アジア・マップ Vol.03 | 中国

《総説》
香港文学

大東和重(関西学院大学法学部 教授)

香港と日本

 香港と日本は現在、どのような関係にあるだろうか。 日本を訪れる海外からの訪問者数において、最も人数が多いのはお隣の韓国だが、人口比で圧倒的に割合が高いのは、香港である。700万あまりの人口のうち、毎年200万人以上が日本を訪れる。単純計算で3人に1人が訪日しているわけだが、背景にあるのはリピート率の高さで、香港人は冗談めかして日本を「家郷(ふるさと)」と呼んでいる。

 かつては日本人にとっても、香港は海外旅行の最も人気のある目的地の一つだった。しかしコロナ禍の直前の2019年に始まった、香港政府に対する抗議活動(「反送中運動」)が盛り上がると、政府はこれを鎮圧し、2020年には香港国家安全法が施行された。かつて自由を謳歌した香港から、言論の自由が失われたのである。観光、ショッピング、グルメにおいてあれほど日本人を惹きつけた香港だが、日本からの旅行者数はかつての水準に戻っていない。

 だがもちろん今でも香港人の大多数は香港に住み続けている。勤勉、スマートで、親切なことに変わりはない。そして港日の関係は、かつては日本人の片思いだったが、今では香港人の片思いになりつつある。とはいえ、日本からの往来が頻繁だった時代を含め、日本人は香港のことをどれだけ知っているだろうか。その文学にはどのようなものがあるだろうか。香港の見取り図を描きつつ、その文学を紹介してみたい。

香港島・九龍・新界

 香港は大きく3つの地域に分かれる。日本人が滞在し、観光するのは、香港島の北岸地域、及び九龍半島南端部の九龍南部地域である。

 香港島北岸地域では、金融都市香港の心臓部であるセントラル(中環)や商業地のコーズウェイベイ(銅鑼湾)といった、香港の顔というべき街並みが東西に広がり、高層ビルの谷間を香港名物の二階建て路面電車(トラム)*写真1が走る。繁華街の隣には、上環(ションワン)、湾仔(ワンチャイ)、北角(ノースポイント)、西湾河(サイワンホー)のような下町があって、新旧の入り混じる香港らしさを堪能させてくれる。街から南へと、ケーブルカー(ピークトラム)で急峻なヴィクトリア・ピーク(山頂)*写真2を登れば、名物の夜景が待っている。

トラム

写真1 トラム

ビクトリア・ピークからの夜景

写真2 ビクトリア・ピークからの夜景

 南の香港島と北の九龍をへだてるのが、ヴィクトリア・ハーバー(維港)である。埠頭からスターフェリー(天星小輪)*写真3に乗ると、わずか5分ほどの船旅で九龍南部に到着する。ここは中国内地からの観光客が最も多く集まる観光エリアである。さらにチムサーチョイ(尖沙咀)から南北に走るネイザンロード(彌敦道)を北上すれば、九龍最大の商業地、モンコック(旺角)が若者を集める。日本人に人気の夜市などはこの周辺に所在する。

 しかし実は香港で最も広い面積を占めるのは、香港島でも九龍でもなく、北側に広がる新界(ニューテリトリー)*写真4である。香港の人口の過半以上は、新界に設けられたニュータウン――沙田(シャーティン)、荃湾(チュンワン)、大埔(タイポ)*写真5、元朗(ユンロン)、屯門(チュンムン)などの団地の高層ビル*写真6に住んでいる。新界はもともと農村や島嶼で、今なお壁で囲まれた村やわずかに漁村が点在するが、道路を設け鉄道を敷いて、巨大な団地を擁する衛星都市が続々と建設された。現在多くの香港人は、昼間は香港島や九龍で働き、夜はダブルデッカーのバスや地下鉄で団地へ戻ってくる。団地は香港人のわが家、心の故郷となっている。

スターフェリー

写真3 スターフェリー

新界の廟

写真4 新界の廟

大埔・広福道

写真5 大埔・広福道

大埔・集合住宅

写真6 大埔・集合住宅

香港人の歴史的経験

 現在なお変化を続ける香港だが、その出発点は1840年に始まるアヘン戦争にある。敗北した清朝が英国へ香港島を割譲した。以降、九龍半島南端部の割譲や新界の租借が続き、現在の香港の領域が形作られた。

 もともと規模の小さな農村や漁村があっただけの香港に、華南の広東人を中心に、人口が流入してくる。戦争や災害を逃れ、職を求めて香港へ向かう波は何度もあった。特に中華人民共和国が成立すると、共産党支配を避けて香港へと移住する人々が多くいた。

 英国の自由放任政策のもと、自由貿易港として、後には製造業、さらに東南アジアと中国、さらに世界とを結ぶ金融都市として、香港は成長してきた。1960年代以降、香港政府が香港島南部や九龍北部、さらに新界に公共住宅を大量に提供し、香港人の香港での定住が始まると、70年代以降は香港人としての意識が高まる。1997年の返還を経て、2000年代以降は、香港の経済的地位の没落と反比例するように、香港をわが家と考える香港人が増えていった。

 香港の文学は、こういった香港の歴史的経験を反映しながら成長してきたのである。

香港文学の誕生

 「香港文学」と呼べるものが誕生するのは、中国で新文学が成立する、1920年代以降である。それ以前にも、中国政府の干渉を受けない植民地の香港では、新聞などの言論メディアが発達し、旧派の文人たちが活動していたが、香港に根差した文学と呼べるものが成立するのは、やはり20年代を待たねばならない。

 1919年の五四運動の前後、北京と上海を中心に、中国各地で新文化運動が勃興し、新文学の団体が生まれ、雑誌が発行された。これと呼応して、香港でも新文学の同人雑誌が作られ、作家たちが生まれる。ただし彼らの意識は、「香港人」というよりも、中国の一地方で新しい文学の活動をしている、地方文学というものだった。遠く北京や上海、あるいは 近くの広州と連動しながら、その運動は展開されたが、そんな中、広州に来た魯迅が、香港にも立ち寄って行った講演は、今なお香港文学史の重要な一挿話として語り継がれている。講演を行ったYMCA(香港中華基督教青年会)*写真7の建物は、現在もセントラルの急坂の上にその姿を見せてくれている。

YMCA(香港中華基督教青年会)

写真7 YMCA(香港中華基督教青年会)

 細々と展開されていた文学活動に、大きな刺激が加わるのは、日中戦争が始まる1930年代後半以降である。北京や上海などにいた著名作家たちが、英国が支配する植民地香港へと逃れてきて、香港を基地として抗日の宣伝活動を展開する。著名な作家に茅盾がおり、中篇小説「香港陥落」(小野忍・丸山昇訳、『中国現代文学選集8 抗戦期文学集Ⅱ』平凡社、1963年)を残している。

 しかし1941年12月、日本が太平洋戦争を開始すると、香港はまもなく陥落し、南来していた著名作家たちは中国の内陸へと移動する。3年8ヶ月と呼ばれる日本占領期、多くの香港人が辛酸を舐めた。戦後に使用できなくなった軍票の問題を含め、香港人の記憶から、暗黒時代は今なお消えていない。

 戦後、新中国の成立とともに、中国と香港の間の往来が制限されると、香港という行政単位の中で、地域の独自性が鮮明なものとなっていく。竹のカーテンの向こうとこちらで明確な対比が生まれるとともに、香港は独自の道を歩み始める。1960年代の反英暴動を受けて、香港政府が住宅難解消のため公共住宅を提供し始めると、仮の宿だった香港が多くの香港人にとって永住の地となった。そんな中、香港という土地に根差した文学が生まれてくるのである。

日本語で読める香港文学

 香港で活動した最も著名な作家といえば、 武侠小説の大家、金庸(1924-2018年)だろう。描いた舞台は過去の中国だが、香港から発信された最も影響力のある大衆文学である。小説の数々は『書剣恩仇録』全4巻(岡崎由美訳、徳間書店、1996-97年。徳間文庫、2001年)、『鹿鼎記』全8巻(岡崎由美・小島瑞紀訳、徳間書店、2003-04年。徳間文庫、2009年)などの翻訳が出ていて気軽に読むことができる。

 一方、香港文学の代表的な作家や作品が日本で十分に紹介されているとは言いがたい。西西(1938-2022年)は戦後の香港文学を代表する作家だが、これまで部分的な翻訳がなされてきたのみである。近年「浮都ものがたり」(濱田麻矢訳、王徳威ほか編、小笠原淳ほか訳『サイノフォン1 華語文学の新しい風』白水社、2022年)が出たが、最も翻訳が待たれる作家である。

 同じく戦後の香港文学を代表する詩人・作家・研究者である也斯(1949-2013年)については、各種の紹介や部分的な翻訳がなされてきたが、四方田犬彦との往復書簡『いつも香港を見つめて』(池上貞子訳、岩波書店、2008年)があり、またその詩は『アジアの味 也斯詩集』(池上貞子編訳、思潮社、2011年)などに訳されている。

 香港を代表する文化人の一人で、香港以外でも活躍する、陳冠中(1952年-)は、『しあわせ中国 盛世2013年』(辻康吾・舘野雅子・望月暢子訳、新潮社、2012年)が訳されている。

 李碧華(1958年-)も香港を代表する作家の一人で、研究もされてきたが、翻訳は英語からの重訳、『さらば、わが愛 覇王別姫』(田中昌太郎訳、早川書房、ハヤカワ文庫、1993年)があるのみである。

 現在香港を代表する作家はと聞かれたら、多くの文学愛好者が、董啓章(1967年-)と答えるだろう。その世界は『地図集』*写真8(藤井省三・中島京子訳、河出書房新社、2012年)で味わうことができる。しかし、同時代の文学が十分に訳されているとはいえず、黄淑嫺の短編「楼梯(ラダー)街の宋金倩(ソンガムシン)」(藤井省三訳、『新潮』第102巻第1号、2005年1月)や、韓麗珠(1978年-)の短編「秘密警察」(及川茜訳、村田沙耶香ほか著『絶縁』小学館、2022年)など、散発的にすぎない。

 現代詩については、『現代詩手帖』(2023年10月号)で「特集 香港詩人アンソロジー」が組まれ、黄淑嫻・宋子江・阮文略・盧真瑜・嚴瀚欽・曾詠聰・胡世雅らの詩が翻訳掲載されている。代表的な詩人の一人、廖偉棠(1975年-)については、『三田文学』(第3期第100巻第145号、2021年4月)に「弔客と凶年」の翻訳があり(佐髙春音訳)、また「旺角(モンコック)の夜と霧」(及川茜訳、前掲『サイノフォン1 華語文学の新しい風』)もある。

 近年日本で広く読まれている香港発の文学といえば、ミステリーではなかろうか。代表的作家の陳浩基(1975年-)は、『世界を売った男』(玉田誠訳、文藝春秋、2012年、文春文庫、2018年)、『13・67』(天野健太郎訳、文藝春秋、2017年、文春文庫、2020年)、『ディオゲネス変奏曲』(稲村文吾訳、早川書房、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、2019年)、『網内人』(玉田誠訳、文藝春秋、2020年)など翻訳が数多く出ている。莫理斯(トレヴァー・モリス、1965年-)の『辮髪のシャーロック・ホームズ 神探福邇の事件簿』*写真9(舩山むつみ訳、文藝春秋、2022年)は第9回日本翻訳大賞と第11回翻訳ミステリー読者賞を受賞した。

もう一つの中国語の文学

 しばしば「文化砂漠」などと揶揄されてきた香港だが、人口700万人の街には驚くほどの数の書店がある。中でも独立書店と呼ばれる、店主の個性を生かした本屋が街角に店を構え、思いがけない書籍を並べている。書店を回ると、香港にも数多くの作家がいて、香港を描き、読者が待ち受けていることがわかるだろう。巨大な中国市場や元気のある台湾の出版業界と比べれば規模の小ささは否定できないが、ここにももう一つの中国語の文学の世界が存在する。

 香港文学についてまずなされねばならないのは、翻訳と紹介、そして研究である。同じ中国語の文学でも、中国や台湾については続々と翻訳が出ている。香港の文化といえば映画を中心に芸能だった。香港を知る際に、翻訳された文学が一つのチャンネルとなる日が来ることを願って、短い概説の一文を閉じたい。

董啓章『地図集』

写真8 董啓章『地図集』(藤井省三・中島京子訳、河出書房新社、2012年)

莫理斯『辮髪のシャーロック・ホームズ』

写真9 莫理斯『辮髪のシャーロック・ホームズ』(舩山むつみ訳、文藝春秋、2022年)

 書誌情報
大東和重《総説》「香港文学」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, CN.1.03(2025年5月7日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/china/country03