アジア・マップ Vol.03 | イラン
《エッセイ》
イランのイスラーム建築
イランの建築文化をさす場合、もう少し大きな括りでペルシア建築という言葉を使うことがある。中央アジアに比べるとイランでは同質の建築文化がいくつかの国民国家に分割されたわけではないけれど、周辺のイラク、クルディスタン、アゼルバイジャン、トゥルクメニスタン、アフガニスタンにもいくつかの時代に類似した建築文化が広がる。国民国家イランの領域とペルシア建築文化は多少の差異はあるので、ここではペルシアという言葉を使いたい。
その同質性とは、レンガ(荒石の場合もある)を駆体とし、ピア(太い柱)や厚い壁に、ドームやヴォールト(曲面架構)を架ける方式である。イスラーム直前にペルシア一帯を支配したサーサーン朝(226年 - 651年)期のイーワーン(アーチ型開口大広間、図1)と大ドーム(図2)は、イスラーム化以後、ペルシア建築推進の原動力となる。無論、紀元前にさかのぼるアケメネス朝ペルセポリスの円柱群、木材を多用するカスピ海沿い、砂漠の岩盤を掘り抜いて住宅とする地域など例外もある。けれども、大まかには地中海周辺や南アジアの切石やコラム(細い柱、多くの場合石で造られる)を主とする建築文化と大きく異なる。そしてイスラーム時代を通してレンガ同様に土を材料とする装飾材としての釉薬タイルが復活し、時代を追って総タイル貼りの建築が生まれていく。こうしたいわゆる土を材料として加工する建築文化をもつ土地である。
1.イスラームの受容 ;西暦800年から1000年
ペルシアにおけるイスラームの始まりはイスラームを奉じたアラブ軍がサーサーン朝を滅ぼした7世紀にさかのぼる。当初の遺構は残らないが、9世紀から10世紀にかけて、ダムガン、ナーイーン(図3)、ファフラージ(図9)にモスクが現存する。それらは預言者が聖遷した頃のマディーナの預言者のモスクに倣い、中庭のキブラ(礼拝の方向としてのカアバ神殿への方角)側にピア(太い構造柱)をグリッド状に立てて礼拝室とし、中庭を周廊で囲んだ多柱式である。しかし、マディーナの預言者のモスクとの差異は、細い棗椰子の幹ではなく太いピアとし、天井を平屋根ではなくヴォールト(曲面架構)とする点にある。10世紀になるとイーワーンをモスクとした例もある(図4)。先述したようにイーワーンはサーサーン朝にさかのぼる建築技法である。
2.ペルシア建築文化の復興と再編;西暦1000年から1250年
西暦1000年頃から、ペルシアの伝統の復興と再編が起こるとともに、塔建築が頭角を現す。ペルシア伝統の大ドームとイーワーンを用い、中庭の直交軸上の対象位置にイーワーンを二つあるいは四つ配し、キブラ・イーワーンの背後に大ドームを接続させる形式(4イーワーン形式あるいは2イーワーン形式)を確立する。11世紀末から12世紀の実例がイスファハン(図5)、ザワレ、アルディスタン(図6)など、イラン中原の大モスクにみられる。この形式は、セルジューク朝の宰相ニザーム・アル・ムルクが、アル・カーヒラ(カイロ)を首都とするシーア派のファーティマ朝に対抗し、スンナ派を興隆させるために整備したマドラサ(寄宿制高等教育機関)システムとともに、ペルシア以外の各地にも広まる。
大ドームの復活に関しては、墓建築のドームに11世紀前半の早い実例が残る。アルスラン・ジャディーブ(サングバスト、1028年)やダバズダー・イマーム(図7)などであり。矩形の部屋にドームを架ける形式(キャノピー墓)は、中央アジアに10世紀の先例があり、その後、イスラーム圏全域に広まる。ペルシアの墓建築ではキャノピー墓だけでなく、八角形平面にドームを架ける形式、あるいは多角形平面で高く塔状にたちあがる墓塔(屋根はドームの場合と錘状の場合がある)も使われる。墓塔の現存初例はゴンバディ・ガーブース(図8)であり、塔身をフリンジ(縦状の突起)で構成し錘状の屋根を載せる。その後、墓塔の流行はカスピ海沿いに西へ進み、トルコ系の人びととともにアナトリアやアゼルバイジャンへと広まり、さまざまな変化形が生じる。
また、礼拝の呼びかけを行うミナレット(光塔)については、前時代の実例は角柱の基部がシーラーフ等に残ることから、当初は地中海周辺に流布した角柱型であったと推察されている。おそらく10世紀後半頃から断面形に変化が生じ(図3、9)、1000年以後になると、断面形が円形の煙突のような塔(図10)が各地に造られるようになり、次第に高さを増していく。さらには12世紀初頭には、イーワーンの上に対にして立てる形式(ドゥ・ミナール)が開発され、アルディスタンとタバス(非現存)に実例が確認される。
11世紀後半には、釉薬をかけたタイルを煉瓦の建築にアクセントとして挿入するようになる(図10)。それまではレンガ紋様積みやスタッコの彩色/彫刻装飾が主であったけれど、トルコ・ブルーがレンガに映える。
これら一連の変容を推進したのは、中央アジアの草原からやってきたトルコ系のセルジューク朝下での出来事であった。同朝はバグダードのアッバース朝カリフを傀儡化し大帝国を築き、ペルシア建築文化は領域を超えて各地に広まることとなった。
3.洗練と伝播;西暦1250年から1500年
13世紀前半のモンゴルの侵入による建築の変化は、1250年頃から生じる。イル・ハン朝では本拠地とした北西イランにその遺構は多く、サーサーン朝宮殿を転用したタフティ・スレイマン、スルターン・オルジャイトゥーを葬ったスルタニエ(図11)、タブリーズの巨大なイーワーンを用いたアリー・シャー・モスクなどが著名である。建築の巨大化、特に高いファサードや、前時代よりも垂直方向の比率を増した中庭空間への志向(図12)が明らかとなる。
ハーンカー・シェイフ・アブドッラー(ナタンズ)では幻想的なムカルナス(鍾乳石飾り、図13)と手の込んだタイル細工が美しく、大きさばかりではなく、技法の発展が読み取れる。前のセルジューク朝時代には控えめだったタイルの使用がかなり増えてレンガ色の割合が減少し、タイル技法にも、同色のタイルを焼き、切り取って集成するモザイク・タイル技法に加え、絵付タイル、光沢のあるラスター・タイル、穴あきタイルなどさまざまな技法が試される。銅の発色によるトルコ・ブルーに加え、コバルトの発色による藍色が多用されるようになる。
イスファハーンのスルタン・バフト・アガー・マドラサ(図14 1351/2年)では、伝統的な入口上部のドゥ・ミナールとともに、次世代に向けた変化として、墓建築にはドラムを用い内殻と外殻が大きく乖離した二重殻ドームが残る。この技法は、次の時代、特にトゥーラーン(トランスオクシアナ)や大ホラサーン(現在のイラン、アフガニスタン、トゥルクメニスタンにまたがる)を中心としたティムール朝建築で花開く。
中央アジア出身のティムールがペルシアをも含んだ大帝国を打ち立てると、ペルシア建築文化を基にサマルカンド周辺で刷新された帝国文化が、ペルシア側に導入される。ティムール朝の中心地はトゥーラーン、大ホラサーンにあり、そこではセルジューク朝によるペルシア文化の復興・再編以来培われた様式や技法が基本となり、建築生産上の工夫に磨きがかかる。初期の頃には、ティムール帝国の首都サマルカンドを中心としたトゥーラーンの例が多く、15世紀になると首都がヘラート(アフガニスタン)に移ったこともあり、大ホラサーンの例が増え、現在のイランの実例としてはマシュハドのガウハル・シャード・モスク(1416-18年)が併設されたイマーム・リダー廟の複合体および、ハルギルドのギヤッシーヤ(1442-46年)などが著名である。
イラン中原の例としては、次世代のイスファハーンの宮殿の発端ともなったティムール朝初期のターラーレ・ティムーリー(図15)が残り、同地の大モスクにおいてもキブラ側ファサードにドゥ・ミナールが取り付けられた(図16)。
『算術の鍵』を執筆したカーシーの存在からも分かるように幾何学的な発展が顕著で、ヤズド周辺の地域で新たなるムカルナスの形式(星形を多用する)が培われた。イスファハーンのダルブ・イマーム(1453年)のファサードのタイルには、1970年代になって非周期性が証明されることとなったペンローズタイルと同様なパターンが使われる。北西イランのタブリーズのマスジディ・カブド(1465年)は、中庭をもたずに奥室をもつ特殊なタイプで、墓建築との共通性やオスマン朝モスク平面との関係を示唆する。
4.絢爛たるペルシア建築文化の醸造;西暦1500年から1750年
16世紀初頭から始まるサファヴィー朝時代は、ペルシア・イスラーム建築文化の絶頂期とも言える。サファヴィー朝の始祖が北西イランのアルダビールから発したことから、16世紀初頭の首都はイラン北西部のタブリーズにあり、南下しガズヴィンを経て17世紀初頭にイラン中原のイスファハーンを首都とするに至る。イスファハーンでは、旧市街の南西側に広大な広場(図17)を設置し旧市街のバーザール通りと新市街を接合、広場の西側を広大な宮殿域とし、南側のザーヤンド川を渡る直線の四分庭園通りがひかれ(図18)庭園都市として大きな発展を遂げる。
広場の周辺には秀逸な建築が残り、王のモスク(図19)はペルシア文化の復興・再編以来培われた様式や技法の集大成、聖職者長のモスクは小ぶりながら珠玉渾身の傑作、大門宮と八天宮、四十柱宮(図20)はカスピ海岸の木造技術を用いた世俗建築の秀作である。サファヴィー朝の建築の特色は、外観被覆に青を基調としたタイルで覆い、誇大な強調や単調な停滞がなく、空間と建物の連続性を円滑に進める工夫が盛り込まれる。例えば、王の広場とモスクのキブラ方向の調整や、浮かぶようなブルバスな大ドームなどにその片鱗を見ることができる。
王母の学院はイスファハーンにあり、マドラサ(図21 高等教育施設)、サライ(図22 中庭の周囲に2層の小室を並べた商館)、厩舎とバーザール(通り状商店街)が同梱して建設され、その美しさだけでなくイスラームにおける宗教建築の持続性を知ることのできる好例である。マドラサを維持するために他の3者からの利益がつかわれるというシステムで、イスラーム圏全域で用いられワクフと呼ばれる。
5.西欧文化への傾倒;西暦1750年以後
高度の建築文化を築き上げたサファヴィー朝は、18世紀半ばにはカージャール朝にとって変わられる。次の時代は1750年頃から始まり、特に19世紀になると今までと異なって西欧への視線が明らかとなる。カージャール朝はサファヴィー朝建築から脱皮する方策として、古代復興を推進した。テヘラーンのゴレスタン宮殿(図23)には円柱が使われ、アケメネス朝ペルセポリスの近くにあるシーラーズではペルセポリスの柱形式も好まれ、カージャール朝の王子が自分達を描いたサーサーン朝絵画の模写をサーサーン朝遺跡に付け加える(図24)。こうした現象の背後には、古代や柱への憧憬を通して西洋の新古典主義へと繋がろうという意図が含まれていたのではないだろうか。アーチの形も今までの尖頭アーチではなく西洋建築の半円アーチが意図的に使われる。また、同じくカーシャーンのアガー・ボゾルグ・マドラサのタイルには、今までなかった薔薇色がふんだんに使われ、花瓶から溢れ出るバラのモチーフが描かれる。ちょうどヨーロッパでは19 世紀初頭ナポレオンの妻ジョセフィーヌはバラに傾倒し、バラの品種改良が行われていた。20世紀になると若い建築家たちはエコール・デ・ボザールに留学し、直接西洋の新古典主義を移入するに至る。
9世紀から20世紀初頭に至る期間を五つの時期に分けて、建築の変化と、それを主導してきた為政者との関係を辿ってみた。土地が育んだ古代ペルシアの文化に、イスラームという宗教が上書きされるが、建築文化は伝統を取り入れ、さらに磨きをかけ、大ドーム、イーワーン、マドラサなどを通して、大きくペルシア以外のイスラーム建築へと影響を及ぼした。
書誌情報
深見奈緒子《エッセイ》「イランのイスラーム建築」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, IR.7.01(2025年8月25日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/iran/essay01