからホデイダは標高が2000メートル以上も変化するので、植生も変化していく。サナアとアデンを結ぶ幹線道路上にあるタイズやイブでは、山の頂上から麓まで続く緑の階段耕地を車窓に眺めながら、くねくねした山道を進む。

 イエメン人は小柄である。町を歩いていても、見下ろされるような圧迫感はない(イエメンの後に行ったエチオピアは人々の背が高く、脚が長く、足も大きかったのを覚えている)。長距離タクシーでは助手席に2人、真ん中の列に4人、後部座席に3人座る。ダッバーブは助手席に1人、後部座席は向かい合わせに座席を作って3人ずつ座る。長距離タクシーはどうしても隣の人と太腿がくっついてしまうが、ダッバーブでは隣に座る男性が5センチ以上離れて座ってくれた(女性に対する配慮である)。

 サナアの夏は快適だ。標高が2300メートルほどなので、気温も湿度も気圧も低い。日中の気温は30度を超えるが、朝晩は20度を切る(もちろん海岸部や内陸は最高気温が40度近くになることもある)。湿度は低いから、汗をかいてもすぐに蒸発するのでべたべたしない。替えの靴下を忘れたのだが、イエメンでは男性用の靴下しか売っておらず、毎晩履いてきた靴下を手で洗って干して、翌日履くことができた。気圧も低いが、高山病になるほどではなく、高地トレーニングのレベルだ。サナアから標高の低い地方に行くと、元気に歩ける気がした。最初は酸素が少ないため、心臓の動悸がやや激しくなったが、数年後にはすっかり慣れた。

 滞在させてもらったのは、日本大使館の専門調査員の住まいで、私よりも先に写真家が居候していた。青年海外協力隊の隊員は数名しかおらず、たまに集まって夜中までトランプで遊んだり、ブドウからワインを作ったりした。旧市街を歩いていたらイエメン人の少女に声をかけられて、彼女の家について行った。彼女の家と隣の家に出入りするようになり、隣の家の娘の結婚式の披露宴に呼ばれて、花嫁姿の写真を撮ってあげた。

 フィールドワークのための下調べもした。アラビア語サナア方言を習うためのアラビア語学校は、青年海外協力隊の隊員に教えてもらって見学に行き、テキストも手に入れた。アメリカ・イエメン研究所に講演を聞きに行った。長期ビザの取得方法や、日本からの送金方法の情報も集めた。人類学者に限らず、イエメンに長期間滞在して調査をした日本人はいなかったし、大使館の専門調査員とは待遇が全く異なるし、外国人人類学者とも状況が違うし、メールやSNSで簡単にやり取りできる時代ではない。自分で現地に行って訊くしかなかった。

 最初のイエメン滞在で気を良くし、修士2年の修士論文提出後の冬休みも2週間イエメンを訪問した。このときは英字新聞の編集長に部族長を紹介してもらって会いに行き、女性陣から歓迎された。博士課程1年で研究助成金をもらえて9月からイエメンに行ったのだが、実はその直前に内戦があった[1994.5-7]。内戦終結直後だったが、それほど緊張した雰囲気はなく、身の危険は感じなかった。今より日本もイエメンも、のんびりしていたのだと思う。

書誌情報
大坪玲子「《エッセイ》イエメンと私 その1」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』2, YE.2.01(2024年4月1日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/yemen/essay01/