アジア・マップ Vol.03 | インド
《総説》
インドの外でインド人であること:移民研究から
本稿は、「インドの外でインド人である」とはどういうことか、英国のインド系移民を中心に考察する。以下ではまずインド系移民の概要と現況をふまえたうえで、人類学・社会学分野における先行研究をレビューする。最後に、筆者が現在調査中の英国レスターの事例をもとに、今後の課題と展望を示す。
2 インド系移民とはだれかインドからの出移民は、(1)非居住インド人(NRI:Non-Resident Indians)、(2)インド系住民(PIO:Persons of Indian Origin)の二つに分けられる。前者は「インド国外に居住するインド市民」、後者は「インドに出自をもつ外国市民」[今藤2010:136-137]を指す。法的位置付けとしては2015年にPIOが廃止され、二重国籍を認める在外インド系市民(OCI:Overseas Citizenship of Indian)に一本化された[井上2021:3]。 両者を含む総称として、「在外インド人」「印僑」「インド系ディアスポラ」「インド系移民」などさまざまな呼称が用いられる。本稿では「海外在住のインド人およびインド系の人びと」を表す最も中立的な用語として「インド系移民」を使用する。
インド外務省によれば、2024年時点で全世界のインド系移民の総数は約3,500万人に上るi。居住国第1位はアメリカ合衆国(約540万人)、第2位はアラブ首長国連邦(約360万人)、第3位はマレーシア(約290万人)となっている。インド系移民の移住史は、おおよそ以下の4つの時期に分けられるii。
(1)英国植民地時代:年季契約労働制度やガンガニー制度、マイストリ制度によって英国植民地へ移住【移住先:東アフリカ、モーリシャス、南アフリカ、トリニダード・トバコ、フィジー、ビルマ(ミャンマー)、セイロン(スリランカ)、マレー半島など】
(2)独立後〜1970年代:先進諸国の経済復興に伴う労働力不足を補うために労働者として先進国へ移住【移住先:英国、アメリカ合衆国、カナダなど】
(3)1973年〜:石油危機を機に中東諸国への出稼ぎ移住が増加【移住先:サウジアラビア、アラブ首長国連邦、オマーン、クウェートなど】
(4)1990年代〜:経済自由化を機に高学歴ITワーカーの先進諸国への移住【移住先:アメリカ合衆国など】
3 先行研究の動向日本では1980年代よりインド系移民を中心とする南アジア系移民に学術的関心が向けられるようになった。2000年前後、包括的インド・南アジア系移民研究の論文集として大石編[1999]、古賀・内藤・浜口編[2000]が刊行される。大石[1999]によれば、2000年頃までの南アジア系移民研究は次のように類型化される。(1)移民社会の歴史的形成過程の研究、(2)移民への差別や政治運動に焦点化したもの、(3)移民社会の文化変容や宗教運動に焦点化したもの、(4)移民社会の生活世界研究、(5)世界システムの理論構築の5つである。
その後の研究では、一時的な労働者や学生、旅行者などより幅広い<移動民>をとらえるべく、移民よりもディアスポラの用語・概念が用いられる傾向にあるiii。南アジア系移民・ディアスポラの人類学的研究をレビューしたColeman[2011]は、今後の課題として(1)移住の複数性、(2)地理的な相違と多方向的な軌跡、(3)亡命とナショナリズム、(4)トランスナショナルな公共圏の4点を挙げる。近年では、ジェンダーの差異に基づく暴力という観点からディアスポラ社会を取り上げた論文集[田中・嶺崎2021]が刊行されるなど、ジェンダーの問題にも注目が集まっている。
4 英国のインド系移民 次に英国のインド系移民の現況と背景について概観する。インド外務省によれば2024年時点で英国に居住するインド系移民の総数は約186万人であるiv。移住史は次のように分けられる[長谷1999:39]。
第1期(1800〜1946年):前史
第2期(1947〜1962年):大量移民の時代
第3期(1962年〜1978年):移民規制の時代
第4期(1979年〜):多文化主義の時代へ
筆者が調査するレスターには、第3期に東アフリカから「再移住」してきた「ウガンダのアジア人(Ugandan Asians)」と呼ばれる人びととその子孫が多く居住する。再移住について説明しようv。英国植民地時代、奴隷制が廃止され新たに導入された年季契約労働制度によって各植民地に労働移住が行われた中で、アフリカ大陸にも多くの労働者及び自由移民が移住した。東アフリカの場合、1896年〜1901年にかけてウガンダ鉄道建設のため約34,000人のパンジャーブ人を中心とする労働者、次いで鉄道開設に伴い商売目的の「自由移民」として主にグジャラート系商人がインドから移住した。しかし、第二次大戦後、アフリカ諸国が独立しアフリカ人優遇政策が進められる中で移民排斥運動が強まっていった。特にウガンダでは1972年8月にインド系移民の強制退国命令が施行され、約60,000人が退国を余儀なくされることになった。約27,000人が英国に渡り、そのうち約10,000人がレスターに移住したとされる。こうして英国に再移住したウガンダを中心とする東アフリカ出身インド系移民が「ウガンダのアジア人」である。彼らは労働移住組と異なり専門職に就いたり自営業を営んだりするなど比較的富裕層が多く、在英インド系移民の中で最も影響力を持つ存在となっている。
5 おわりに:今後の課題と展望最後に今後の課題と展望をまとめよう。先行研究ではインド系移民社会の紐帯や帰属意識、アイデンティティの核として出身地、民族、宗教宗派、カーストが前提とされてきた。そうした参照枠のもとで各宗教コミュニティの研究が進められてきた一方、宗教宗派間の軋轢やつながりなど関係性については十分に論じられていない。現在、世界的に移住が多様化・複数化する中で、多種多様な移民たちがどのように彼らをとりまく環境と折り合いをつけながら生きていけるのか、改めて共生の問題が問われている。したがって、これからの移民研究で必要とされるのは、既存の社会的文化的差異─宗教宗派や民族、カースト、世代、オールドカマー/ニューカマー、ゲスト/ホストなど─を超えてどのように新たなつながりが形成されうるか。<社会的なもの>[森2014;関2017]、すなわちフォーマル・インフォーマルな相互扶助ネットワークへの視座である。
そうしたネットワークの鍵となるものとして、筆者は(1)食実践、(2)祭・芸能、(3)瞑想、(4)慈善活動の4点に注目している。(1)に関して、これまでレスターで実施してきた現地調査viでインド系移民が現在でも出身地域の食べ物を日常的に食べ続けていることが明らかになった(写真1)。その一方、アフリカ由来の食材を多用したり(写真2)、菜食主義などの食規範に則した英国料理も取り入れたりするなど(写真3)、そこにはアフリカや英国など複数の「ホーム」の文化的要素も取り込まれている。さらに、英国のスーパーマーケットには既製品のチキン・ティッカ・マサーラー(カレーの一種)やサモーサー(ジャガイモの具を揚げた三角パイ)などインド食品があふれ、レスターの隣のバーミンガムではバルチ(Balti)と呼ばれる新種のカレーが開発されるなど、インドの食はホスト国の食文化にも影響を与えている。
これらの事例から指摘できるのは、これまで宗教やカーストの側面が強調されてきたインド的伝統は、インドだけでなくアフリカや英国などさまざまな文化的要素から成る開かれたハイブリッド<文化>として移民たちに実践されていることだ。そして、<文化>には既存の宗教や民族など社会的な壁を穿ち、架橋し、繋げてゆく潜勢的な力がある。その力がどのように英国、アフリカ、本国インド、さらにそのほかの地域で暮らすインド系移民たちの間に越境的なネットワークを形成していきうるか。それは「インドの外でインド人であること」をどのように成り立たせうるのか。今後の研究で追いかけていきたい。
【参考文献】Coleman, Leo. 2011. Transnational India: Diaspora and Migration in the Anthropology of South Asia. In Isabelle Clark-Decés ed., A Companion to the Anthropology of India. West Sussex: Wiley-Blackwell, pp.445-463.
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古賀正則・中村平治. 2000.「総論 国際的な移民の動向とインド系移民」古賀正則・内藤雅雄・浜口恒夫編『移民から市民へ:世界のインド系コミュニティ』東京大学出版会, 1-23.
古賀正則・内藤雅雄・浜口恒夫編. 2000.『移民から市民へ:世界のインド系コミュニティ』東京大学出版会.
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大石高志. 1999.「南アジア系移民史の研究:「主体的」・「戦略的」な移民像の歴史的再構築に向けて」大石高志編『南アジア系移民:年表および時期区分』東京大学東洋文化研究所, 1-24.
大石高志編. 1999.『南アジア系移民:年表および時期区分』東京大学東洋文化研究所.
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首藤もと子編. 2010.『東南・南アジアのディアスポラ』駒井洋監修, 明石書店.
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富永智津子. 1999.「東アフリカにおける南アジア系移民の歴史」大石高志編『南アジア系移民:年表および時期区分』東京大学東洋文化研究所, 91-121.
富永智津子・宇佐美久美子. 2000.「東アフリカのインド人:歴史と現状」古賀正則・内藤雅雄・浜口恒夫編『移民から市民へ:世界のインド系コミュニティ』東京大学出版会, 72-123.
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ⅰhttps://www.mea.gov.in/population-of-overseas-indians.htm/(2025年1月13日最終アクセス)
ii内藤[1996]、大石[1999]、古賀・中村[2000]、今藤[2010]、澤・南埜[2009]など参照。
iii一例として、本稿でも参考にした『東南・南アジアのディアスポラ』[首藤編2010]など、2009年から2011年にかけて明石書店から新版グローバル・ディアスポラ全6冊が刊行された。
iv注ⅱ参照。
v内藤[1995]、富永[1999]、富永・宇佐美[2000]、Marett[1993]など参照。また、2022年7月から2023年4月にかけてLeicester Museum & Art Galleryで開催された特別展 ‘Rebuilding Lives: 50 Years of Ugandan Asians’ の展示資料も参照し、移民の統計は展示資料に依拠した。
vi2021年10〜11月、及び2022年4〜11月の約9ヶ月間、参与観察調査と聞き取り調査を中心とする人類学的フィールドワークを行った。
書誌情報
濱谷真理子《総説》「インドの外でインド人であること:移民研究から」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, IN.1.01(2025年4月15日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/india/country02/