アジア・マップ Vol.02 | イエメン

《エッセイ》
イエメンと私その2:イエメンで1人暮らし

大坪玲子(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 フェロー)

 「イエメンと私その1」で述べたように、イエメンには修士課程のときに2回行った。出版社から研究助成をもらって本格的な調査を始めたのは博士課程1年で、このときは専ら1人暮らしをしていた。そのときの苦労話をしたい。

 調査開始当時は内戦終結直後で、青年海外協力隊の隊長が、内戦で中断していた協力隊の活動を中止する手続きに戻って来ていた。隊長とはすでに知り合いだったので、これからイエメンに滞在するのでアパートを探していると相談した。すると隊員の住んでいたアパートをまるまる引き継がせてもらえた。だから最初からベッドも冷蔵庫もテレビも包丁(3-4丁である!)も手に入った。当然1人暮らしをすることになった。

 最初のアパートから転々として、最も長く住んだのは、世界遺産には認定されなかったが、世界遺産に匹敵する歴史ある地区にある古い家だった。家主一家はこの家が手狭になったので、郊外に広い家を建てて引っ越した。古い家は壁で仕切り、1階は別の家族が住み、私は2階に住んでいた。もともと1家族で住んでいたので、上水を貯めるタンクが1つしかなかった。温水はイタリア製のタンクに電気で熱湯を貯めておき、それを水と合わせて適温にするのだが、1階で水を大量に使うと、なぜか私の温水タンクに水が溜まらず、熱湯が充分にできず、シャワーの途中で冷水になる。当時階下の住人はイラク人家族で、大文明の影響かしょっちゅう庭に水を撒いて(特に何か栽培していたわけではない)、我が家の温水タンクの水量が減り、シャワーが途中で冷たくなった(夜間は停電があるので、シャワーは明るいうちに浴びていた)。何度か家主の長男(古い家の管理は彼がやっていた)に相談すると「庭に水を撒くなんて」と彼もわかってくれ、上水タンクを分ける話も出たが、実現する前にイラク人家族は引っ越した。

 その家にネズミが出た。昼食後に紅茶を飲もうとお湯を沸かしていて、そろそろ沸いたかとキッチンに行ったら、昼にパスタを茹でた鍋からちょこんと顔を出したネズミと目が合った。どうしたらいいかイエメン人に訊くと「ネコを飼えばいい」。猫を飼ったことがない私には無理だ。結局知り合いの日本人からネズミ取りをもらった。すぐに捕らえることはできたが、それを処分するのがまた大変だった。

 ある日知り合いの家に泊まって翌日の午前中に帰ってきたら、居間に使っていた部屋が雨漏りしていた。昨晩ずっと雨が降っていたのは知っていたが、まさか雨漏りするとは。天井の白い石膏が一部剥がれて内部が丸見え。居間の中央には水たまり(古い家なので床は水平ではなく、中央が凹んでいた)。 天井が高いため、天井から落ちた石膏は部屋に散り散りになっていた。位置エネルギーとはこういうことだ。家主に電話して「天井が落ちた」と伝えると、家主の長男が弟を連れてその日の午後に来てくれた。古い家の天井は太い梁に直角に細い枝を渡し、土を盛って踏み固める。アリが巣を作るとそこに雨水が入り、雨漏りにつながるのだとか。まだ雨季だったので、屋上に石膏を塗って補強するのは雨季が終わってからにし、当座の補修として家主の長男がやったのは、屋上にあがり、土を踏み固めて、アリの巣をつぶすことだ。連れてきた弟と一緒にドシドシ踏み固めた。

雨漏り2晩め。天井が雨漏りで剥がれ、絨毯には今晩の雨漏りに備えるバケツと布。
テレビの脇にあるアイロンは、1晩めの雨漏りで濡れた絨毯を乾かすために使った。
(写真にはティハーマ地方の帽子やら写真やら当時の大統領のイラストの入った子ども用Tシャツとか映りこんでいます)

雨漏り二晩め。絨毯にはこれから来るだろう雨漏りに備えてバケツと布が待機。テレビの脇にあるアイロンは、一晩めの雨漏りで濡れた絨毯を乾かすために使った。一晩めの雨漏りで天井の石膏が落ちて梁が一部むきだし。

壁を塗り直す左官屋

雨季が終わり、左官が壁を塗り直す。

雨漏りした家の外観。車の止まっているあたりが我が家。右の水色のゲートは隣の家で、車の後部より左も隣の家。

雨漏りした家の外観。

 翌晩も一晩中雨が降った(一晩中雨が降り続けたのは、この二晩だけだと思う。サナアは夜に雨は降らない)。このときは準備万端だったので、雨だれが落ちてきたら、その下にバケツや鍋を並べた。雨だれをキャッチできれば怖いものはない。なんだか昔のドラマのようだなと思った。このときは石膏が剥がれることはなかった。アリの巣つぶしが効いたのだろう。

 何より苦労したのはビザの更新だ。当時イエメンには調査ビザはなく、調査で長期滞在するにはアラビア語学校から学生ビザをもらうか、サナア大学イエメン調査研究センターから就労ビザをもらうかだった(就労ビザとはいえイエメンで給料をもらっていたわけではない)。私は最初の半年はアラビア語学校から、その後はセンターからビザをもらっていた。学生ビザは語学学校のスタッフにパスポートを預けてお金を払えば、すべてスタッフがやってくれた。しかし就労ビザはそうはいかない。

 就労ビザの更新は、このセンターからレターをもらうところから始まる。センターの外国人研究者部門の担当者の自宅に電話して、ビザを更新したいことを告げる。そうすると曜日を指定される。その日にセンターに行くと、レターが用意されているのではなく、もう1度ビザを更新したいと説明する。「では来週来い」。さっさとレターをくれればいいのに、そうはいかない。レター1通もらうのに2週間がかりなのだ。翌週レターをもらい、日をあらためてイミグレーションオフィスに行くのだが、何より遠い。しかもダッバーブ(乗り合いタクシー)の路線から 、かなり歩かねばならない。タクシーで行くにしても、帰りはタクシーが拾えないので、結局ダッバーブの路線まで歩かねばならない。

 イミグレーションオフィスの建物の中に入るとあちこちで登録し、パスポートにビザのハンコを押してもらう。運が良いと1年、悪いと半年のビザがもらえた。ただしこの手続きが1日で済まないことが2回あった。1回めは更新料が足りなかった。イエメンでは100ドル札を両替して、リヤルの札束をもらうのだが、当時リヤルは100リヤル札までしかなく、両替でそれより少額の紙幣の札束をもらうこともあった。このときは20リヤルの札束をカバンいっぱい持っていったのだが、それでも足りなかった。「明日来い」。

 2回めは最後にビザのハンコを押す部長だか局長が帰ってしまって「また明日」。イエメンの役所で、ハンコを押すような責任のある人は10-12時しかいない(上述のセンターでレターをもらうのも、もちろんこの時間帯である)。だから“勝負”はその2時間なのだ。また明日炎天下をてくてく歩いて来なければならない。午前中はそれでつぶれる。午後は疲労困憊。こんなビザの苦労をしたのは、現在に至るまで日本人では私だけのようである。

 これに凝りて、以降イエメンでの調査は1ヶ月以上滞在しないことにしている(イエメンに入国するときに観光ビザが1ヶ月分もらえる)。1度だけ2ヶ月滞在したが、そのときもまたビザの更新で数日かかったのを覚えている。

書誌情報
大坪玲子「《エッセイ》イエメンと私 その2」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』2, YE.2.02(2024年4月1日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/yemen/essay03/