アジア・マップ Vol.03 | 日本
《総説》
べらぼう? ブラボー? ~今に息づく江戸の鍼灸~
1.医史学:文理融合の領域
文科省に端を発する理系偏重・文系軽視のいわゆる「文系学部廃止」論1)は、そこかしこで燻り続けています。苦節10年、肩身の狭い思いをしてきた文系学者(特に国文系)にとって、戦国と維新の二択だったNHK大河で、平安王朝文学の「光る君へ」と江戸庶民文学の「べらぼう」が放映される100週余りは、渡りに船のバブル景気といったところでしょう(でも残り半年…)。
鍼灸は伝統医学だから歴史を重んじて当たり前!と思われるかも知れません。しかし、母校(旧・明治鍼灸大学/現・明治国際医療大学)に日本初の高等教育機関の認可が下りたのは、曖昧模糊とした鍼灸の作用機序を科学的に解明するためでしたので、私のような文系人間に居場所はありませんでした。
なぜ理系に入学して文系に転身したのか? 高校まで「つぼ」という呼び方しか知らなかった鍼灸や指圧の施術点を、受業では「経穴」と書いて「ケイケツ」と発語するようになります(そのころ人気絶頂だった『北斗の拳』の「経絡秘孔」は、『秘伝少林寺拳法』[カッパ・ブックス1963刊]で開祖の宗道臣が使い始めた造語です)。しかし、患者さんは「つぼ」とおっしゃいますし、教員も学生も普段は「つぼ」を連発しています。「経穴」と「つぼ」、専門的な中国語と一般的な日本語の関係をご存知な教授は一人もいらっしゃらず、色々な辞書を引いても明確な答えは見つかりませんでした。素朴な疑問が科学の始まりですが、私の場合たまたま人文科学の扉が開いてしまったわけです(国内の医学部教育で「医史学」は「医学概論」の序章に過ぎないため、独立した「医史学」研究室は順天堂大学しかなく、収益とは無縁の医史学を志せば不遇な思いをするようです)。
2.「つぼ」と「坪」の初出
紫式部の『源氏物語』の文献初出が寛弘5(1008)年とされ、丹波康頼の『医心方』の編纂完了が永観2(984)年のことです。前者は文学の、後者は医学の、国風文化に育まれた傑作中の傑作です。国際日本文化研究センターの受託院生時代に薫陶を受けた山田慶兒先生は、鍼博士の康頼が本領発揮した第2巻の鍼灸篇において、「経脈説を排除」して「中国医学の大前提を取り払った」と指摘しています2)。これは書誌学の恩師である北里大学東洋医学総合研究所の医史学研究部長であった小曽戸洋先生の『医心方』研究3)を踏まえた説なのですが、国風文化が醸成されていく中で「気」の流れ道とされる「経脈」の存在を実用面から度外視したことが、「つぼ」誕生のきっかけであることは間違いないでしょう。けれど、山田先生は自明の言葉として「つぼ」を頻用されており、私の最大の関心事である古代漢語の和訳プロセスには踏み込んでおられませんでした。中国科学史の世界的権威ですら見逃してしまう「経穴」と「つぼ」の関係を知るには、「つぼ」の初出を探り当てなければ何も始まりません。
『医心方』自体は中国医学古典にみられる熟語の「孔穴」と表記していますから、康頼が鍼灸の施術点に「つぼ」を当てた張本人とは認められません(口頭での言い出しっぺかどうかまでは証明しようがありません)。①いつ? ②どこで? ③だれが? 問題の解明は院生の富田貴洋君と共に取り組み、鍼灸の世界に踏み入って35年の歳月を要して東京国立博物館の『五躰身分抄』4)が初出文献であることを突き止め、富田君が修士論文で公表するに至ったのです5)。
生西撰『五躰身分抄』第1冊・上巻・頭踊病
東京国立博物館所蔵(QA3423)( 研究情報アーカイブズ )
*トリミング・傍線・点線は筆者による
撰者・生西の経歴は詳しく分かりませんが、『五躰身分抄』と『喫茶養生記』(1214成)の内容には多くの共通点が認められるため、栄西(1141~1215)の直弟子ではないにせよ、その血脈に連なる僧医だったとみてよいでしょう。また、筑前の香椎宮の学頭を任ずる前は、豊前は宇佐の向野郷に棲居していたようです。古記録には、寛元4(1246)年に領掌(『大日本史料』)した先祖代々の田畑と屋敷を建長6(1254)年に愛明朝臣へ譲与(『大分県史料』)したとあります。九州で社格筆頭の宇佐神宮(弥勒寺)から準位の香椎宮(建久報恩寺)への下向転籍が、仮に学頭職への招聘が理由だったとしても、いきなり『五躰身分抄』を書き上げられないでしょうから、その完成は『続古今和歌集』が勅撰された文永2(1265)年前後、栄西が歿して半世紀くらい後の話ではないかと睨んでいます。
中世の博多は日宋貿易の玄関口で、最新の文化の発信地でした6)。平頼盛は香椎湊にも貿易船の出入を許し、栄西は二度目の入宋時に菩提樹を香椎宮へ贈り届け、帰国後に建久報恩寺が植樹地に建立されたことは有名です。当地の先進性は医学も例外ではありません。生西の名こそ見られませんが、京都の公家たちは九州から医者を頻繁に招いて診察を乞うていた記録が残されています7)。
『五躰身分抄』の上巻は、頭踊病(片頭→逆の片頭→面目と腫れて死に至る病とあるので単純ヘルペス脳炎と思われます)になったら頭部の7ヶ所に灸を据えよと指示していますが、その灸所の組み合わせを「草ツホ」と総称しているわけです。「草」は「瘡」の当て字ですが、注目すべきはカタカナの「ホ」の字形です。いま現在は「保」の旁から「木」を抽出した「ホ」が定着していますが、平安末期に橘忠兼が編んだ『色葉字類抄』のような古辞書は旁の「呆」から「一」と「八」を除いた「」というプラカードのような形だったのです。現存唯一の『五躰身分抄』の東博本は天保4(1833)年の写しで、その成立から560~570年も経過しているとはいえ、幕府医官の坂立節が尾張藩医の浅井貞庵の蔵する古写本の旧態を温存するべく臨摸したものです。そうすると、本書の「ツ
」は「つぼ」の初出であるばかりでなく、古い「
」の用例としての価値も有することになります。
以上から、『医心方』の「経脈」排除から凡そ3世紀後の①13世紀の中頃に、②筑前国の香椎宮で学頭を任じた③生西が「つぼ」と書き遺しているところまで分かりましたが、『五躰身分抄』巻頭の「耆婆 扁鵲 忠明 雅忠 等伝」についてもう少し触れておきましょう。釈迦の侍医の耆婆は仏教医学の代表、伝説の名医の扁鵲は中国医学の象徴なのですが、丹波康頼の孫の忠明(990~?)と曽孫の雅忠(1021~88)の名も連ねられています。そうすると、康頼の子孫が「つぼ」と称していた可能性も生じてくるわけですが、今のところ文献的証拠の発見には至っていません。
次に、なぜ④和俗の呼称に「つぼ」が当てられたのか、入学当初から私が抱き続けてきた疑問について状況証拠から推理してみましょう。「つぼ」はホクロのように目に見える存在ではありませんので、体表面の位置関係を頭に叩き込んで指先で探り当てていきます。「つぼ」探しは1寸幅を基準としていますが、各人各様の肉体を同一の定規や巻尺で計れば誤差が生じてしまいます。そこで、各人の手の親指の横幅を1寸と定める簡便法が考案されました。唐代きっての名医・孫思邈が『備急千金要方』(652成)で提唱した「同身寸法」は、『医心方』に採用されて以来、鎌倉後期の官医・惟宗具俊の『医談抄』に「孫真人ハ大拇指ノ節ノ横ナル文ヲ為一寸」、南北朝期の僧医・有隣の『福田方』(1362序)に「孫思邈ハ手ノ大母指ノ節ノ横文ヲ以テ一寸トス」と継承されていきます。いっぽう、和語の「つぼ」は『日本書紀』(720成)の時代から錦・沙羅・革といった平面状の貴重品の「一寸平方(1寸×1寸)」を表す単位として使われてきました。中国伝来の「同身寸法」と日本固有の「一寸平方」を意味する和語が溶け合って、鍼灸の施術点を「つぼ」と呼ぶようになったと推し量られます。加えて、鎌倉期から腋の下(腋窩)のことを「腋壺」といい(『古事談』1212~15頃)、鎧を着た時の腋の隙間も「腋壺」といっていた(『源平盛衰記』14C前)ことも一定程度の影響はあったと思います。
ところで、「つぼ」を漢字に再変換しようとすれば、「壺」か「坪」が即座に思い浮かぶのではないでしょうか。大きく陥凹している腋の下には「壺」が使われましたが、鍼灸の「一寸平方」には「坪」が当てられたのです。国立国会図書館所蔵の『へんじやく(扁鵲)流針立用』は宝永6(1709)年の写しですが、天文2(1533)年の本奥書に「右、便丈より針灸坪しるしつたへ、ひでんもあらハし置候処に、野田終理祐昰光、西村弥左、天文貮年、是迄書記」(筆者ルビ)とあるのが漢字変換された「坪」の初出となります。
話は前後しますが、「つぼ」が使われ出した鎌倉中期から南北朝期には、「矢を射る時に狙い定める所」すなわち「的の中心」を「やつぼ(矢坪)」と称していました(『平家物語』4;13C前/『太平記』26;14C後)。それを勘案すれば、「つぼ」には親指の腹(拇印)くらいの「術野(オペレーティング・フィールド)」という広義の意味に、底面3分(6~7㎜)の艾(燃草)を据えるべき「施灸点」および直径1厘(0.2~0.3㎜)の細い鍼を立てるべき「刺入点」という狭義の意味が込められていることになります。和歌の掛詞さながらの「つぼ」のダブルミーニングを知ることは、医史学の解明に止まらず臨床力の向上にも繋がるのです。
3.「べらぼう」な「灸罰」8)
「光る君へ」から「鎌倉殿の十三人」にかけての時代の話はこれくらいにして、次に「べらぼう」な鍼灸の黒歴史にフォーカスしたいと思います。今夏は12年に一度の都議選と参院選が重なる年回りですが、疑惑の政治家が落選したり与党が惨敗したりすると、有権者に「熱いお灸を据えられた」というコメントがメディアを飛び交います。ようするに、「お灸」には懲罰の意味合いもあるわけです。こうした風潮に対して、懲罰の意味で「お灸を据える」を使うことを2000年に放送禁止(注意・自粛・問題)用語に指定しようとする動きがありました9)。けれど、法的拘束力のない放送事業者の表現の自主規制であり、2008年以降は視聴者や公権力からのクレームにより適宜定められるようになったとはいえ、業界団体の力不足で実現に至っていないのが実情です。
およそ医療行為とは正反対のネガティブなイメージが定着しているのは、経済成長期以前の田舎には「お灸」による体罰が残存していたからです。全くの過去の因習かといえばそうではなく、つい2年前にも小学生の兄弟に繰り返し「灸罰」を行った実の母親と内縁の男に実刑判決が下されたように10)、ゾンビのごとく息を吹き返しては世間を騒がせるのです。
戦前の小説家・長谷川時雨(1879~1941)の随筆「お灸」には、「灸罰」の実態が生々しく綴られています。「お灸」好きの祖母が「あたし(時雨)にも日に二三度すゑなければ承知しなかった。弱いからといって―お行儀が悪いといって―ハイと言わなかったといって― だが、あたしの弱かったのはお灸のせゐだと今では思ってゐる。なぜならば、膏汗と精根を五ツ六ツのころから絞りつくしてゐるのだ。…両方の人差し指の根もと、足の中指の根もと、おへその両ワキのは動くので焼けあとが大きかった。背中は八ツ目鰻の目のやうだといはれた」と灸罰の悲惨さを回想しています(『不同調』所収;1928刊)。
ルース・ベネディクトの不朽の日本論『菊と刀』(1946原著・48翻訳)の第12章「子どもは学ぶ」において、「お灸」は「日本の子どもが受けるもっとも厳格な罰」と酷評され、「子どもはいたずらをすると必ず罰せられる、ということを悟るようになる」と締め括られますが、実は「灸罰」は応仁の乱の時代にまで遡る根の深い問題なのです。
足利学校で易学を学んだ柏舟宗趙(1416~95)は、『周易抄』(1477成)第5巻で室町中期の「小児灸」の様相を述べています。第51卦の「震為雷」で雷から連想される恐怖について解説するのに、「ワラウベ(童)ニ一人ニヤイトウ(焼処)ヲスレバ、余ノワラウベ(童)モ恐ルゝ様ナゾ」11)と、「小児灸」を引き合いに出しています。見せしめの恐怖は、「小児灸」の喩え話で皆が頷くほど日常的な行為だったことになります。このくだりを読んだ私は、子供の頃のマンガやアニメの主人公がバズーカ砲のような注射をされるシーンに恐れおののいたのを思い出しました。大人にとっては普通の注射でも、子供にとっては刺痛とともに特大の注射として脳裏に焼き付きます。「お灸」を「やいと」という理由は割愛しますが、いくら大人が予防のため治病のためと強弁しても、子供にとっては体罰以外の何ものでもないのです。
宋代の宮廷画家・李唐の作とされる台湾・故宮博物院所蔵の《艾灸図》12)が活写するように、発祥地の中国でもお灸の熱さは我慢するものという通念が浸透していました。日本でも、鎌倉末期の『渋柿』所収「文覚上人消息」の「あつきやいとを堪へてやけば、病は愈ゆる也」に始まり、新井白石の『折たく柴の記』(1716頃)上の「たとへば灸治などし給ふにも、灸小しきに、数すくなきときは、無益の事也」と、ごく当たり前のことと認識されていました。そうはいっても、日本人の無類の「お灸」好きには中国人も驚きを禁じえなかったようです。清の朱士端(1786~1872)は『春雨楼叢書』(1862~65刊)2巻の「異国の灸治」に、「朝鮮の人、疾病なき時は、灸するに及ばすと云う。一人として灸の痕あるはなし。唐人も十人が十人ながら、三里(膝下)及び風門(項下)などに灸痕あるを見ず。此の故を問えば、疾病なき故に灸するに及ばずと云う。琉球人は、十人に九人は灸痕あり。……只、三里に多く見るなり。しかれども日本人の如く総身にはなし」と仰天しているのです。このような風土では、子供に「お灸」が強要されるのは当然で、俳諧『糸瓜草』(1661)5・秋に「むしる子を ふうとておどせ やいと草」とあるように、そんな悪さするとフゥ~ッてするよ(息を吹きかけた熱い「お灸」するよ)!と脅かすだけで暴れん坊が大人しくなったわけです。「小児灸」は「灸見舞」と呼ばれる通過儀礼となっていたようで、雑俳『柳多留』(1780)15の「あくたいに へそをかかへる きう見廻」は、親から今にも「お灸」されそうな子供が泣き喚いて悪態をついている様を、見舞いとは名ばかりの冷やかしに来た親戚一同が抱腹絶倒している場面を詠んだものです。両親も親戚も幼少期に「お灸」された体験があるからこそ、それを思い出して大笑いしているわけです。
子供への「お灸」を有り体に描いた浮世絵が、五風亭貞虎の《東都七福詣の内・金杉毘沙門》(1830~42頃)です。金杉毘沙門こと芝の正伝寺は正五九月の初寅(虎は毘沙門天の僕)の縁日が盛大で、この賑わいが風習化した「お灸」を喚起したのでしょう。毘沙門天が御座します天敬城は、幸福と財宝に溢れて日に3回も焼き捨てていると信じられてきました。我が子のために験を担いだ親は、せめて年に3回だけでも「お灸」で病魔を焼き殺してやろう信じていたに違いありません。頑なな因習、恐るべし!
絵解きしますと、素知らぬ顔の母親は男児の体を両足に挟んで逃げられないようにし、左手でヘッドロックをかましながら右手首を掴み、人差し指の付け根(二間・三間の穴)に線香で「お灸」をしています。きっと天狗のお面や纏のおもちゃはご褒美でしょう。ところが、脇坂義堂(?~1818)は庶民を教化する心学者として、『やしなひ草』(1789刊)に理想の「お灸」の風景を載せ、「やいとをすやれ 孝行者じゃ 親もよろこぶ 身も無事な」という七七七五調の都々逸を添えています。この挿絵は手嶋堵庵(1718~86)の『手嶋先生いろは歌』の「や」の絵札を精緻にリライトしたものです。男児は礼儀正しく「母上、どうかお灸を据えてください」とばかりに背中を向けて騒ぎも涙もせずにジッとし、父親は「さすが男子じゃ」と言わんばかりに抱き寄せ、左手の人差し指と中指で灸所を挟みつつ押圧して灸熱を緩和しています。「お灸」されているのは、肩甲間部の「散気」といわれる疳の虫の「つぼ」です。浮世絵の半世紀前は、線香を使わずに「灸箸」と呼ばれる火箸で艾を摘み、灯明で着火してから据えていました。
両作を並べてみると、強制的なリアルと自主的なプロパガンダのギャップが際立ちます。
4.「ブラボー」な芭蕉の三里灸
黒歴史を直視することは大切ですが生産的とはいえませんので、「お灸」の「ブラボー」な未来志向の話題に移りたいと思います。最近、NHKでも取り上げられましたので「モクサ・アフリカ・プロジェクト」13)をご存知の方もいらっしゃるかと思います。足の三里の「お灸」で結核の蔓延を抑止しようというアフリカ支援策ですが、貧困に起因する感染症の撲滅に、「お灸」はアジアからアフリカへと伝播しはじめているのです。
三里の「つぼ」は、松尾芭蕉(1644~94)が『奥の細道』の序文に「股引の破れをつづり、笠の緒付けかへて、三里に灸すゆるより、松島の月まづ心にかかりて…」と綴ったことでも知られています。ここに、渡辺華山(1793~1841)が描いた《芭蕉翁座像》(賛文は割愛)と、根付師の北秀が柘植で彫った《芭蕉三里灸図》を並べてみました(共に筆者所蔵)。肖像はともかく、印籠を帯に提げるための根付には銘以外の文字情報がありませんので、それを見た全員が「あっ!芭蕉さんの三里の灸」と瞬時に分かるモチーフだったことになります。それくらい、「三里の灸」による養生法は広く民間に浸透していたわけであり、朱士端が驚いた日本人の「お灸」好きを裏付ける傍証ともなります。
根付をご覧ください。芭蕉は左を立膝にして左手で膝頭を押さえ、右手の人差し指と中指の間の三里に「お灸」しています。そして、「お~っ 効く~っ 気持ちいい~っ」と何とも言えない笑みを浮かべています。右の足元には、艾を載せた小皿と「灸箸」が1組(2本)置かれています。芭蕉が生きた江戸前期は「灸箸」の時代ですので、当時の風俗を忠実に再現していることが分かります。
5.小結
いよいよ鍼のエピソード…と思いましたら、「お灸」の「べらぼう」面と「ブラボー」面を紹介したところでページが尽きてしまいました。来年の大河は戦国の「豊臣兄弟」に返り咲きますので、「太閤様 そろりとはずす 灸の蓋」(『大花笠』[1716〜36])という雑俳を紹介しておきましょう。これは、たとえ天下人であろうが灸点の膏薬(瘡蓋)を剥がすのは躊躇するものだ、豊臣滅亡は因小失大(些細な判断ミスの累積)だと揶揄したものです。
まだまだ面白い話は尽きません。「お灸」の根付の現存数は多く、閻魔や仁王が顔をしかめて悶絶している作品は、いかに屈強だろうが熱いものは熱い、今にも根を上げそうな自分を鼓舞するお守りだったのでしょう。さきほど割愛した「やいと」は「やけど」と同じ「焼処」の訓読みですが、皮膚火傷とは真逆の医療行為を意味するのにはちゃんと訳があります。ふだん口にしている「図星」は、経絡図のスラングの「図法師」を語源としています。ほんらい「皮切り」は、最初の「お灸」を意味する言葉でした。鍼された快感を表す「響き」は、江戸前期に登場した日本特有の言い回しです………次の機会に乞うご期待!
【文献と注】
1)吉見俊哉、『「文系学部廃止」の衝撃』、集英社(新書0823E)2015年
2)山田慶兒、「日本医学事始-予告の書としての『医心方』」、『歴史の中の病と医学』3~33頁、思文閣出版、1997年
3)小曽戸洋、「『医心方』」、『中国医学古典と日本-書誌と伝承-』532~585頁、塙書房、1996年
4)東京国立博物館デジタルライブラリー / 五体身分抄 : 上
https://webarchives.tnm.jp/dlib/detail/5426
国書データベースは「ごたいみわけしょう」と読むが、本稿では天台僧・源信(942~1017)に仮託された鎌倉初期の『真如観』の「ごたいしんぶん」という読みに従う。ちなみに『真如観』と『五躰身分抄』は「体」を「躰」と表記する共通点もある。
5)富田貴洋、「「五体身分」系医書の研究 -中世日本医学史の補完-」、森ノ宮医療大学修士論文、2023年
6)伊藤幸司、『中世の博多とアジア』、勉誠社、2021年
7)新村拓、『日本医療社会史の研究-古代中世の民衆生活と医療-』、法政大学出版局、1987年
服部敏良、『王朝貴族の病状診断』、吉川弘文館、2006年
8)舟木宏直、「罰としての灸の認識の形成―明治維新以後の学校教育による影響―」、『社会鍼灸学研究』2019年(通巻14)号、29~38頁、2020年
9)「お灸をすえる「本来の意味で使用を」東京の業界団体が声明文」、 『読売新聞』2000.12.19.付。記事には「「お灸をすえるという語句を、本来の意味でのみ使ってほしい」。社団法人東京都はり・灸・あん摩マッサージ指圧師会(東京都千代田区)が十八日、厚生省で会見し、こんな声明文を出した。一部のスポーツ新聞が今月十五日、女性のスカートの中を盗撮したタレントの田代まさしさん(44)の記事で、「東京簡裁から略式命令 お灸五万円」という見出しをつけたのがきっかけ。同会では「お灸は病の体質を健常に戻す治療の手段である。それがややもすると真意ではなく、懲らしめる方法という意味で使われている。そういう使われ方をすると、仕事に携わる人が軽率な扱いを受けるし、患者も極めて不快である」とし、すでに新聞社側に改善を申し入れている。しかし、広辞苑などの辞典でも「痛い目にあわせる。強く叱責する意」と書かれている。同会では出版社に対しても、今後、執行部に諮った上で改善を求めていくという」とある。
10)「肌に直接お灸は「暴行」母親らに実刑「社会的に容認できず」」、『朝日新聞』2023.07.09付
11)国立国会図書館所蔵『周易抄』5巻(WA16-74-5)48丁裏
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100398063/49?ln%E3%80%80=ja
12)台湾故宮博物院所蔵『灸艾図』 国宝鑑賞 2024-II
https://theme.npm.edu.tw/Spotlight%E3%80%8011304/ja
13)モクサアフリカ日本語サイト
https://www.moxafrica-japan.com
謝辞:国立国会図書館のWEB未公開の文献複写を遂行してくださった立命館大学衣笠研究機構客員研究員の関屋成彰先生に感謝の意を表します。
書誌情報
長野仁《総説》「べらぼう?ブラボー? ~今に息づく江戸の鍼灸~」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, JP.1.03(2025年00月00日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/japan/country02