アジア・マップ Vol.03 | 中国

《総説》
中国の観光政策と観光発展

杜 国慶(立教大学観光学部 教授)

 経済力の向上によって、可処分所得が増加し、人々は衣食住だけの基本生活に満足せず、非日常的な体験を求めて観光にも金銭を費やすようになり、収益を追求する経済活動による人の移動に加わって、所得を処分する移動がもっと活発になってきた。中国の改革開放政策の成果として、経済力の向上に伴って経済活動の自由化が実現された。経済活動に伴って人の移動が活発になり、国民のライフスタイルに変化が現れた。インバウンド観光と国内観光、そしてアウトバンド観光が次第に成長し、地域に影響を与えるとともに、観光の形態も大きく変化してきた。

1.観光政策の変化
 中国の観光発展の要因として、観光資源や都市化、制度政策、立地などがあげられるが、産業および経済発展において常に政府が主導する中国では、制度政策は観光発展のレベルを規定する。

 胡・黄(2019)の研究によると、中華人民共和国が成立した1949年から2018年までの70年間に、観光関連政策は413があった。時期別に見ると、1949~1978年が26と最も少なく、特に1960年代と1970年代にはほぼ空白状態で、政策は主に外国人の出入国管理と国内旅行を規定するためであった。1981~1985年はインバウンド観光を対象に、外国人の出入国やビザ発給、受け入れ施設と旅行サービスの整備などをサポートする政策が多く公布された。1986~1990年の観光政策は渉外宿泊施設と旅行会社、観光ガイドに関する規範が多かった。1991~1995年は国内観光発展が意識され、内容が多岐に渡った総合政策が多く公布された。1996~2005年に、「国家祝日と記念日休暇に関する国務院の改正措置の決定」(1999年)など観光発展の方向性を示す政策が公布され、ホリデーエコノミーに代表される観光経済の役割が注目され、国内観光を大きく変えた。また、「中国国民海外渡航管理措置」(2002年)もこの時期に公布された。2010年を起点として、観光産業は経済効果と社会効果を兼ねるように目標が設定された。2013年、「国民観光レジャー要綱」と「中華人民共和国観光法」が公布され、国民の自由旅行の権利が守られ、バランスのとれた観光成長のために制度政策が整えられた。

 他に、観光に特化した政策ではないが、間接的に観光にも影響を与えた。例えば、1999年からの「西部大開発」戦略は、西部後進地域において観光発展を促進した。2013年からの「一帯一路」外交方針や、2018年の文化・旅游部の統合と設立も観光発展に影響を及ぼした。

2.観光の変化と発展段階区分
 中国の観光は、インバウンド観光独占からインバウンド観光と国内観光の共存、そして国内観光、インバウンド観光、アウトバウンド観光の共立へと大きく変化してきた。2019年、インバウンド観光入込数は1.45億人で1978年の80.0倍、国内観光者数は60億人で1991年の21.5倍、アウトバウンド観光者数は1.69億人で1994年の27.7倍、まで大きく増加してきた。世界経済フォーラムが発表した『グローバル観光産業競争力』によると、中国の観光産業グローバル競争力は2007年の世界71位から2017年の15位へと着実に上昇した(夏・徐,2018)。1978年の改革開放前に厳しく規制されていた人の移動は、改革開放後に観光という形態で移動が活発になり、地域および社会経済の空間構造を変えた。

 観光者数と観光の役割の変化を見れば、中国の観光発展を以下の5段階に区分することができる(図1)。中国は歴史的な理由で、香港とマカオ、台湾(通称「港澳台」)の3地域から本土への出入も審査が必要であり、国籍が異なる外国人とほぼ同様に扱う。しかし、国の主権を主張して3地域から本土への出入は「出入国」とは言わず、「出入境」と呼ぶ。統計上、「入境者」と「出境者」には外国人に加えて3地域の者も含まれる。インバウンドの「入境」と同様に、アウトバンドの「出境」にも本土の国民が港澳台3地域への移動が含まれる。

図1

図1 中国における観光者数の変化(1978~2019年)
(中国国家統計局HP「国家数拠」,CEICにより作成)

 まず、1949~1978年は政治接待段階である。1949年に中華人民共和国が成立して以来、アウトバンド旅行は政府の公務に限定されていた。居住地を離れる移動する際に、公共交通機関と宿泊施設を利用するためには政府が発行した許可証明が必要であった。観光現象は皆無とは言わないが、経済水準が低く政治運動も頻発したため、観光はほとんど居住圏の狭い範囲に限られていた。インバウンド観光は政府の外交や接待に限られていたため、観光の役割は主に政治接待に限定されていた。

 次いでの1979~1990年はインバウンド観光発展段階である。1978年は中国現代観光元年と言われる。中央政府は旅游事業管理局を国務院直轄機関に改め、すべての省・自治区・直轄市の行政機関に旅游局を設置した。外国に開放した当初、中国にとって外貨獲得が最重要な課題で、観光は開放の突破口として重要視されていた。外貨獲得とは、訪日外国人観光者による消費活動に限らず、観光を通して中国のマーケットを認識して投資するような経済活動も含まれる。加え、中国の自然風景と歴史文化などの観光資源も外国人を惹きつけ、外国人向けの「広州―桂林―北京―西安―上海」というゴールデンルートが開発され、インバウンド観光が活発になってきた。この段階では、観光の主目的は外貨獲得であり、国内観光は重要視されていなかった。結果として、1991年にインバウンド観光者数は3,334.98万人、外貨収入は28.45億米ドルに達し、それぞれ1978年の18.4倍と10.8倍と大幅に増加した。国民の国内観光に対して、インフラ整備が不足しているため消極的な対策を採っていたが、インバウンド観光の発展に伴って観光関連のインフラ整備も大幅に改善され、国内観光の展開のために基盤を築いた(夏・徐,2018)。この段階では、中国固有の自然と人文の観光資源が開発されただけでなく、海外の新しい観光理念も導入された。代表的なのは、1979年に特別行政区(特区)として設立された深圳である。1990年代の中国は、経済発展が少しずつ台頭したものの、国民には観光という意識が薄く、観光と言えば、自然風景を楽しむことが主流であった。名山名寺のない深圳で営業を開始した「錦繍中華」は、外国のテーマパークという新しい観光方式を導入した中国初のテーマパークであった。人工的に作った観光施設が重要な観光資源になることは、中国人の観光に対する意識と理解を刷新した。中国の歴史と56民族を掛け合わせたこのテーマパークは、中国観光の先駆的な存在と言っても過言ではない。

 1991~1999年は国内観光発展段階である。1989年に「天安門事件」が発生し、インバウンド観光が打撃を受け、インバウンド観光者数が前年比23%減少した。1990年代初頭、国内消費拡大という目標を達成する手段として観光が注目された。1995年,週二日休暇制度が始まり、都市住民の余暇時間が増えた結果、国内観光の需要が増大した。政府が単一なインバウンド観光推進から国内観光を促進するように、観光発展の方針を調整した結果として、1990年代半ばからから、観光は国内消費を牽引する役割を果たしてきた。国内観光者数は1990年の2.8億人から1999年に7.2億人に約2.6倍まで増加した。同時に、インバウンド観光も回復し、観光者数は1991年の3,334.98万人から1999年の7,279.57万人と2.1倍に増えた。国民の私費出国旅行は1983年に親族訪問に限って認められたが、正式な外国観光は1997年に実施された「中国公民私費出国管理暫定方法」によって可能になった(張・頼,2009)。1997年にアジア金融危機が発生したものの、中国の観光は国内需要があって逆に成長する態勢を見せた。1997年に香港、1999年にマカオが返還したことは、中国のインバウンド観光の入口とアウトバウンド観光の出口を広げた。1999年に「ゴールデンウィーク」休暇制度が実施され、国内観光とアウトバンド観光の発展を加速させた。

 この段階では、「錦繍中華」の成功を引き付いて、1994年に「世界の窓」というテーマパークが深圳で開業し、ミニチュアワールドという形式で世界の観光名勝を中国国民へ展示し、ショーなどのエンターテインメントで観光者を惹きつける。1990年代当時、海外旅行とくに遠方の欧米旅行は想像を絶するものの中国人にとって、世界の窓は海外の文化と風景を気軽に体験できる唯一の場所であった。このテーマパークの開業によって、深圳の観光は「錦繍中華」で中国文化を集約して展示し、「世界の窓」で海外文化を導入する、という双方向の文化交流体制を整えたことで、深圳は中国と海外を繋ぐ窓口またはゲートウェイという重要な位置に付けられた。

 同時に、内陸部の後進地域が開発された。世界遺産登録の後押しもあり、内陸部の観光資源に恵まれた地域では観光開発が行われ、観光が地域経済と地域活性化の起爆剤という役割を果たした。例えば、麗江古城(旧市街地)は、雲南省北西部標高2,416mの高原に位置する少数民族納西(ナシ)族の街で、800余年の歴史をもつため、国家級歴史文化名城として認定された。住宅建築の集合体とする歴史的市街地、そして現在世界で唯一活きている象形文字の保存地区を評価対象として、1997年12月に世界遺産に登録された(杜,2005)。1992年には観光者延べ人数が僅か16万人であったものの、1995年には84万人、まで激増した。観光化は2000年以降も急進し、2017年には観光者延べ人数が4,069万人に達した。従来の地元住民と商業目的を求める外来の流入人口、そして観光目的で来訪する観光客のそれぞれの動きによって、地域が著しく変貌した(写真1、2)。観光化による影響は世界遺産の核心地域の旧市街地に止まらず、周辺の農村地域にも及び、農村地域において観光地化が著しく進んだ。麗江古城から10㎞離れる拉市海は雲南省内でも有数の高原湿地として知られ、湖一帯は2005年に国際重要湿地に登録された。麗江古城の観光発展の影響で、拉市海にも乗馬・ボート・バードウォッチング等のレジャーを楽しむ観光客が訪れ、麗江古城に宿泊する観光者の日帰り観光地となっている(杜,2019)。

写真1

写真1 観光化が進む世界遺産「麗江古城」(雲南省)
(筆者撮影 2008年11月)

写真2

写真2 麗江古城で観光客相手に流し灯篭を売るナシ族の少女
(筆者撮影 2009年8月)

 2000~2009年は第4段階のアウトバウンド観光発展段階である。2000年、中国の一人当たりGDPが1,000米ドルを超え、国内観光とアウトバンド観光に拍車を掛けた。2001年、中国が世界貿易機関(WTO)に加盟し、観光サービスの基準化レベルと競争力を高めた。2003年、中国人アウトバンド観光者数が2,020万人に達し、初めて日本を超えた。2004年、中国人アウトバンド者数はさらに前年比43%増加し、アジア最大のアウトバンド観光マーケットに成長した。中国人観光者に最も人気のある旅行先には、ヨーロッパ、オセアニア、北米が挙げられ、それぞれアウトバンド観光者総数の27.4%、25.5%、21.7%を占めていた(繆,2006)。2000年から2009年まで、国内観光者数は7.44億人から19.02億人、インバウンド観光者数は8,344.39万人から1.26億人に、アウトバウンド観光者数は1,047.26万人から4,765.63万人に、いずれも大幅に増加し、観光発展が多岐にわたっていることは段階を特徴づける。

 2008年、アメリカ金融危機の影響を受けて世界の経済発展が停滞した。中国の観光産業も打撃を受け、2008年と2009年にインバウンド観光者数が減少し続けた。しかし、2008年に北京オリンピック、2010年に上海万博と広州アジア競技大会の開催が観光発展の起爆剤となり、インバウンド観光者数は2010年に1.3億人を突破した。一人当たりGDPは2008年に3,000米ドルを超え、2013年に7,000米ドルを超え、アウトバウンド観光を助長した(夏・徐,2018;張・翁・保,2019)。2008年は中国アウトバンド観光の重要な転換点である。インバウンド観光市場が低迷を続けるものの、国内観光市場とアウトバウンド観光市場は成長し続けた結果、成長率では「2高1低」というパターンとなった。2009年、アウトバンド観光消費額が初めてインバウンド観光収入額を上回った(張,2013)。

 蒋・温・劉(2018)の2001~2005年アウトバンド観光に関する研究によると、200カ目的国・地域の研究サンプルのうち、アジア47、ヨーロッパ46、北米28、南米13、アフリカ54、オセアニア12の構成である。うち、香港とマカオが上位2地区で安定しており、台湾のシェアは増加している。観光市場が急成長を遂げたモルディブやネパールなども中国のアウトバウンド観光が主要因である。空間距離の制限によって、ヨーロッパと北米の観光市場に与える影響は強いとは言えない。サウジアラビア、バーレーン、チュニジアなどの中東および北アフリカの国々は中国マッケートを重要視していない。

 そして、2010年以降は観光多様化段階に入る。観光産業が社会におけるポジションの変化に伴って、観光の機能が充足してきた。中国の観光産業は単純な経済機能から始まり、社会機能、政治機能、外交機能など複数機能が経済機能に上乗せるように変化し、観光が多様化段階に入った。経済機能として、観光産業は国家経済成長の新たな原動力となり、2017年、観光産業収入総額が9兆1,300億元に達し、GDPの11.04%を占めた。社会機能において、観光産業は雇用機会と貧困削減の重要な手段となり、2017年、観光産業の直接雇用が2,825万人で、間接雇用を合わせれば7,990万人となり、雇用人口総数の10.28%を占めた。政治機能では、観光は愛国教育の重要な手段と見なされ、特に、中国独有のレッドツーリズム(Red Tourism,中国では「紅色旅游」と称される)の発展が観光産業に重要な政治効果をもたらした。また外交機能では、観光外交が民間外交の重要な担い手となって国家間の正式外交の基盤を築き、国際交流の重要なプラットフォームを作った。

 2010年以降、観光者の多様化と個人化の需要に満たす新しい観光商品を作り出した。例えば、クルーズの観光商品を開発し、天津、上海、広州から日本、韓国、東南アジアへの観光ルートを開通した。他方、自動車普及に伴って、2016年にドライブ旅行者数は26.4億人に達し、国内観光者総数の59.5%を占めた(夏・徐,2018)。

 他方、東北地方の寒冷地帯や豪雪地域の住民は冬季に温暖な海南島に滞在し、海南島の観光と観光不動産の発展を促した。また、夏季の避暑に伴う観光も常態化しつつある。中国の避暑適宜地域として、東北地方の遼東半島と華北地方の山東半島の沿岸地域が最大の集積地域であり、西南地方は貴陽や昆明など中心都市に依存する地域、東北山地や平原の瀋陽と吉林などの周辺地域、西北地方の西寧と蘭州を中心とする地帯、などの集積地域がある(楊・張・席,2016)。例えば、甘粛省はシルクロードが通る地域で、敦煌など歴史遺跡が多く存在しているが、2010年以降、交通条件の改善および自家用車の普及に伴い、新たな観光資源も開発されてきた。甘粛省張掖市において、過去には羊飼いの放牧地であった過疎地域にカラフルな地質景観が注目され、「七彩丹霞」と命名された。その希少性で2010年には世界遺産(自然遺産)に登録され、2015年に国家地質公園として開園し、多くの観光客を魅了する(写真3)。また、芸術家たちも甘粛省の観光振興のために様々なイベントを催し、若者のインスタ映えなどの需要を見合わせて、芸術品を公共アートとして無料で公開する(写真4)。

写真3

写真3 甘粛省張掖市の七彩丹霞
(筆者撮影 2024年11月)

写真4-1

写真4 甘粛省張掖市の公共アート(左:大地之子 右:漢武雄風)
(筆者撮影 2024年11月)

写真4-2

 中国において、一人当たりの旅行回数は1984年に僅か0.2回だったものの、2015年には初めて3回を超え、2017年には3.7回まで上昇した。2017年国内観光者延べ人数は50.01億人、国内観光収入は45,661億元で、観光は産業の経済効果としても文化・社会効果としても無視できない存在となっている。国際社会において、2012年に世界最大のアウトバウンド観光消費国となり、観光者による効果と影響は中国国内に止まらず、海外にも及んでいる。

参考文献
夏 傑長・徐 金海(2018):中国旅游業改革開放40年:回顧与展望.経済与管理研究,(6),3-14.
胡 北明・黄 俊(2019):中国旅游発展70年的政策演進与展望―基于1949-2018年政策文本的量化分析.四川師範大学学報(社会科学版),(6),63-72.
蒋 依依・温 暁金・劉 焱序(2018):2001-2015年中国出境旅游流位序規模演化特徴.地理学报,73(12),2468-2480.
張 広瑞(2013):中国旅游发展:新世紀以来的探索与未来展望.経済管理,(1),110-120.
張 城銘・翁 時秀・保 継剛(2019):1978年改革開放以来中国旅游業発展的地理格局.地理学报,74(10),1980-2000.
張 補宏・頼 宝(2009):中国出境旅遊発展歴程綜述.国際経貿探索,25(6),16-20.
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杜 国慶(2019):観光にみる中国の人の移動と地域変容.地理,64,50-56.
繆 芳(2006):中国旅游发展及在亜太旅游経済中的地位和作用分析.商業経済,(8),112-113.
楊 俊・張 永恒・席 建超(2016):中国避暑旅游基地适宜性綜合評価研究.資源科学,38(12),2210-2220.

書誌情報
杜国慶《総説》「中国の観光政策と観光発展」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, CN.1.04(2025年5月8日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/china/country02