アジア・マップ Vol.03 | 韓国
《人物評伝》
安重根の思想的転回―「東洋平和論」の形成
はじめに
1909年10月26日、明治の元勲であり、統監として朝鮮植民地化を推し進めた伊藤博文が、ロシア蔵相ココフツォフとの会談のために向かったハルビン駅頭で、3発の銃声に襲われて絶命した。銃を放ったのは大韓帝国(韓国)の独立運動家・安重根である。安は伊藤を、日韓連携、ひいては東洋平和を阻害する最大の要因ととらえ、これを排除するとともに、自らの行為を、伊藤の所業と韓国が置かれている現状とを世界に知らしめようとしたものだと主張した。
安重根に対する歴史的評価はこれまで、日本でも韓国・朝鮮でも、伊藤博文射殺という事実にもとづいてなされるのが一般的であった。伊藤を射殺した安重根を、韓国・朝鮮では民族の英雄として「義士」と位置づける一方、日本では「テロリスト」ととらえることが多かった。こうした日本での評価は、たとえば2014年、安重根記念館が中国で開館された際に、日本政府が安重根を「伊藤を殺害し、死刑判決を受けた人物」と閣議決定し、官房長官談話で「テロリスト」と言及したことに端的に示されている。しかし、義士ととらえるにせよテロリストと位置づけるにせよ、伊藤射殺という事実のみに即して安重根評価を行っているという意味でその歴史的理解はコインの裏表の関係にある。しかもそこには、日韓・朝双方のナショナリズム的理解が色濃く張り付いている。歴史研究において必要なのは個々の歴史的事象を全体に位置づけて構造的に理解することであるが、伊藤射殺という事実のみから性急な評価を行うことは、かれが生きた時代と重ね合わせつつ安重根を総体的に理解することをむしろ妨げ、そこに広がる豊かな歴史的経験をつかみ損ねることにつながる。
ところで近年、近年の安重根に対する評価軸は、伊藤射殺の事実に即した人物評価から、安重根の思想的営為をめぐるものに移ってきている。趙景達が先駆的に位置づけたように、安重根の思想的画期性は、朝鮮の近代思潮やそのもとで展開された愛国啓蒙運動が、社会進化論を受容することによって帝国主義批判を徹底できなくなるというアポリアを克服した点に求められる1。そして安重根は、そうした帝国主義批判の先に「東洋平和論」というアジア平和構想を打ち立てた2。
本論文では、近年の研究動向を踏まえつつ、安重根が構想した東洋平和がどのようなものであり、朝鮮の思想系譜上においてどのように成立したのかを位置づける。安重根の帝国主義批判の思想的展開過程を跡づけることは、昨今の世界情勢においてあらためて姿を現しつつある帝国主義的現実を批判的に考察するために必要な作業となるはずである。
1.安重根の伊藤博文殺害
安重根の思想的営為を検討するに先立ち、自叙伝である「安応七歴史」に即してその生涯を素描する3。安重根は1879年に黄海道海州府に生まれた。祖父・安仁寿は、慶尚南道鎮海県監を務めた経歴をもち、また相当の資産家であったという4。父・泰勲は、科挙に合格して進士となった1884年に上京し、開化派の有力者であった朴泳孝の知遇を得て日本に派遣されることになった。しかし同年末に起きた甲申政変によって派遣計画が頓挫すると、政変後の粛清を恐れて一族で黄海道信川郡清渓洞へ移住した。安重根は、書堂(日本の寺子屋に相当)で漢学の素養を身につけたが、勉学にはさほど熱心ではなかった。弟の安定根の証言によれば、安重根は資治通鑑を途中まで修養したのみで四書五経は読了しなかった5。むしろ、弓や馬などの武芸に親しみ、特に射撃術が抜群で、叔父らと狩猟にいそしんだという。地方名士の子弟に生まれながら、伝統的教養を身につけることよりも尚武の気風を貴ぶ幼少期を過ごしたのである。1894年に甲午農民戦争が勃発すると、東学農民軍の鎮圧のために父の呼びかけで編成された義兵に参加し、「紅衣将軍」と恐れられたと朴殷植は記している6。甲午農民戦争は、反侵略主義的であるとともに、朝鮮社会内で共有される民本と勤王の価値規範をめぐる闘争という側面をもつが7、農民軍鎮圧という安泰勲・重根父子の行動はその一端を示す好例でもある。
その後、農民軍から接収した兵糧の取扱いをめぐって政府大官から嫌疑をかけられた安泰勲は、その嫌疑を逃れるためにフランス人が主宰する天主教会に数カ月間身を寄せた。これをきっかけにカトリックに入信し、郷里の清渓洞で布教を開始した。安重根もまた、フランス人宣教師ウィレム(洪錫九)から洗礼を受けてトーマス(Thomas、多黙)と名乗った。そしてウィレムとともに各地をまわって布教活動に従事し、あわせて民衆への啓蒙活動を行った。朴殷植「安重根伝」は、甲午農民戦争の経験をもとに安重根が、「わが国は学問ばかり重んじ、武芸を廃した結果、人々は武器の扱い方がわからず、国力は弱まる一方でした。烏合の衆にすぎない東学党が何年間も禍を及ぼしましたが、官軍が即座に乱党を鎮圧できなかったので、人々は大きな被害をこうむりました。こんなありさまでは、もし強い外敵がわれわれの弱みに乗じて攻めてくれば、銃一発撃つこともできずに倒れてしまう」と内憂外患の危機感をあおり、「国民を導いて文弱の習性を改め、尚武の風紀を次第に育てていくならば、きっと有事のときに備えることができる」として軍事教練を行うなどの活動を進めたとしている8。そこには国家的危機感に裏打ちされた尚武の気風の喚起、もっと言えば強兵論的な立場からの民衆啓蒙観を見て取ることができる。
1904年に日露戦争が始まると日本の朝鮮植民地化が本格化する。日本は、日露開戦直後に締結された「日韓議定書」をはじめ、さまざまな条約・協約によって韓国の主権を侵奪していった。そして翌年11月17日に締結した第2次「日韓協約」(保護条約、乙巳五条約)により韓国の外交権を奪って保護国とし、統監府を設置した。初代統監に就任した伊藤博文は、「施政改善」の名目で韓国皇帝および韓国政府の権限を縮小しながら韓国内政に干渉していった。こうした日本による植民地化の進展に対抗し、韓国では、教育や産業振興を進めて実力養成を図ろうとする愛国啓蒙運動や、義兵戦争をはじめ、日本に対する広範な抵抗運動が展開された。伊藤はこうした動きに対し、「日本の保護は彼の独立に危害を与えるものにあらざることを自覚せしめ、日本は日本の独立を保全する為め已むを得ず彼を保護するにありて、決して害意あるものにあらざるを知らしむを要する」という立場から、「日本は韓国を扶植し開発して日韓共に其福利に依らんとする」ために近代文明的施策を展開して受益層の拡大を図ろうとした9。その一方で、物理的暴力装置である軍隊や警察を拡充して抵抗運動を弾圧した。伊藤は義兵の高揚に対し、「彼等〔義兵〕の自暴自棄は、竟に我をして征服の止むを得ざるに至らしめざるかと憂慮を懐かしむ」10と述べつつ、その弾圧方針を崩さなかったのである。
日本のこうした行動に憤慨した安重根は、国際世論を喚起しようと中国の山東や上海などへ渡り、中国在住朝鮮人の説得にあたった。しかしこれに失敗すると韓国に戻り、三興学校および敦義学校を設立して人材育成や啓蒙活動に努めた。同時にその資金を得るため、平壌で石炭鉱山の採掘を試みたり、また国債報償運動にも参加したりした。日本の朝鮮侵略に直面し、愛国啓蒙運動を本格化させたのである。
このように愛国啓蒙運動に従事していた安重根であったが、1907年、第3次「日韓協約」締結にともなって韓国皇帝高宗が廃位されたり韓国軍が解散されたりして、日本の朝鮮植民地化政策がさらに一段階進められたことを目の当たりにすると、北間島を経てウラジオストクへ向かい、反日義兵戦争に身を投じた。安重根は、大韓義軍参謀中将として清韓国境付近で日本軍と数回交戦したが、敗走を余儀なくされた。1909年に入ると無為の日を過ごさざるを得なくなり、心神喪失状態に陥ったという。そうした折、伊藤博文の満洲行きを知った安は、同志の禹徳淳らと計画して満洲へ向かい、同年10月26日、ハルビン駅頭で伊藤を射殺した。ロシア兵にとらえられた安重根は、日本領事館に移された後、旅順の関東都督府地方法院で尋問を受けた。
地方法院で行われた尋問で安重根は、「伊藤さんの命を取れば、私は法廷へ曳出されたる時、伊藤公の罪悪を一々陳べて自身は官に任せる考えでありました」11と述べ、保護国下における日本の侵略行為を訴えるとともに、国際世論を喚起しようとした。日露戦争以降の日本の朝鮮侵略を批判した上で、伊藤を殺害した理由として「東洋の平和」と「韓国の独立」とを損ねたことなど、15項目にわたって列挙した12。さらに「伊藤博文は、いまだに天下の大勢を深くさぐることをせず、残酷な政策を濫用している。東洋の全幅の将来が、魚肉の場を免れることは難しい。天下の大勢を慮れば、有志の青年らは、どうして手をこまねいて無策のまま坐して死を待つことが可であろうか。私は以上のようなことを思って、ハルビンの公衆の面前で一砲を放ち、伊藤老賊の罪悪を声討し、あわせて東洋の有志の青年らの精神を覚醒させようとしたのである」13と訴え、日本によって東洋の危機がもたらされていることをアジアの若者に覚醒させるための象徴的行為として、伊藤殺害を位置づけてもいた。さらに、自身を単なる狙撃犯ではなく義兵将であり、独立戦争の一環として伊藤を殺害したのであるから、その行為に対しては戦時国際法にもとづいて審理を行うよう尋問および公判で再三主張した14。こうした主張は、日本の侵略行為を国際環視の下にさらけ出そうとするものであるとともに、安の国際法に対する信頼を示してもいる。
しかし安重根につながる反日組織の実態解明に主要な関心を置く日本政府にとって、伊藤殺害に込められた安の意図を受け入れることはなかった。国際世論を喚起しようとする安の狙いは封鎖され、1910年2月の公判で死刑を宣告された。裁判を通じて日本の不当行為を訴えようとした安であったが、それに失敗し死刑判決を受けると、控訴することなく、獄中で執筆活動に着手した。
3月15日に自叙伝「安応七歴史」を書き上げ、続いて「序」、「前鑑」、「現状」、「伏線」、「問答」の本論4章からなる「東洋平和論」の執筆に取りかかった。安重根は、同論考を完成させるために数日間の死刑延期を求めたが叶えられず、伊藤射殺からわずか5ヵ月後の3月26日に処刑された。「東洋平和論」は未完に終わり、「序」と「前鑑」の途中までで断筆させられた。遺骸は遺族に引き渡されず旅順の監獄墓地に埋葬されたといい、詳細は不明である。
2.安重根の思想史的地平
愛国啓蒙運動家として、また義兵として独立運動に従事した安重根であったが、思想史的観点で際立つのは、自らが近代主義に立脚して思想形成しながらも、当時朝鮮近代思想が陥っていた帝国主義批判の不徹底を乗り越え得た点に求められる15。
朝鮮が日本に植民地化された20世紀初頭は帝国主義が隆盛を極めていたが、欧米、日本では、発展と競争に基礎を置く社会進化論が盛んに唱えられた。韓国にも欧米や日本の社会進化論が中国の梁啓超を媒介にして紹介され、近代的知識人を中心として受容されていった16。朝鮮では小国意識のもとで伝統的に思想形成が行われてきたが、近代主義的立場をとる愛国啓蒙運動は大国主義と小国主義の大きく2つの流れに分かれていった17。周知のとおり、社会進化論は帝国主義を正当化する論理となるが、競争に立脚点を置く強権論はナショナリズムを高揚させて大国主義的な意識を培っていった。一方、朝鮮で伝統的に形成されてきた小国思想は、日清戦争後の国際秩序に対応して二元化する。日清戦争以前は、冊封体制と「万国公法」体制の均衡の上に中立化を模索した「自強」論的構想が追求されていたが18、日清戦争後に国際秩序が「万国公法」体制へと一元化されるなかで、朝鮮では、アジアの小国連合を模索するアジア主義的小国構想が一般化する。発展論的立場を展開させるなかで朝鮮のアジア主義は日本を東洋の盟主と仰き、日本が振りまく近代主義の幻想に取り込まれかねない同盟論・保護国論・合邦論へと流れ込んでいった19。たとえば甲午改革を推進した開化派人士の一人である安駉寿が提唱した、日中朝三国連携論である「日清韓同盟論」では、「覇者と指導者」である日本の下で「清国と韓国とは何処迄も先進者たる日本国の助教に信頼するを要す」と位置づけていた20。また、第3代教主の孫秉煕のもとで教団再建を進め、天道教と改めた東学上層部は、国教化を図ろうと東学教理を近代的な方向へ展開させた。孫秉煕は1903年に提起した「日本同盟論」において日本との連携を模索しており、日露開戦後は日本への軍事協力を行っている21。朝鮮の近代思想は、帝国主義を正当化する社会進化論を受容するなかで、「劣等」民族は侵略されてもやむを得ないという論理を内包する競争原理を内面化してしまい、結果的に自らが帝国主義に転化しうる論理を構築してしまうか(強権論)、さもなければ帝国日本に自らをおもねてしまうことになった(同盟論・保護国論・合邦論)。日本の帝国主義的侵略に対抗しようとする愛国啓蒙運動であったが、社会進化論の受容した朝鮮近代思想の展開のもとで、帝国主義を批判するどころか、むしろそれに連なってしまいかねないというジレンマに陥ったのである。
安重根の思想的営為は、こうした状況を打破するものであった。では、朝鮮近代思想が陥ったジレンマを、安重根はどのような論理で克服しようとしたのだろうか。
1909年11月6日に安重根が獄吏に提出した「獄中所懐」で安は、次のように語っている。
天は人間を生んで、天下の人々をみな兄弟となした。それぞれが自由を守って、生を好み死をいとうのは、人々の共通した情というものである。今日、世の人々はおおむね文明時代だといっている。しかし私は一人で長嘆し、そうではないという。そもそも文明というのは、世界中の賢愚・男女・老少を問わず、それぞれが天賦の性を守って道徳を崇常し、互いに競いわない心をもって安土楽業してともに泰平を享受することである。ところが現今の時代はそうではない。いわゆる上等社会の高等人物が論ずるものは競争の説であり、究めるものは殺人機械である。それゆえ、世界中で砲烟弾雨がたえる日がない。どうして慨嘆せずにいられようか22。
安重根は、「競争之説」すなわち社会進化論を前提にした近代文明のもとでは戦火が絶えることはなく、日々暴力が繰り広げられていると、帝国主義世界の現実を鋭く批判する。そして、文明とは本来、老若男女が「天賦之性」を守って互いに競い合わずに安土楽業して平和に暮らすことができるものであると位置づけ、近代文明を相対化して帝国主義を批判し、天賦人権論の立場から「道徳」への回帰を訴えたのである。
天賦人権論は周知のとおり、西欧においてはホッブズやロック、ルソーらによって唱えられ、アメリカ独立戦争やフランス革命にも影響を与えた。また日本でも自由民権運動のスローガンとして受容された。しかし19世紀になるとこうした人権思想への攻撃が始まる。帝国主義全盛の時代には、天賦人権論は社会が共有すべき善き目的の達成のための方便に過ぎないと見なされるようになっていた23。日本でも、自由民権運動初期に天賦人権論を唱えたにもかかわらず、社会進化論の受容をきっかけにして国権主義に「転向」した加藤弘之の思想遍歴はその一端を示す。加藤は、天賦人権論を説いた『真正大意』『国体新論』を絶版にして新たに著した『人権新説』(1882年)で、「吾人々類が人々個々生れながらにして固有する所の自由自治の権利と平等均一の権利」である天賦人権論を「妄想論者」の説と切って捨てた24。「転向」した加藤には批判が相次いだが、自由民権運動の退潮とともに天賦人権論も次第に姿を消していく。社会進化論が隆盛を極めた20世紀初頭の帝国主義時代には、西欧でも日本でも天賦人権思想はほとんど顧みられなくなっていた。そうした帝国主義全盛期において安重根は、天賦人権論の立場を打ち出して帝国主義を批判したのである。そしてそうした思想的転回は、愛国啓蒙運動の隘路を打破する論理となり得るものであった。
ではそうした思想的転回はなぜ可能となったのであろうか。もちろん安重根が、愛国啓蒙運動が陥ったアポリアを先験的に克服し得たわけではない。安重根は、伊藤の施政下で進行する日本の朝鮮植民地支配に直面するなかで反日運動に身を投じていったが、植民地支配および民族差別に直面したという事実だけで、近代思想に傾倒していた安が帝国主義と植民地支配との構造的暴力を批判する論理を容易に構築できたわけではない。開化派の流れを汲んで愛国啓蒙運動に従事したかれにとって、帝国主義批判はむしろ困難なものであった。他の啓蒙運動家同様に安重根も、朝鮮の近代文明化を至上命題と位置づけるあまり、いちはやく文明化を達成した日本に多大な期待をかけ、帝国主義の論理を内面化すらしていたからである。安が日露開戦当時、「二千余万ノ同胞ハ、何レモ日本人民ナルコトヲ喜ンデ居タノデス」25と日本に多大な期待を寄せたことや、「伊藤公ノ施政宜キヲ得ハ、韓国人民ハ知ラヌ内ニ日本人民ニ同化スル」26ことが可能であるとして、日本の保護統治を原理的には否定していなかった点がそれを端的に示している。そうした安重根の姿勢は、先に示した愛国啓蒙運動の陥穽をあわせ考えればむしろ当然であるが、独自に近代化を達成することができない朝鮮民衆に対する愚民観とも表裏一体であった。
では、その思想的転回の決定的契機となったのはいったい何だったのだろうか。安重根の場合、それは義兵戦争への参加であったと考えられる。これまでの研究では、同時期に反日運動を遂行したにもかかわらず、武力行使の是非やその文明観において愛国啓蒙運動と義兵とが思想的に断絶していることが強調されてきた。もちろん、愛国啓蒙運動陣営のなかには、義兵とは思想的に相容れない側面をもちながらも義兵の武力行使に一定の理解を示し、「自強」を追求する「尚武」論の立場が存在しており、国家的危機意識や勤皇主義を背景にして愛国啓蒙運動と義兵戦争とが連携する動きがなかったわけではない27。しかし運動史的に見ると、安重根は愛国啓蒙運動家から義兵に転身した数少ない事例として位置づけられる。安重根は、「万古ニ得難キ近古第一ノ人物」と義兵将・崔益鉉を高く評価したが28、日本の暴掠を叩き、世界に広く知らしめ、列強の同感を得て、恨みをそそぎ、国権を回復するという「弱よく強を除き、仁をもって悪に敵する」という安重根の反日運動の論理は、「万国公法」すなわち国際法に「信義」を見出し、あるべき信義への回帰を日本に求めつつ日朝中の三国連携を唱えた崔益鉉の思想と通底する29。そしてそのオプチミスティックな文明観こそ、伊藤を射殺し、日本に反省を求める一方で、日本および列強になお道義を求めて連携の可能性を最期まで探ろうとする「東洋平和論」の構想へとつながる思想的核心であった。
3.「東洋平和」構想の内容
では、安重根の「東洋平和論」はどのような内容をもっていたのだろうか。先述したとおり東洋平和論は未完であり、その全体像は明らかではない。その内容をうかがうために近年の研究で注目されているのが1910年2月17日付の「聴取書」に記録された構想である30。「聴取書」で安重根は、まず日本が旅順を中国に返還したうえでそこを中立化して日朝中三国が共同管理する軍港をつくり、三国が代表を派遣してそこに東洋平和会議を組織することを提唱した。さらに、①三国共同で銀行を設立し、通貨の共用を図ること、②三国の青年によって共同の軍隊を編制し、それぞれ二カ国以上の言語を習わせて友邦としての観念を高めること、③日本の指導により韓清両国の商工業の発展を図ること、④三国の皇帝がローマ教皇を訪問して協力を誓い、戴冠するといった具体的な方策・事業が述べられている31。経済活動における現状での日本の優位を率直に認めたうえで、経済・軍事的側面による統合・協力を図るとともに友邦観念を育成していこうというプランであり、近年の研究でEU構想との近似性が指摘されるのはこうした点によるものと思われる32。
しかし、①~③以上に注目すべきなのが④である。安重根は、ローマ教皇というオーソドキシーの下で三国連携を図るとしている。安がカトリック信者だからということもあるだろうが、文明的普遍性のもとで連携を図るといった発想自体はキリスト教に固有ではない。むしろその着想は、儒教的文明観にもとづいた「天」観念という朝鮮的思惟構造を背景としながら、キリスト教的文明観を取り入れて国際関係をとらえ直したものと考えるべきである。先述したように、日本の植民地支配政策が本格化する以前、安は日本への期待を隠さなかったが、それは単に近代文明への憧憬以上に、かれの朝鮮的思惟構造を背景として構築された天観念によるものであったと考えられる。安は日本の「対露宣戦詔書」を高く評価したが、「いわゆる天に順うがゆえに幸いに大勝利を得たのだ」と日露戦争における日本の勝利を位置づけたように、それもまた「天」の意思を判断基準にしたものであった。同詔書への手放しの評価は、その対日認識の甘さに由来するものというよりも、「天」に従った行為であるか否かという点にその判断基準および行動規範が置かれていたと考えられる。安は儒教的文明主義にもとづいた道義に価値基準を置いていたのであり、それは民族主義に優先するものであった。
そして伊藤博文に対する批判も、究極的にはこうした「天」観念にもとづいていた。安重根は、「目下、伊藤博文が自らその功を恃んで尊大にして傍若無人に振る舞い、ひどく驕り、悪を極め、君を欺き、蒼生(民)をみだりに殺し、隣国との友好を断ち、世界の信義を裏切った。これはいわゆる天に逆らうものというべき」33と述べたように、一君万民論的立場から、その批判の矛先を仲介勢力たる李完用内閣および伊藤らに向けた。伊藤に対するこうした批判は、安の創見ではなく、義兵の対日認識と通底する。義兵もまた、原理主義的に日本を批判したのではなく、日本の道義的・文明主義的姿勢の欠如に批判の重点を置いていた34。逆に言えば、道義をともにする限り、日本との連携は可能となるはずなのである。
安重根はその可能性を日本の民衆に仮託して主張した。安は、義兵戦争において捕虜にした日本兵を説得した際のエピソードを次のように語っている。日露戦争で国も民も疲れ果てているにもかかわらずそれを日本政府が顧みず、東洋の平和が日本の安寧につながることを望みえないまま義兵掃討戦に従事しなければならないと嘆く日本兵捕虜に対し、安は「諸君のいうところを聞くに、忠義の士というべきである。諸君をただちに釈放する。そんな賊臣〔ここでは伊藤博文のこと〕は帰って掃滅せよ。それでも、もしまた、そのような奸党が現れ、はからずも戦争を起こし、同族隣邦の間に侵害の主張を呈するものがいたら、すべてこれを取り除き、たとえ一〇名足らずでも東洋の平和をはかることができる」と説得したという35。安重根は、日本の繁栄が東洋の平和をもたらすのではなく、東洋の平和が日本、さらには東洋諸国の安寧をもたらすことを看破した。その際、日本兵に「人がこの世に生まれて生を好み、氏を厭うのは人情」であると述べさせてもいた。これは先述した「獄中所懐」の口吻とも一致する。日本兵捕虜が実際にこのように語ったかどうかには疑問が残るが、帝国主義勢力に対して日本の民衆と共闘することは可能であると安重根が判断していたことを示していると言えよう。
では、安重根にとって「東洋平和」とは何か。かれは、「東洋」とは中国、日本、朝鮮、シャム、ビルマのアジア州を指すが、これらの国々が自主独立する状態を保つことが「東洋平和」であり、「皆自主独立して行く事が出来るのが平和」であると述べた36。万人が「天賦之権」を持つことを人間社会における平和であると、安が位置づけていたことは先述したが、国際関係もそのアナロジーとして理解されていた。したがって各国の「自主独立」を基準とする限り、日清戦争以前の宗主国・清国に対しても当然ながら批判が向けられることになろう。実際安は、中国冊封体制下の「時庸国」だった朝鮮には独立の実はなく、大韓帝国成立後、はじめて「自主」「独立」を保持するようになったと認識していた37。安にとっての「東洋平和」は、東洋に立国する各国が自主独立を保持してこそ可能なのであり、単に東洋に戦争が存在しない状態=平和なのではなかった。
おわりに
大韓帝国期の独立運動家である安重根に対しては、1905年に締結された第2次「日韓協約」締結以後、日本の朝鮮植民地化政策をリードした伊藤博文を射殺したという事実をめぐって歴史的評価がなされることが多かった。しかし近年では安が獄中で書き残した「東洋平和論」を中心に、その思想的営為に関する検討が行われるようになってきている。本稿もそうした観点から安重根の思想およびその思想的系譜について検討してきた。
安重根が構想した「東洋平和論」は、日朝中3カ国による平和会議を組織し、通貨の統一や軍隊協力などを行って友邦観念をはぐくみ、三国の協力のもとで東アジアの平和を希求するという地域連合構想であった。それは、儒教的文明主義にもとづいて、道義に価値基準を置きながら各国の「自主独立」を保持するものであったが、その構想の核心となっているのは、人びとが「天賦之性」を守り、安土楽業して暮らすことができる平和状態を担保するという、「道徳」にもとづいた「文明」への回帰であった。こうした構想を可能にしたのは、小国としての矜持を保持しつつ、大国に対しても道義を求めようとするオプチミスティックな文明観であり、国際関係もそのアナロジーとして理解されていた。そしてそこでは、社会進化論にもとづいて競争を追求し、「文明」の名のもとに殺戮を繰り返す帝国主義的現実が批判されていた。こうした帝国主義の現実に対し、朝鮮の近代思想およびその影響下で展開された愛国啓蒙運動は、社会進化論を受容することによって、日本の朝鮮侵略を究極的には批判できなくなるジレンマに陥っていた。それは同運動に参加した安重根もまたそうであった。しかし義兵戦争への転身において崔益鉉ら儒生の思想に接近し、天賦人権説の立場から帝国主義的現実を批判することにより、安の思想的営為は愛国啓蒙運動のアポリアを乗り越えたのである。
ロックらによって唱えられ、近代思想の形成に影響を与えた天賦人権論も、帝国主義全盛の欧米列強ではほとんど顧みられなくなっていた。したがって、20世紀初頭において安重根が天賦人権論を唱えたことをアナクロニズムと一蹴するのはたやすい。しかし天賦人権論が第2次世界大戦後、戦争がもたらした惨禍を前に再び脚光を浴びたのもまた周知の事実である。その到達点の一つが国際連合での「世界人権宣言」(1948年12月)であった。安重根は眼前で繰り広げられる日本の帝国主義的侵略に対し、儒教的文明主義にもとづく天賦人権説の立場に立って批判したのである。そして安重根の「東洋平和」構想は、社会システムのなかに組み込まれた格差・不平等・差別などにより人間の潜在能力の実現を阻止する構造的暴力を排する「積極的平和主義」(ヨハン=ガルトゥング)38を先取りしたものだったと評すことも可能である。
その後、獄中で構想された安重根の「東洋平和論」が、かれの死刑執行によって世に問われることは最近までなかった。しかし、そうした思想的営為が小国構想を志向する朝鮮的思惟にもとづいたものであった以上、時代を越えて結実しうるものである。筆者は以前、金大中の「太陽政策」にそうした小国構想が認められるという見通しを述べたことがある39。ロシアによるウクライナ侵攻やイスラエルによるガザ侵攻など、実力による現状変更の試みが各地で行われ、また、米中等の大国によって国際政治の動向が左右される新たな帝国主義的国際情勢が進行しつつあるなかで、帝国主義批判の思想的営為を歴史的経験のうちに探る必要性はますます高まっている。
注釈
1趙景達「安重根―その思想と行動」『歴史評論』469号、1989年。
2拙稿「安重根と伊藤博文」(趙景達・原田敬一・村田雄二郎・安田常雄編『講座 東アジアの知識人』1、有志舎、2013年)。
3安重根の経歴については、特に断らない限り、安重根「安応七歴史」(統一日報社編『図録・評伝 安重根』日本評論社、2011年)参照。また、前掲拙稿「安重根と伊藤博文」も参照。
4警務当局の調査報告によれば、米穀商を営んでいたという(『統監府文書』第7巻(国史編纂委員会、1999年)p.155)。
5『統監府文書』第7巻、p.88。
6朴殷植「安重根伝」(前掲『図録・評伝 安重根』p.137)。
7趙景達『朝鮮民衆運動の展開』(岩波書店、2002年)第4章、参照。
8前掲『図録・評伝 安重根』pp.137-138。
9瀧井一博編『伊藤博文演説集』講談社学術文庫、p.369、p.375。
10前掲『統監府文書』第4巻、p.212。
11市川正明『安重根と日韓関係史』原書房、1979年、p.220。
12同上書、p.213。
13「獄中所懐」、趙景達ほか編『「韓国併合」100年を問う 『思想』特集・関係資料』岩波書店、2011年、p.319。
14前掲『安重根と日韓関係史』p.479。
15趙景達前掲論文。
16佐々充昭「韓末における「強権」的社会進化論の展開」『朝鮮史研究会論文集』40、2002年。
17趙景達「朝鮮における日本帝国主義批判の論理の形成」、『史潮』新25、1989年。
18長谷川直子「朝鮮中立化論と日清戦争」『岩波講座 東アジア近現代通史』1、岩波書店、2010年。
19趙景達「近代朝鮮の小国思想」、菅原憲二・安田浩編『国境を貫く歴史認識』(青木書店、2002年)p.142。
20『日本人』121、p.24。
21拙稿「朝鮮における小国主義の展開試論――金大中政権の「太陽政策」を手掛かりに」、『人文学報(京都大学人文科学研究所)』111、2018年。
22前掲『「韓国併合」100年を問う 『思想』特集・関係資料』p.319。
23中山竜一「人権」(今村仁司・三島憲一・川崎修編『岩波社会思想事典』岩波書店、2008年、pp.172-174)。
24加藤弘之『人権新説』谷山楼、1882年、pp.5-6。
25前掲『安重根と日韓関係史』p.382。
26同上。
27愼蒼宇「国権回復運動と日本」(趙景達編『近代日朝関係史』有志舎、2012年)参照。
28前掲『統監府文書』第7巻、p.277。
29愼蒼宇「崔益鉉」(前掲『講座 東アジアの知識人』第1巻)参照。
30勝村誠「安重根の東洋平和論」『歴史地理教育』754号、2010年、pp.68-69。
31尹炳奭編『安重根文集』(独立紀念館韓国独立運動史研究所、2011年)pp.550-551。
32牧野英二「東洋平和と永遠平和――安重根とイマヌエル・カントの理想」『法政大学文学部紀要』60,2010年。
33前掲『図録・評伝 安重根』p.231。
34拙著『伊藤博文の韓国併合構想と朝鮮社会』岩波書店、2010年、第3章。
35前掲『図録・評伝 安重根』p.236。
36前掲『安重根と日韓関係史』p.335。
37同上書、p.378。
38ヨハン・ガルトゥング(高柳先男ほか訳)『構造的暴力と平和』中央大学出版部、1991年。
39前掲拙稿「朝鮮における小国主義の展開試論」。
書誌情報
小川原宏幸《人物評伝》「安重根の思想的転回―「東洋平和論」の形成」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, KR.9.02(2025年10月9日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/korea/essay01/