アジア・マップ Vol.03 | 中国

《総説》
「グローバル中国語」としての広東語

飯田真紀(東京都立大学人文社会学部 教授)

 広東語とは、中国語十大方言のうちの1つ「粵語(えつご)」(“粵”は「広東省」の意)の標準語とも見なされる代表方言で、香港、マカオ、広東省広州を中心とする周辺一帯で話されるほか、粤語使用域全体で広く通用する。粤語は海外華人コミュニティの話者も加えると一説に8000万人もの話者がいるとされる。

 広東語を中国語方言の1つと見なすこうした型どおりの説明で間違ってはいない。しかし、中国語に馴染みのない日本人に説明する時に、果たしてこれで本来の姿が伝わるだろうか。

 日本語で「方言」というと、標準語とは異なる独特のアクセント、ご当地特有のユニークな単語や語尾などが特徴に挙げられる。実家や地元で使う懐かしいふるさとの言葉といったイメージもある。

 そうした日本語の方言の感覚で広東語を捉えようとすると実態を大きく見誤ってしまう。むしろ、拙著『広東語の世界ー香港、華南が育んだグローバル中国語』(中央公論新社、2024年)で述べたように、「グローバル中国語」とでも呼ぶのがふさわしいのである。

1.言語的な違い
 まず、そもそも方言とはいえ、中国語の場合、言語的に大きな隔たりがある。

 日本でいわゆる「中国語」として知られる北京語(本稿では北京官話Mandarinのことを指す)と広東語とは、もしお互いの言語を一度も聞いたことがなければ、まるで意思疎通ができない外国語である。その原因は音韻と語彙が大きく異なることにある。

 まず、音韻、平たく言えば発音の仕組みが異なっている。子音(正確には「声母」)や母音(同「韻母」)の数が違う。考え方により多少の出入りがあるが、目安として一般の学習者向け教科書の記述を参考に見てみよう。

 北京語は子音が21、母音が36ある。それに対し、広東語は子音が19、母音は53もある。また、このほか北京語にも広東語にも、声調と呼ばれる、「子音+母音」の組み合わせ全体にかぶさり単語の区別に関わる上昇下降などの音調パターンがあるが、北京語ではこれが4種類あり、広東語では6種類ある。

 こうした事実だけで両者が方言の関係にあるというより、それぞれ別の言語と言えるほど言語的に差が大きいことが見て取れるだろう。

 さらに、語彙が大きく異なるのも意思疎通できない主な原因になっている。「ありがとう」はよく知られるように北京語では“謝謝”(xièxie シエシエ)である。一方、広東語では“唔該”(m4goi1 ンコーイ)と“多謝”(do1zhe6 トーチェ)の2つを状況に応じて使い分ける。1

 これは挨拶表現の例であるが、全体的に見て、使用頻度の高い基礎語彙が同根語(cognate)でないことが多い。一例を挙げれば、3人称代名詞「彼」は北京語では“他”(tā ター)だが広東語では“佢”(köü5 コユ)である。判定詞「~だ」は北京語は“是”(shì シー )なのに対し広東語は“係”(hai6 ハイ)、疑問詞「誰」は北京語は“誰”(shéi シェイ)で広東語は“邊個”(bin1go3 ピンコー)である。 したがって、「彼は誰ですか」という疑問文は、北京語では“他是誰?”(Tā shì shéi? ター シー シェイ)であるのに対し、広東語では“佢係邊個?”(Köü5 hai6 bin1go3? コユ ハイ ピンコー)となる。単語の並べ方は同じであるが、そもそも単語が全く異なるため通じないのである。

2.グローバルな広がり
 広東語が「方言」の次元を超えているもう1つの点としてグローバルな広がりがある。「方言」というと、ある特定の地域限定で話される言葉というのが一般の日本語話者の理解であろう。事実、広東語は中国大陸においては広東省一帯の地域方言として位置づけられている。他方で、広東語は移民により海外に持ち運ばれた結果、相当な数の話者が国外にいるという側面を見逃すわけにいかない。華僑のふるさととして知られる広東省は、古くから世界中の多くの土地に移民を送り出した伝統がある。

 アメリカについて言えば、最初期の大量の華人移民は19世紀半ばのゴールドラッシュ及びその後の大陸横断鉄道建設が契機であるが、その大多数が広東省出身で「台山語」と総称される、広東語の地方変種「四邑方言」を話す話者であった。カナダでも少し遅れて同様のことが起こり、やはり広東語の話者が多くを占めた。そして中南米にもまた19世紀に多くの広東語話者が移民した足跡がある。

 また、オーストラリア、カナダ、イギリスといった国々では家庭使用言語として広東語を使う中華系移民が多いが、20世紀後半以降、断続的に起きた政治状況の変化から香港を脱出した人々の受け皿となったことも大きい。

 このような経緯があるため、日本での存在感の無さからすると想像がつかないが、海外では広東語が北京語と並ぶ二大中国語として知名度が高い。アメリカでは初期の華人がほぼ広東語系であったことから、かつては広東語が中国語を代表していたぐらいである。

 世界中から次々と移民を吸い寄せてきたアメリカには英語が話せない人が今も珍しくない。そのため、10年に一度行われる国勢調査では英語以外にも様々な言語で回答が可能である。国勢調査局のパンフレットによれば、2020年からは電話での回答及び調査員の戸別訪問で「中国語」が使用できるようになったという。注目したいのはその「中国語」の中身である。日本では中国語と言えば北京語ということになるが、アメリカではそうではない。中国語のオプションの1つとして広東語も当然のように併記されている。2

 移民大国アメリカでは、また、出身地言語によるエスニックメディアが発達している。中でもアジア系の中で重要な位置を占める中華系には独自の中文メディアが豊富にあり、全く英語に触れずとも日々暮らしていける。3

 そうした中、ラジオやテレビのような音声メディアでは、広東語が北京語と並び中文オプションの1つになっている。

 例えば、広東語によるラジオ放送には現在、確認されただけでも以下のチャンネルがある。いずれもインターネットで生放送を聞くことができる。
・WZRC AM 1480(ニューヨーク)
  https://nysino.com/am1480/online-listen/
・KVTO AM1400 (サンフランシスコ・ベイエリア)
  https://www.chineseradio.com/main/
・KMRB AM1430(ロサンゼルス)
  https://video1.getstreamhosting.com:2000/public/8288-5

 

 アメリカでは特に1965年の移民法改正以降、中華系移民の出身地の多様化が進み、近年では中国大陸各地の移民が増加している。それにより、華人同士のお互いの共通語として北京語の使用が増え、かつての優勢言語であった広東語の勢いにも陰りが見られつつある。

 しかしながら、祖国を遠く離れ、グローバル規模で中国語のオプションの1つになっている広東語の実態は、「方言」という呼び方から想像される地域方言のイメージとは相当かけ離れたものであろう。

写真1

写真1 [ニューヨーク・マンハッタンのチャイナタウン]


写真2

写真2 [ニューヨーク・ブルックリンのチャイナタウンの自動車学校の看板]
対応可能な中国語として“台山話”「台山語」、“廣東話”「広東語」、“普通話”「北京語」が挙げられている


写真3

写真3 [ニューヨーク・マンハッタンのチャイナタウンのスーパー精肉売り場]
“豬紅”「ブタの血ゼリー」、“雞翼”「手羽先」など広東語独特の表現が使われている

3.香港における広東語の発展
 広東語のグローバルな広がりの初動は広東省出身の移民に負うものであった。しかし、その後の広東語の定着と普及には何と言っても香港の影響力が大きい。

 冒頭で書いたように広東語が話される地域には香港が含まれる。

 周知のとおり、香港は1997年に中国に返還された。そう聞くと、今や香港の人々は家庭や地域コミュニティで広東語を話し、オフィシャルな場では北京語を話すといった二言語併用になったと思われるかもしれない。しかし、そうではない。香港は返還前も後も広東語を中国語の中心的オプションとしており、北京語は返還後まもなく30年になろうとする今も広東語に取って代わっていない。

 香港はおよそ150年間のイギリス植民地時代を経験し、中国大陸とは異なる歴史を歩んできた。言語面でも異なる展開を見せる。

 19世紀半ばの開港後、隣接する大都市広州から威信の高い標準広東語がもたらされ、異なる方言集団の人々の間で共通語として使われ始めた。それが戦後になると、共産主義化した大陸中国からの避難民を大量に吸い寄せた香港において、大陸と一線を画すべく英国統治下の新天地で勃興した香港人アイデンティティのよりどころとなったのである。

 やがて、香港ではメディアや教育のことばも広東語一本に収斂されていく。

 ここでいうメディアのことばとはテレビやラジオなど音声メディアの言語を指す(書記言語については後述)のだが、広東語のグローバル展開を強化したという点でぜひとも指摘しておかなければならないのが香港のポップカルチャーの役割である。

 なかでも80~90年代に黄金期を迎えた香港映画は娯楽性に富んだ作品が多く、中華圏だけでなく日本や韓国などアジアに絶大な影響をもたらした。ブルース・リー、ジャッキー・チェンは言わずと知れた世界級の香港映画スターである。映画のほかドラマやポップスでも香港芸能人が中華エンタメ界をリードしていた。おかげで彼ら/彼女らの話す広東語が中華圏でのステータスを大いに高め、それがまた前節で述べた海外の華人社会での広東語の地盤を強化するというサイクルになったのである。

写真4

写真4 [香港島・ヘネシーロードの道路標識]
軒尼詩 (Hin1nei4si1 ヒン ネイ スィー)は第8代香港総督


写真5

写真5 広東料理の名物① 「チャーシュー」は広東語“叉燒”(cha1siu1 チャー スィウ)由来


写真6

写真6 広東料理の名物② 「ヤムチャ」は広東語“飲茶”(yam2cha4 ヤ(ム)チャー)由来

 余談ながら、隆盛を極めた香港映画も2000年代以降は様々な要因から低迷が顕著になった。しかし、ここへきて香港史上最多の観客動員数を記録した大ヒット作『トワイライト・ウォリアーズ 決戦! 九龍城砦』(香港上映2024年)が日本でも話題となり、久々に香港映画に脚光が当たっている。80年代の九龍城砦を舞台に個性際立つ登場人物が派手なアクションを繰り広げる本作は、往年の香港映画好きだけでなく、これまで香港映画を見たことのない層にも遡及し、興行収入5億円突破を記録し、異例のロングラン上映が行われた。広東語の知名度向上にも相当貢献したことだろう。

4.香港における読み書き教育
 次に、教育のことばが広東語であるという点について述べる。ここでは読み書き、つまり国語の教科が広東語で教えられるということに注目したい。(ただし、近年は北京語で国語を教える学校が増えており、今後の状況変化は未知数である。)

 先にメディアの言語が広東語であることを述べた。これは音声言語についてであり、書記言語、すなわち書き言葉においては香港も大陸や台湾など他の中華圏と同じ中国語を使うのが規範である(漢字は繁体字を使用)。

 中華圏共通の読み書きに使う中国語というのは北京語の語彙と文法を基盤にしている。そのため、北京語の知識があれば読めるものである。

 例えば、第1節で挙げた例を使えば、「ありがとう」は“謝謝”、「彼は誰ですか」は“他是誰?”と書かれる。

 ところが、あまり知られていないが、香港人はこの書き言葉を黙読・音読する際にも広東語の漢字音を使う。“謝謝”(Zhe6zhe6 チェーチェー)、“他是誰?”(Ta1 si6 söü4? ター スィー ソユ)といった具合である。北京語音を使わないのが重要なポイントである。

 これらは現代中国語であるが、古典中国語、つまり日本でいう漢文のテキストも広東語音で読む。論語の一節「学びて時に之を習ふ、亦説(よろこ)ばしからずや。」も“學而時習之,不亦說乎?”(Hok6 yi4 si4 zhaap6 zhi1, bat1 yik6 yüt6 fu4? ホーッ (ク) イー スィー チャーッ (プ) チー、 パッ(ト)イェッ (ク) ユッ (ト) フー)といった具合である。

 このように、香港では中国語の読み書きにおいても終始、広東語音を用いてきた。広東語の使用は決して話し言葉だけではないのだ。4

 まさに香港では広東語こそが中国語を代表する中心的オプションなのであり、つまりは標準中国語なのである。5

 日本では中国語=北京語というオプションしか想定されない。しかし、世界的に見れば中国語=広東語というオプションもあることを香港が実証している。

 先に触れたアメリカ、カナダほか海外では、広東語を継承語(heritage language)として教える華人移民家庭が少なくない。そうした子ども向けに、中国語の読み書きを北京語音ではなく広東語音で教える教材がいくつか出版されている。例えば、Samantha ChanによるJok Sing Jaiシリーズが一例である。6

 香港を経由してグローバル規模でもう1つの標準中国語とも言える存在になった広東語。「中国語」とはいったいどういう言語なのか、北京語を相対化し、かつまた方言とは何なのか、考えさせてくれる格好の素材である。

注釈
1広東語のローマ字発音表記は千島式を用いる。この方式ではローマ字の後ろの数字は声調を表す。
2https://www.census.gov/content/dam/Census/library/factsheets/2020/dec/2020-respond/respond-chinese-simplified-1-english.pdf
3アメリカのエスニックメディア、特に中華系メディアについては渡辺将人『メディアが動かすアメリカ: 民主政治とジャーナリズム』(筑摩書房、2020年)の第5章が詳しい。
4世界への影響力という点で割愛したが、マカオの中国語事情もほぼこれと同様である。
5広東語はマイナーな標準中国語として位置づけられるという見解については上述の拙著『広東語の世界』参照。
6Samantha Chanやその他の著者による教材については以下のブログに詳しい。“Chinese Books For Kids With Jyutping 粵拼 for Cantonese Reading” https://cantoneseforfamilies.com/chinese-books-for-kids-with-jyutping-for-cantonese-reading/ (最終アクセス2025年5月17日)

書誌情報
飯田真紀《総説》「“グローバル中国語”としての広東語」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, CN.1.10(2025年11月25日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/china/country07