アジア・マップ Vol.03 | バングラデシュ

《総説》
バングラデシュのベンガルトラ

鈴木愛(立命館大学OIC総合研究機構 助教)

バングラデシュ人民共和国(以下、バングラデシュ)は、総面積が約147,500km2 (Ministry of Foreign Affairs Bangladesh, 2025)、北海道の2倍程度の広さである。デルタの国でもあるバングラデシュは、定義によっては国土面積の50%以上が湿地ともされる水の国である(Khan et al. 1994)。バングラデシュ西部から南東へと流れるパドマ川、北から南へと流れるジャムナ川、北東部から流れるメグナ川の3つの大河川が国の中央部で合流し、ベンガル湾へと流れる。さらに約400以上の川と、373のHaor(ハオール)と呼ばれる内陸湿地が存在する(Ministry of Water resource 2016)。

多くの湿地を抱えるバングラデシュだが、最も知名度が高い湿地はシュンドルボン(Sundarbans)であろう。シュンドルボンはバングラデシュとインドにまたがる世界最大のマングローブ林であり、面積は両国合わせて140,000haにも及ぶ。ユネスコの世界遺産にも指定されているシュンドルボンはベンガル語で「美しい森」を意味する。また、トラ (Panthera tigris)の生息地としても有名である。シュンドルボンに生息しているトラは、ベンガルトラ(Panthera tigris tigris)でインド亜大陸に生息する亜種である(Goodrich et al. 2022)。以前は広範囲に分布していたとされるが、近年では生息地の消失や餌動物の減少などにより絶滅が危ぶまれており、バングラデシュではシュンドルボンにしか残っていないと考えられている。

このベンガルトラであるが、バングラデシュでは多くの人が「ロイヤルベンガルトラ」と呼ぶ。この「ロイヤル(Royal)」とはどこから来て、どのような意味をもっているのだろうか。動物学部出身の学生も、なぜ「ロイヤル」をつけるのかなど考えたことがないそうだ。科学的にはインドやネパールに生息しているベンガルトラと同じ亜種であり、動物学部出身であればもちろん知っているはずなのだが、どうやらそういう問題ではなさそうである。動物学部の教授に聞いてみたりしたのだが、「ロイヤル」の由来や意味は、いまだによくわからない。

このロイヤルベンガルトラが、バングラデシュの日常の中で特別な位置を占めていることは、調べれば調べるほど見えてくる。例えば、国民的なスポーツであるクリケットのバングラデシュ代表のユニフォームの胸には、ロイヤルベンガルトラが描かれている。多くの国民が熱狂するクリケットの国際試合において、他国に勝利し歓喜する代表選手をテレビや新聞、インターネットで目にするとき、そこにはいつもロイヤルベンガルトラがいるのである。また、ロイヤルベンガルトラは公立小学校の教科書においても唯一無二の存在を放つ。ロイヤルベンガルトラが登場するのは理科だけではない。ベンガル語や文化など自国のことを学ぶBanglaという教科にも登場し、「カンガルーといえばオーストラリア、ライオンといえばアフリカのように、ロイヤルベンガルトラといえばバングラデシュである。そして、そのトラが生息しているのがシュンドルボンである」「ロイヤルベンガルトラは重要な国の宝であり、守らなければならない」と特別扱いなのである。

ロイヤルベンガルトラが国の宝というのは言葉だけではない。2010年・2014年のトラ保全のイベントには首相自らが出席し(Khan et al. 2018)、野生動物の保全を管轄する森林局の報告書には「トラの保全は国家の優先事項」と書かれている(Aziz et al. 2018)。実際にベンガルトラの保全・調査は、国を挙げて取り組まれている。ベンガルトラの個体数モニタリングでは、森林局と研究者によって5年ごとに個体数推定のための大規模調査が行われ(Aziz et al. 2024)、ベンガルトラの餌動物の密度も注視されている(Aziz 2023)。さらに、ベンガルトラと餌動物の密猟や生息地の破壊を抑制するため、シュンドルボンの現場では、バングラデシュ側の陸地約4000km2を55の区画に分け、森林局の基地を約90か所設置し(Aziz et al. 2017)、パトロールが行われている。他の保護区では、フィールドで森林局職員に会うことは稀であり、1つしかないオフィスに行っても誰もいないことがある。このような状況の保護区と比較すると、シュンドルボンへの力の入れようは格別である。もちろん、トラを捕獲するための罠はいまだに見つかるそうだが、森林局の基地の近くは回避されやすいとの知見(Aziz et al. 2017)もあることから、少なくともある程度の密猟の抑制効果はもたらしていると考えられるのだろう。この国家レベルの保全努力により、シュンドルボンは他の動植物にとっても、脅威が少ない生息地となっている。例えば、小型ネコの一種であるスナドリネコ(Prionailurus viverrinus)やベンガルヤマネコ(Prionailurus bengalensis)は、野生動物に関する法律で捕殺が禁止されているにも関わらず、バングラデシュ各地で捕殺が行われている。しかし、シュンドルボンにおける捕殺は比較的少なく、重要な生息地となっているのである。

シュンドルボンはトラによる人の襲撃でも有名な場所である (Reza et al. 2002; Barlow 2009)。研究者が生態調査でシュンドルボンに入る際は、銃を持った森林局のレンジャーが同行し、常に周囲を警戒することになっている。トラと遭遇した場合に撃つとのことなのだが、本当にトラが飛び出してきたら、銃を構えるより早く攻撃されそうで一緒に歩いていた時はなんとも言えない気分になった。このような場所で、ベンガルトラの保全と研究を実質支えているのは、調査助手として雇用されている地域住民である。物々しい研究者一行とは異なり、彼らの多くは軽装備でシュンドルボンのマングローブを歩き、データを取得する。彼らは、今のシュンドルボンはそこまで危険と感じていないらしい。以前はトラだけでなく海賊の脅威も大きかったそうで、その時代に比べればかなり安全になったそうだ。彼らの中には海賊に誘拐され、夜に海賊の隙をついて、船からイリエワニ(Crocodylus porosus)がいるクリークに飛び込み、泳いで岸に上がり、トラがいる真っ暗闇のマングローブを歩いて村に戻った強者もいた。様々な修羅場をくぐってきた彼らの協力があるからこそ、国の誇りである「ロイヤルベンガルトラ」の保全も調査も実施できるのである。

「ロイヤルベンガルトラ」はバングラデシュにおいて文化的に重要な位置を占めており、ベンガルトラの存在は他の動植物にとっても安全な場所を作り出している。ベンガルトラはバングラデシュの貴重な生態系を保全するうえでアンブレラ種の役割(生態系の頂点捕食者など、特定の種を保全することで同じ場所に生息する多くの種が守られる)を果たしているのである。当面はベンガルトラが生息しているシュンドルボンの生態系は、国家レベルでの保全努力が続けられると考えられ、マングローブが大規模で消失するような開発は限られるだろう。これからも「ロイヤルベンガルトラ」がバングラデシュの生態系と人々の心の中に存在しつづけることを願ってやまない。

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写真1.シュンドルボンの朝

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写真2.シュンドルボンの朝は、毎日、小型の船(左)で調査基地(右)を出発するところから始まる。小型の船には最小限の荷物を積み、調査場所へ出発する。一方、調査基地となる船には多くの食料、各部屋、簡易な水浴び場所(汽水)、トイレを備え、長期の滞在が可能なようになっている。

写真2-2
写真2

写真3.マングローブ林内のトラの足跡

【参考文献】
Aziz, M. A., Tollington, S., Barlow, A., Goodrich, J., Shamsuddoha, M., Islam, M. A., & Groombridge, J. J. (2017). Investigating patterns of tiger and prey poaching in the Bangladesh Sundarbans: Implications for improved management. Global Ecology and Conservation, 9, 70-81.

Aziz, M.A., Kabir, M.J., Shamsuddoha, M., Ahsan, M.M., Sharma, S., Chakama, S., Jahid, M., Chowdury, M.M.R. & Rahman, S.M. (2018). Second Phase Status of Tigers in Bangladesh Sundarban. Department of Zoology, Jahanginagar University; WildTeam, Bangladesh; Forest Department.

Aziz, M.A. (2023) Status of tiger prey species in the Sundarbans of Bangladesh. Department of Zoology, Jahanginagar University

Aziz, M.A., Rahman, H.A., Chakma S., Chowdury M.M.R., & Hossain, A.N.M. 2024. Status of tigers in the Sundarbans of Bangladesh. Bangladesh Forest Department, Ministry of Environment, Forest and Climate Change. 58 pp

Barlow, A. C. D. (2009). The Sundarbans tiger: adaptation, population status and conflict. PhD Thesis. University of Minnesota, USA.

Goodrich, J., Wibisono, H., Miquelle, D., Lynam, A.J., Sanderson, E., Chapman, S., Gray, T.N.E., Chanchani, P. & Harihar, A. 2022. Panthera tigris. The IUCN Red List of Threatened Species 2022: e.T15955A214862019. https://dx.doi.org/10.2305/IUCN.UK.2022-1.RLTS.T15955A214862019.en. Accessed on 24 January 2025.

Khan, M.M.H, Ahsan, M.M., Jhala, Y.V., Ahmed, Z.U., Paul, A.R., Kabir, M.J., Morshed, H.M., & Hossain, A.N.M. (2018) Bangladesh Tiger Action Plan, 2018-2027. Strengthening Regional Cooperation for Wildlife Protection (SRCWP) Project, Bangladesh Forest Department, Ministry of Environment and Forests.
Ministry of Foreign Affairs Bangladesh (2025) About Bangladesh.https://canberra.mofa.gov.bd/bn/site/page/Bangladesh [Accessed: 24th Jan. 2025]

Ministry of Water resource. (2016). Classification of Wetlands of Bangladesh. Volume 1: Main Report. Department of Bangladesh Haor & Wetlands Development. Ministry of Water resource.

Reza, A. H. M. A., Feeroz, M. M., & Islam, M. A. (2002). Man-tiger interaction in the Bangladesh Sundarbans. Bangladesh Journal of Life Sciences, 14(1/2), 75-82.

書誌情報
鈴木愛《総説》「バングラデシュのベンガルトラ」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, BD.1.02(2025年00月00日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/bangladesh/country02