アジア・マップ Vol.03 | 日本

《人物評伝》
西園寺公望 ー「変えられないタテマエ」と理想のあいだで

吉田武弘(立命館大学 授業担当講師)

はじめに
 西園寺公望(1849~1940)は、明治期から昭和戦前期にかけて活躍した政治家である。公爵にまで陞(のぼ)った名家出身の政治家として、立憲政友会の第2代総裁となった政党人として、2度にわたり総理大臣を務めた桂園時代の立役者として、薩摩・長州出身者以外から出た初めての、唯一の(さらには最後の)元老として、彼の名は広く知られている。その生涯を通じて要路にあり続けた彼の人生は、近代日本においていかなる意味をもったのだろうか(以下、とくに事実関係については〔立命館大学西園寺公望伝編纂委員会1990‐1997、岩井2003、伊藤2007〕を参照)。

1.劇的なる生涯
 西園寺の人生は、約90年の長きにわたる。しかも、その生涯は、彼を見るだけで明治維新から昭和戦前期に至る中央政治史をカバーできそうなほどに劇的である。

 西園寺公望は、1849年12月7日(嘉永2年10月23日)に生まれた。父は徳大寺公純(きんいと)、母は末弘斐子(あやこ)、幼名を義丸という。2歳のときには、徳大寺家と同じ清華家にあたる西園寺師季(もろすえ)の養子となっている。そんな西園寺が表舞台にあらわれるのは、まさに明治維新のときであった。王政復古によって新たに設けられた参与に就任し、山陰道鎮撫総督、東山道第二軍総督、北国鎮撫使として、自ら兵を率いる形で戊辰戦争に参加し、その後には新潟県知事に任じられている。20歳で東京に出た彼は、開成学校に学ぶこととなった。この頃から、将来の留学も視野にフランス語を学び始めたという。許可なく京都に戻ったことを咎められて謹慎処分を受けたり、自邸内に家塾・立命館を設けたりしたのもこの時期である。この家塾の名が、やがて西園寺の秘書であった中川小十郎が創設した学校の名として受け継がれていくことは、よく知られる通りであろう。

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1867年、若侍姿の西園寺(出典:立命館 史資料センター」)

 1870年12月、念願かなってフランスへの官費留学生として出発した西園寺は、翌71年3月27日、パリに到着した。しかし、そのときのパリは、歴史と文化の香り漂う都などと気楽にいえるような場所ではなかった。彼が到着したのは、普仏戦争の敗戦とその後における革命の不穏な空気が漂う都市であった。西園寺が到着した翌日には、市庁舎でコミューンの宣言と祝典が行われている。かのパリ・コミューンのはじまりである。彼は「賊」とみなしたコミューンに冷やかな目を向け、その鎮圧を喜んだが、だからこそ感じるところも多かったものと思われる。国家が統合力を失うとはいかなることなのか、激高した民衆がいかなる存在となり得るのか、おそらくそれは、西園寺の国家観、民衆観に大きな影響を与える経験であった。

 こうした混乱を超えて、1875年、パリ大学法学部に初めての受講登録を行った彼は、苦労の末、1878年5月に第2学年修了資格を得た。一方で彼の学びは大学のなかにのみあったわけではない。なかでも、西園寺に強い影響を与えたされるのが、自邸でパリ大学法学の復習教師をしていた法律家エミール・アコラースである。後に、第2の教育勅語を構想した際、西園寺はアコラースが重んじた「博愛」(fraternité)や「親愛」(affectioin)に基づく平等な人間同士のつながりという考え方を、左右の人々同士における「博愛」と上下(天皇と臣民)の間における「親愛」という2つの「親しみ」として読み直し、この発想を取り入れようとしたという〔眞杉・藤野・十河2021〕。西園寺がアコラースからどの程度の影響を受けたのかについては意見が分かれるが、師の思想は変形しつつも彼の中に息づいていたといってよかろう。かくして、西園寺は、1880年に帰国する。彼は31歳となっていた。

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1871年、フランス留学中の西園寺(出展:立命館 史資料センター)

 帰国した西園寺は、明治法律学校(後の明治大学)で講師を務めたり、留学時代に知り合った中江兆民らも巻き込んで東洋自由新聞社を立ちあげたりと、様々な活動を展開する。それぞれ興味深いが、やはりこの時期において重要なのは、伊藤博文との関係を深めたことであろう。2人の関係がとくに深まったのは、伊藤の憲法調査に西園寺が随行したときであったという。こうして構築された関係は、西園寺に政治家としての道を開いていく。その後、彼はオーストリア公使、ドイツ兼ベルギー公使などを経て、1894年10月、病に倒れた井上毅に代わり、第2次伊藤内閣の文部大臣として初入閣を果たす。こうして彼は、政治的キャリアに踏み出していった。

 そんな西園寺にとって、大きな転機となったのが、1900年、伊藤が創設した立憲政友会への参加であった。すでに伊藤の腹心ともいうべき立場にあった彼は、新党の準備段階から深く携わり、結党後には最高幹部である総務委員に就任している。そして1903年7月、伊藤が枢密院議長に就任するため総裁を辞すと、西園寺がその座を引き継いだ。かくして、彼は衆議院第一党の指導者となった。それは、彼が伊藤の政治的後継者として、政界の主役と化したことを意味していたのである。西園寺、54歳のときであった。

 ところで、西園寺が総裁に就任した時期、日本にとって最大の問題といえば、対露関係の緊迫である。日露開戦は目前に迫っていた。西園寺は、対露強硬論を快く思っていなかったとされる。しかし、緊迫する日露関係を眼前に、大政党を率いる総裁としての彼が示した方針は、個々の政策はともかくとして、軍事や外交をめぐる大方針に関する限り、政府を援護することだった。とくに1904年2月、両国間に戦端が開かれてからは、党大会で戦費負担への協力を訴えるなど、自身の立場から戦争遂行に尽力している。一方、戦時下にあって、衆議院第一党の協力を最も必要としたのは、ほかならぬ政府であった。しかも、その必要性は、徐々に戦争の終わりが見え始めた時期からいよいよ高まる。戦争は「終わらせ方」が最も難しい。桂太郎首相は、日本の優位下で講和が結べたとしても賠償金の獲得など国民が期待する条件の確保は厳しいこと、だからこそ国民の不満が高まるであろうことを予期していた。国民レベルの不満と大政党が結びつけば、いよいよ収拾は困難となる。そこで桂は、西園寺への政権移譲を密約して政友会の協力を求め、同会の実力者・原敬らと交渉を進めた。そしてこの約束は戦争終結後に履行される。1906年1月6日、西園寺内閣が成立した。西園寺は、ついに首相となったのである。57歳のときであった。

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1906年、第1次政権下の西園寺(出展:立命館 史資料センター)

 こうして西園寺と桂、いいかえれば、政友会と官僚閥との間で政権が往復する時代(桂園時代)がはじまった。もっとも、両者の関係は決して円満なものだったわけでも、安定したものだったわけでもない(たとえば〔内藤2005〕)。とはいえ、この時期がある程度の政治的安定をもたらしたとはいえる(たとえば〔村瀬1997〕)。「民意」は、ある程度尊重しつつも「激発」させないよう政党がコントロールし、政界の中心勢力同士が妥協と同意の下に大方針を共有する。そして、こうした関係のなかで、政党の力をさらに伸ばしていく。西園寺の狙いは、このあたりにあったのではないか。

 しかし、1912年12月、第2次西園寺内閣が二個師団増設問題によって退陣し、一度は宮中に入った桂が第3次内閣を成立させると、一連の事態に不満を爆発させた人々は、政党とも結びつきつつ、第1次護憲運動を巻き起こした。西園寺率いる政友会もまた、最終的にこの運動へと加わっていく。とはいえ、西園寺が護憲運動に最後まで付き合ったわけではない。彼に対して、大正天皇から護憲運動の収拾(より具体的には内閣不信任上奏決議案の撤回)を求める勅語が下されたからである。

 これを受け西園寺は、一応、政友会の幹部や議員たちに向けて勅語の趣旨に沿った演説を試みたが、それ以上強いて党員たちの行動を抑止しようとまではせず、自身がそこから距離を取るにとどめた。いわゆる西園寺の「違勅(天皇の命に反すること)」問題である。果たして彼は、こうした事態をどのように受け止めたのだろうか。そもそも、議院外における示威行動はともかく、衆議院が不信任案を審議すること自体は、あくまで合法である。それを、政府が不当に、しかも勅語まで利用して抑止する行為を西園寺がよしとしたとは考えにくい。実際、西園寺は「違勅」をそれほど深刻にとらえておらず、むしろ辞任を考えはじめていた政友会総裁を離れるために利用したともいわれる〔伊藤2007〕。しかし、この問題は、彼の意図を超える意味をもっていたというべきだろう。なぜならそれは、天皇による「命令」が必ずしも貫徹されるわけではないということを明るみに出す事件だったからである。このような事態が繰り返されれば、天皇の権威が揺らぐことは避け難い。事実、この事件以後、天皇を政局に巻き込む行為は、従来以上に戒められていった〔吉田2010〕。その意味で、護憲運動は、天皇制という視座からみても大きな転換点だったといえるのではないだろうか。

 さて、1914年6月、西園寺の政友会総裁辞任が承認された。後任は原敬である。とはいえ、彼には、早くも新たな地位が用意されていた。いわゆる元老としての役割である。すでに第2次政権の退陣時、西園寺には将来にわたって天皇を「匤輔(きょうほ) 」(非があれば正し、及ばざるを助ける)するようにとの勅語が下されていた。いうなれば元老の証である(もっとも、西園寺が本当の意味で元老として扱われるのは第2次大隈重信内閣の後継首相選定時からともいう〔伊藤2007〕)。以来、死去するまで、彼は元老としての役割を果たしていくことになる。

 しかも、西園寺が元老に列せられた時点で、すでに高齢に達していたほかの元老たちは、それから10年ほどの間に次々と鬼籍に入っていった。元老だけではない。西園寺が首相を務めた時代にあっては、ときに激しく反目したものの、なお後継総裁の座を託し、元老として首相に押し上げた原敬もまた凶刃に倒れていた(原は西園寺からみて、将来の元老たり得た人物でもあったという)。かくして、1924年、松方正義の死去により、ついに西園寺は唯一の元老となる。元老としての西園寺については章をあらためるが、すでに74歳を迎えた彼の人生が、なお前途遼遠であったことだけは間違いあるまい。

2.元老・西園寺と帝国日本
 西園寺を論じるうえで欠かせないのが、「最後の元老」としての一面だろう。そこで、元老・西園寺を考えるためにも、まず元老という存在について概観しておきたい。 元老とは「憲法その他の法令にもとづかない政界最長老の称」とされる(『国史大辞典』)。法令によって定められた役職の場合、在任者は職務に伴う権限を行使し、職を去れば当然その権限を失う。これに対し、時々における職位とは直接関係なく、優諚(ゆうじょう)などの形で示された天皇からの信頼に基づき、あくまで個人の資格によって様々な重要事項に関与する存在、それが元老である。

 思えば、元老ほど帝国日本の政治的特徴をよく示す存在はいないだろう。日本は、明治維新によって、天皇を国家意思の最終決断者(後の明治憲法風にいえば万機の総攬者)へと担ぎ上げることで、急速な改革を成し遂げた。しかし、だからこそ、維新の延長上にあった帝国日本には「天皇が最終決断者である」といういわば「変えられないタテマエ」がつきまとい続けることとなる。その一方で、天皇には国家統合の中心ともういうべき役割も求められた。こうした体制を守っていこうとすれば、天皇は「誰もが担げる存在」であり続けなければならない。問題は、その要請が最終決断者・天皇と矛盾しやすかったことだろう。政治的決断は、ほとんどの場合、一種の「汚れ仕事」である。いかなる決断であろうとも、必ず一定の反対者を生み出してしまう。いずれかからの恨みをかってしまう。恨みの矛先を向けられる事態(戦前風にいえば「怨府(えんぶ)となる」こと)は、「誰もが担げる存在」にとっての大敵である。ゆえに、天皇が決断者であるというタテマエはあくまで守りつつ、一方で責任を伴う実質的政務は、輔弼者と呼ばれる代行者に委ねるほかなかった。だからといって、単独の輔弼者に国事をまとめて委任するというわけにもいかない。誰か一人が実権を掌握すれば、天皇を「飾り物」(「虚器」)にしてしまうからである。そこで選択されたのが分権であった。天皇が有する広大な大権を分割したうえで、それぞれの分野に異なる輔弼者を設けたのである。こうして帝国日本の政治体制は、分権的性質を帯びることとなる。しかし、それでも通常の輔弼者では、カバーしきれない領域は残された。なぜ、元老の存在が帝国日本の政治的特徴を考えるうえで象徴的なのか。それは彼らが、こうした領域を輔弼する存在だったからにほかならない。

 それでは、元老は具体的にいかなる部分を輔弼したのか。とくに、西園寺が元老を務めた時期に関していえば、その最たるものが総理大臣の実質的選定であった。今日でも、首相を選定する際に、強い影響力を及ぼす実力者を称してキングメーカーという。元老は、いわば帝国日本のキングメーカーであった。しかも、元老による推挙は、本人が辞退しない限り、ほぼ確実に実現される。その影響力たるや絶大であり、だからこそ元老に対しては、ときに様々な批判や怨嗟が向けられることとなった。しかし、それは天皇に向きかねない攻撃を彼らが肩代わりしたということでもある。いわば、天皇を政治責任から守るための(その意味で天皇制を守るための)最後の砦こそ元老にほかならなかった。そして、おそらく西園寺は「最後の元老」だったからこそ、こうした役割に、最も自覚的たらざるを得なかったのではないだろうか。

 唯一の元老となった後の西園寺を評する際、しばしばキーワードとされるのが「公平」や「中立」(というイメージ)である〔伊藤2002、村井2005〕。たしかに、彼個人への不満がそのまま元老という存在自体への批判に直結する状況にあって、西園寺が「公平」なイメージの醸成に腐心する必要があったであろうことは、想像に難くない。しかも、西園寺が唯一の元老となった時期、日本政界は大きな転換点にあった。1924年6月、第2次護憲運動を経て第1次加藤高明(護憲三派)内閣が成立したものの、以後も政党内閣を連続させていくべきなのか、仮にそうするとしても、政党政治はいかなるルールによって律されるべきなのかが問われた時期だったからである。そしてそれは、実際に政党内閣が連続する時代(政党内閣期)となった後においても、繰り返された問いであった。このような情勢下にあって、西園寺にはとくに2つの意味での「公平」が求められたと思われる。まず、各政党からみての「公平」性である。いかなるルールに基づいて首相選定を行うにせよ、各党から一定の信頼を確保しておくことは不可欠であった。たとえ元老の判断であっても、それが正当ではないと目された場合、護憲運動のような事態が起こり得ることは、すでに実証済みだったからである(たとえば、第2次護憲運動の契機となった清浦奎吾内閣の選定は、西園寺が主導している)。だとすれば、特定の政党にばかり肩入れするわけにはいかない。実際、元老に列した当初、「政友会内閣主義」ともいうべき態度を取っていた彼だが、徐々にこれとは異なる位置に立つようになっていった〔村井2005〕。こうした変化は、政友会と並ぶ大政党・憲政会への評価が好転していったことにも因るだろうが、同時に彼の立場がそうさせたものともいえよう。そしてもう一つは、政党内閣以外の選択肢を模索する人たちからみての「公平」性である。政党内閣期を含め、非政党内閣を模索する動きは絶えなかった。これらの動きを制御する意味でも、西園寺はときに政党内閣が決して自明ではないかのようにふるまい、こうした勢力の信頼をつなぎとめておく必要があったのである。

 しかも、西園寺の態度には、単に彼自身の権威や権力基盤を守ることを超えた意味があったように思われる。西園寺がその影響力を保つ限り、様々な策動は、主として彼の方向を向いて行われやすい。他面から見ればそれは、これらの運動が、直接天皇(摂政)や宮中に向かいにくいことを意味していた。西園寺にとって、こうした状態を保つことは、極めて重要な課題だったように思われる。当該期の宮中では、政党内閣を容認しつつ、一方で宮中要職、さらには天皇(摂政)の政治的能動化を促し、政党がもたらす弊害(「党弊」)を抑える役割を宮中が担おうとする動きが活発化していたからである〔十河2024〕。こうした動向は、西園寺からみて極めて危険なものであった。天皇(摂政)が直接政局に関与すれば、いずれかからの恨みを買うことは避け難かったし、その意向が実行されない場合、天皇権威の失墜につながりかねなかったからである。第1次護憲運動において西園寺自身が招いたいわば「違勅の罠」は、やはりここでも大きな影響を及ぼしていた。だからこそ、自身の政治的求心力を保ち、政治的策動のベクトルを元老に向けさせることは、彼にとって天皇や宮中を守ることにほかならなかったのである。こうした意味で西園寺は、「人格化されたルール」〔升味2011〕たることを自ら望んだようにすら思える。

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撮影時期不明、西園寺(右)と中川小十郎(左) (出展:立命館 史資料センター)

 元老・西園寺は、こうした複雑な条件に対応しつつ、しかも自身が思い描く方向へと政界を導いていくことに挑戦した。すなわち、政党内閣(制)の政治的慣習化である〔永井2003、伊藤2005、村井2005、2014、十河2020、2024〕。こうした状態を創り出すことは、彼自身が注力してきた政党政治の発展を促すのみならず、天皇の政治的役割を実質的に限定し、無答責の位置におくことにもつながるはずであった。実際、西園寺がこだわった「多数党政権論」に基づくものとはいかなかったにせよ〔小山2012、十河2020〕、政党内閣が連続する時代はたしかに実現した。それが、西園寺の老練なバランス感覚と政治指導に多くを負っていたことは間違いあるまい。

 しかし一方で、西園寺がこだわった「公平」な態度は、大きな問題を呼び込むことにもつながった。なぜならそれは、「政権交代の不確実性」を生じさせるものでもあったからである〔有馬2002〕。すなわち、西園寺の決定次第で政権のあり方が左右されうる体制と、彼の意向が多様に解釈可能な状況は、かえって様々な策動を活性化させることにつながった。西園寺が政党政治の安定と発展に強いこだわりをもっていたにせよ、同時代の人々はあくまで主観的に彼の意向を解釈していったのである。

 くわえて、宮中(あるいは天皇)の政治的能動化は、ときに西園寺の制御をも超えて展開していった。彼が反対したにも関わらず、首相に対する天皇自らの叱責が行われ、これによって内閣が倒壊することすらあった〔永井2003、伊藤2005〕。こうした動きが御し難かったのは、それが「天皇が最終決断者である」というタテマエに即するものだったことによる。実際、西園寺自身、天皇と政局を切り離すことを試みながら、同時にこうしたタテマエ自体にはこだわり続けた。たとえば、彼は政党内閣の連続と安定を擁護し、しかも「多数党政権」を望みながら、退任する首相が(議席数に応じて)後任首相を奏薦(そうせん)するという英国方式は受け入れていない〔永井2018〕。首相選定は、あくまで元老や内大臣への下問(かもん)を経て最終的に天皇の意思により決せられるという形こそ、最終決定者・天皇を戴く国のタテマエだったからである。だからこそ、彼は宮中の政治的能動化を警戒し、また元老の再生産を否定しつつも、自身亡きあとは内大臣に首相奏薦の役割を託すことにこだわった。もちろん、政党政治(内閣)が強固な慣習となれば、首相選定はある程度「自動化」されるだろうし、そこにおいて誰が奏薦者なのかという問題は、おそらく「紙一重」の差に過ぎない。西園寺もこうした慣習の定着を強く望んだことだろう。しかし、それは絶対に越えがたい「紙一重」でもあった〔永井2018〕。いわば、彼は、自身が理想とする政党政治のあり方と元老として守るべきタテマエとのあいだで隘路にはさみこまれたのである。そしてそれは、帝国日本そのものが迷い込んだ隘路でもあった。

 上述のような構造の下で繰り広げられた政党間の熾烈な争い、非政党政権を目指す諸動向、あるいは宮中の政治的能動化は、やがて政党内閣期を崩壊に導く要因と化していった。しかも、政党内閣の崩壊は、以後の政権運営に不安定をもたらす。1932年、5・15事件で犬養毅内閣が崩壊してから、西園寺が死去するまでの約8年間に、彼が選定に携わった内閣は8つにおよぶ。これらを眺めて気付くのは、首相の顔ぶれが実に多彩なことだろう。あるいは陸海軍の有力者、あるいは外交官や司法官僚の出身者、さらには華冑会(かちゅうかい)の貴公子といった具合に、である。このことは、かつての藩閥や官僚閥、または政党のように強固な基盤をもつ政権主体がもはや見出しにくかったことをよく示している(もちろん、いわゆる「軍部」の政治的進出は指摘できるかもしれないが)。政党の政権復帰が果たせず、かといってこれに代わる政権主体も見いだせない状況で、西園寺らは、その時々において適任者を探すほかなかった。それは、かつて西園寺が目指した政権移動の実質的「自動化」とは全く逆の事態だったといえよう。しかもこの期間は、日本の戦争が泥沼化していった時期と重なる。責任ある政権主体を確立できない状況が、事態をさらに悪化させていった。外交を重んじ、平和を志向した西園寺の苦衷(くちゅう)は、察するにあまりあるだろう。

 1940年5月、米内光政内閣が倒れた際、西園寺は老齢などを理由に、後継首相のを推挙する役目を辞退した。彼が亡くなったのは、その年の11月24日である。享年91歳であった。

おわりに
 西園寺公望は、明治維新と共に表舞台へと登場し、維新がその基礎を創り出した体制が徐々に崩壊していくなかで生涯を終えた。その人生は、あたかも帝国日本の軌跡と並走したかのようである。彼は政党政治の発展に期待し、また自ら尽力しつつも、同時に明治維新が創り出した「変えられないタテマエ」にはこだわり続けた。こうした姿は、帝国日本の自画像を見るようでもある。その意味でも彼は、やはり帝国日本を象徴する人物だったといえるのではないだろうか。

参考文献
有馬学『帝国の昭和(日本の歴史23)』(講談社、2002年)
伊藤之雄『政党政治と天皇(日本の歴史22)』(講談社、2002年)
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小山俊樹『憲政常道と政党政治ー近代日本二大政党制の構想と挫折』(思文閣出版、2012年)
十河和貴『帝国日本の政党政治構造ー二大政党の統合構想と〈護憲三派体制〉』(吉田書店、2024年)
    「元老西園寺公望と「憲政の常道」ー中川小十郎の活動を主軸として」(『立命館 史資料センター紀要』3、2020年)
内藤一成『貴族院と立憲政治』(思文閣出版、2005年)
永井和 『青年君主昭和天皇と元老西園寺』(京都大学学術出版会、2003年)
    『西園寺公望―政党政治の元老』(山川出版社、2018年)
眞杉侑里・藤野真挙・十河和貴「2017年寄贈「西園寺公望関係資料」の再整理から見えた
新論ー「『西園寺伝』編纂事業の遺産と研究進歩の可能性」(『立命館 史資料センター紀要』4、2021年)
    升味準之輔『新装版 日本政党史論5ー西園寺と政党政治』(東京大学出版会、2011年、初版は1979年)
村井良太『政党内閣制の成立ー1918年~27年』(有斐閣、2005年)
    『政党内閣制の展開と崩壊ー1927~36年』(有斐閣、2014年)
村瀬信一『帝国議会改革論(新装版)』(吉川弘文館、1997年)
山崎有恒・西園寺公望関係文書研究会編『西園寺公望関係文書』(松香堂書店、2012年)
吉田武弘「「第二院」の誕生ー明治憲法下における両院関係の展開」(『立命館史学』31、2010年)
立命館大学西園寺公望伝編纂委員会編『西園寺公望伝』1~4(岩波書店、1990年~1997年)

書誌情報
吉田武弘《人物評伝》「西園寺公望―「変えられないタテマエ」と理想のあいだで」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, JP.9.02(2025年00月00日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/japan/essay01