アジア・マップ Vol.03 | イラン

《総説》
イラン革命再訪——100年の扉を前に——

黒田賢治(国立民族学博物館グローバル現象研究部 准教授)

 イランは革命的な状況にあるわけでも、「革命前」状況にあるわけでもない。

 1978年8月にアメリカ中央情報局(CIA)が出したレポートの前書きにあった一文である。同年初旬から徐々にイラン全土へと王政に対する抗議運動が盛り上がるなかまとめられたレポートに刻まれた上記の一文は、今さら振り返れば牧歌的に思える甘い見通しであった。翌年2月11日、シャー(国王)に一縷の望みを託されたシャープール・バフティヤール政権が崩壊し、革命暫定政権が唯一の国内の政権となることで、革命が達成された。それから46年。イラン・イスラーム共和国と名づけられて歩んできた革命後のイランは、今も大きな激動のなかにある。

 筆者がイランに初めて訪れたのは、19歳であった2002年7月であった。ということは、いわば革命後のイランの「後半生」をその傍らで見てきたに過ぎない。革命前後の動乱、1980年から1988年までのイラン・イラク戦争、そして戦後復興から1997年に誕生し政治的に自由な雰囲気が醸成されたハータミー政権が誕生するまでの時代は、筆者にとってみれば自身が体験したことのない歴史である。

 とはいえ、革命を直接体験したことの筆者のような世代でも、革命後の「前半生」をそれとなく知ることは何度もあった。たとえば、首都テヘランのダウンタウンに広がるビル群である。それらには革命の指導者であり、初代最高指導者となったホメイニー師を始め、イスラーム共和国の正史を飾る人物たちの肖像画が刻まれてきた。またイラン・イラク戦争で殉教(戦没)した著名な人物たちの肖像も少なくなかった。しかし、著名な人々だけが「前半生」を支えてきたわけではないことはエンゲラーブ(革命)広場近くの映画館の隣にある壁画を見れば、一目瞭然である。それにはホメイニー師と当代の最高指導者ハーメネイー師の肖像がとともに、革命や戦争に参加した名も無き人々の姿が描かれてきた。

写真1

革命広場側に描かれた壁画(2007年7月、テヘラン、筆者撮影)

写真2

同じ場所に新たに描きかえられた壁画(2015年12月、テヘラン、筆者撮影)

 名も無き人々が命を賭して革命運動に参加したことの重要性は、革命運動期にも示された。10数年の亡命生活を経て再びイランの地を踏みしめた1979年2月1日、革命の指導者ホメイニー師が真っ先に向かったのはテヘラン市南部のベヘシュテ・ザフラー共同墓地であった。今日、テヘランで反王政運動を含めイスラーム共和体制のために命を落とした人々の多くは、この墓地の殉教者区画に埋葬されている。同じように、地方都市の共同墓地に赴いても、一般の埋葬区画とは別に殉教者区画が設けられている。そして殉教者の大部分をしめてきたのが、20万人を超えるイラン・イラク戦争(1980-1988年)の戦没者たちであった。

写真3

殉教者区画に設けられた戦没者の記念碑(2016年9月、テヘラン、筆者撮影)

 墓前に捧げられたプラスチックの花は、かつての殉教者区画の見慣れた光景でもあった。時を経ても枯れず、時とともに徐々に色彩が薄らいでいくプラスチックの花は、成し遂げられた革命の理想とその現在地を示唆していた。革命前の、国王やその側近らわずかな人々によって握られていた富の不均衡性。封建的なジェンダー関係と権力関係。制限された政治的な自由。それらを打開する理想的な社会を夢見て、反王政運動は革命運動へと大きく変化していった。革命運動には、それぞれに抱いた思惑のなかで、さまざまな階層の人々が参加した。革命とは、より良い自らの未来を創るためであり、明るい社会の模索であった。

 革命を46年経たイランの社会に対し、筆者がその評価を下すのはおこがまし過ぎる。明らかであるのは、46年の苦境を経てもなお溢れんばかりのイランの人々のバイタリティである。

 1979年11月のアメリカ大使館占拠事件以降、イランはアメリカを中心にさまざまな経済制裁を受けてきた。なかでも、2010年に米国とEUによってなされた石油取引を含めた経済制裁、そして2018年にアメリカのドナルド・トランプ政権がイランに課した「最大の圧力」である。「最大の圧力」は、イランの経済破綻とそれにともなう体制指導部の方針転換、あるいは立ち上がった市民による体制転換という戦略的目標があった。それらのうち、経済破綻については実際に各種経済指標に基づけば、イラン経済をこれまでにない混乱に陥れ、十分に目標は達成されたといえるだろう。しかしそれ以外については、アメリカの思惑を裏切る結果となった。

写真4

博物館として公開されている旧アメリカ大使館に飾られたトランプ政権を批判するアート(2019年12月、テヘラン、筆者撮影)

 イランがなぜそれほどまでに強固であるのか。近年、文化人類学者のナルゲス・バーホグリーらによって刊行された経済制裁下のイランをめぐる統合的な研究は興味深い示唆をいくつも行っている1。なかでも以下の三つの点は、イランの政治経済の持続性を理解するうえで示唆に富んでいる。一つ目は、流動的な経済状況にイランに生きる人々もまた対応しているという点である。二つ目は、経済制裁によって外国製品の途絶するなかで、国産品の増加のみならず無数の無名のアルチザン(職人)が出現してきたという点である。三つ目は、イラン国家が掲げる政策の大義を経済制裁が補強してきたという点である。

 経済の厳しい状況にもかかわらず、レストランやバーザールは賑わいを見せてきた。なぜそれほどの財力を人々はもっているのか。海外送金の依存度も低く、失業率も高い社会で何故なのかという疑問を筆者も抱いてきた。その一つの手がかりが一つ目の点であり、労働の形態としてイラン版UberであるSnappのようなプラットフォーム型労働などが駆使されているのである。

 同じく二つ目の点も、筆者の抱いてきた別の疑問に手がかりを与えてくれる。2010年代半ばから都市部では「工芸品」を扱う店舗が増加してきた。「工芸品」は、伝統的な手工芸品のみならず、それらやレトロな製品からデザイン面で取り込み、雑貨や衣類など多岐にわたってきた。現代的でありながらイラン的でもある洗練されたハイブリッドなそれらは、Instagramを広告媒体として宣伝され、年々増加の一途を辿ってきた。革命以前から日用生活雑貨について日本を含めた外国からの供給に依存してきたが、経済制裁があらたな国内生産構造の変化を生み出したことを示唆しているのである。

写真5

金曜市に並ぶ木工製品(2018年3月、テヘラン、筆者撮影)

 最後の点についても、国家の求心力をめぐる思考の転換を説明するうえで示唆的である。アメリカによる経済制裁がイラン経済に大きな打撃を与え、人々に苦境をもたらしてきた。しかし正しい存在は、普通に暮らす人々に幸福をもたらすはずであり、苦しみを与えることはない。それゆえ普通に暮らす人々に苦しみを与えるアメリカは正しい存在ではない。同時に間違った存在に対抗している自分たちこそが正しいという世界認識をめぐる論理構造が妥当なものになる。それは国家の対外的な政策に対して、ある程度の高度な教育を受け、論理的な判断もできる社会層が支持する背景を理解するうえで示唆的である。

 2029年。あと4年でイランは革命から50年の節目を迎える。同時に1929年にイランとの正式な国交を結んだ日本にとっても100年の節目を迎える。前ライースィー政権の下で進められてきた「東向き政策」により、中国や中央アジアとの経済的な関係が強化されるなか、ますます日本との関係は薄らいできたように見える。しかしそのような状況であるからこそ日本とイランとの次の100年を考えるうえで、これまで歩んできた道のりを振り返る時が来ているとも言える。そして筆者もその一助となるべく日夜学究生活を送っている。

1Bajoghli, Narges. et al. 2024. How Sanctions Work: Iran and the Impact of Economic Warfare. Stanford: Stanford University Press.

 書誌情報
黒田賢治《総説》「イラン革命再訪:100年の扉を前に」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, IR.1.02(2025年9月30日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/iran/country01