アジア・マップ Vol.03 | 韓国
《人物評伝》
韓国哲学という未完の夢:朴鍾鴻考
韓国の哲学者・朴鍾鴻(パクチョンホン、一九〇三~一九七六)の名は、日本ではそれほど知られていない。実は、韓国でも状況はそれほど変わらない。哲学の研究に従事している人なら、名前くらいは聞いたことがあるかもしれない。しかし、韓国社会一般における知名度はまったくないといってもよい。これは、不思議な現象である。朴鍾鴻こそ、戦後韓国社会においてもっとも影響力のある哲学者であったからだ。
一九九〇年生まれの筆者が義務教育を受けていたころに、朴鍾鴻の名はすでに韓国社会から消えていた。筆者がはじめて朴鍾鴻の名前を知ったのは、日本に来て何年かが経った後である。近代日本哲学の研究に乗り出したころ、むしろ韓国哲学のことが気になった。そこで出会ったのが朴鍾鴻である。韓国哲学という概念自体まだ市民権を得たとは言い難く、非常に不安定な概念である。そこで一つの強力な参照軸になってくれたのが、朴鍾鴻であった。朴鍾鴻こそ、「韓国哲学」の構築を試みたもっとも有力な思想家であるからだ。
「国民教育憲章」宣布式(出典: https://namu.wiki/w/국민교육헌장) (最終閲覧日:2025年6月29日)
筆者の親世代であれば、誰も朴鍾鴻の書いた文章に触れたことがあるはずだ。その世代の教科書には、必ず朴鍾鴻の文章が載っていたのである。それだけではない。朴鍾鴻は韓国を代表する教育者として、自らが教科書の執筆に携わっている(例えば、一九五〇年中等社会生活課「公民」教科書の執筆陣に、朴鍾鴻の名が挙がっている)。朴鍾鴻の思想が韓国社会に与えた莫大な影響を説明するためには、何よりも一九六八年朴正熙政府によって発表された「国民教育憲章」に触れなければならない。「国民教育憲章」は、「我々は民族中興の歴史的な使命を帯びてこの地に生まれた」からはじまって、「新たな歴史を創造しよう」で終わる全文三九三字からなる文章で、朴鍾鴻哲学のエッセンスを抽出したかのような印象を与える。「国民教育憲章」は、一九八〇年代まで学生を含めたすべての国民に暗記が強要された。一九九〇年代に小学校に通った筆者も、朝礼の時間に「国民教育憲章」を暗唱させられた記憶がある。八〇年代の民主化を経た後も、「国民教育憲章」はすぐ廃止されたわけではなく、小学校の時期のあるときから突然「国民教育憲章」を暗唱する時間がなくなったことを、おぼろげながら覚えている。
これほど莫大な影響力を行使していた朴鍾鴻は、なぜこれほどきれいに忘れ去られたのだろうか。その理由こそ、「国民教育憲章」に象徴される朴鍾鴻の政治協力にある。朴鍾鴻は基本的に大学の教授として教育に携わった教育者であり、「韓国哲学」の先駆者としての優れた哲学者である。朴鍾鴻は戦後、国立ソウル大学の教授を歴任し、多くの著名な弟子を育てており、韓国哲学界の巨人として国民的な尊敬を一身に浴びた。しかし晩年、彼は軍事クーデターによって執権した朴正熙政権に協力し、独裁色を強めた朴正熙政権の維新体制を思想の面から積極的に支えようとした。「国民教育憲章」の作成が、朴正熙政権への協力の一環として行われたのはいうまでもない。この経歴によって、民主化を成し遂げた韓国社会において、朴鍾鴻という人物も、彼が構築しようとした「韓国哲学」も、徹底的に忘れられた。筆者が朴鍾鴻に出会うためには、日本を経由して、より正確にいえば日本哲学という迂回路を経由しなければならなかったのは、以上のような事情による。
韓国の哲学者朴鍾鴻(出典: https://blog.naver.com/vitaantonii/221732255950) (最終閲覧日:2025年6月29日)
「日本哲学という迂回路」といったのは、朴鍾鴻哲学がどのように生成してきたのかをみると、自然に理解されるだろう。朴鍾鴻は、一九二〇年代に植民地朝鮮で設立された京城帝国大学哲学科を卒業し、三〇年代朝鮮思想界の中心で活躍した。日本内地の思想界からの圧倒的な影響下にあった当時の植民地思想界の状況を考えると、朴鍾鴻の哲学が日本哲学との関係から生成してきたことは容易に想像がつくだろう。彼は特に日本内地の有力な哲学潮流であった「京都学派」の哲学に甚大な影響を受けた。「京都学派」の開祖ともいえる西田幾多郎(一八七〇~一九四五)には一貫して批判的な態度をとっており、むしろ西田を引き継いで「京都学派」の中心になった田辺元(一八八五~一九六二)を肯定的に評価し、田辺哲学の要素を積極的に自分の哲学に取り入れた。戦前朴鍾鴻の問題関心は、祖国を失った朝鮮民族の現実からいかなる哲学が可能かを模索するところにあった。このような哲学的な志向は、同じく民族の問題を思考しようとした田辺の「種の論理」と強く共鳴したのである。「種の論理」というのは、田辺が師である西田に対する批判を公にし、一九三〇年代に構築した彼独自の論理である。田辺は「種の論理」をもって、個人や世界という観念に還元されない民族の問題を哲学的に思考しようとした。日本哲学から日本民族の問題を究明しようとした筆者は、田辺の「種の論理」に注目するようになったが、その過程で、「種の倫理」から深い影響を受けた朴鍾鴻の哲学を発見したのである。「日本哲学という迂回路」をたどって朴鍾鴻に出会ったといったことには、以上のような事情があったのである。
朴鍾鴻は戦後、「韓国哲学」の構築に乗り出す。彼が残した遺産は、これからの「韓国哲学」のためにも、重要な指針を提供してくれると、筆者は考えている。朴鍾鴻が残した膨大な思想的な遺産を、ここでは彼の文章が網羅されている民音社版全集(一九九八)の構成に沿って一瞥してみよう1。全七巻の全集の構成は、次の通りである。
第一巻 一九四五年以前論文
第二巻 哲学概論・其他
第三巻 論理学
第四巻 韓国思想史1
第五巻 韓国思想史2
第六巻 哲学的随想
第七巻 日記・紀行文・其他
第一巻に収められている一九四五年以前論文は、朴鍾鴻の思想形成を考察する上できわめて重要である。すでに述べたように、当時の朝鮮思想界は日本思想界の圧倒的な影響下にあったが、朴鍾鴻の思想形成における日本哲学の影響ということは、日韓比較哲学史における興味深い主題を形成している。
第二巻に収められている「哲学概論講義」(一九五三)やその増補修正版である『哲学概説』(一九六四)は、朴鍾鴻独自の哲学の成立を宣言するような作品である。同書は、一般的な意味での哲学の概論ではなく、彼独自の観点に貫かれた哲学の構築作業として理解できる。このような作業を通して、戦前における思索がより厳密な論証構造をもつようになり、「向外的自覚」と「向内的自覚」の弁証法的綜合としての自覚の構造など、より洗練された哲学が提示される。
第三巻に収められている膨大な量の論理学研究は、彼の哲学において論理学研究が占める位相を物語る。「すでに舌も固くなり手も自由に動けなくなった臨終の病床で、ノートにかろうじて書いた洌巖[朴鍾鴻の号―引用者]最後の絶筆」2は、「論理の体系として1.弁証法の論理、2.易の論理を著述した後、自分の独特な論理として第3部の創造的論理を打ち出し、論理の体系を完成させるために不断の努力を注いだが、遺稿として残すこの雄大なスケールをもった作品がいち早く刊行されることを願う心が切実……」(一九七六年二月)と解読される。朴鍾鴻が死を目の当たりにしてもその頭から消えることがなかった論理学の構想は、論理学が彼の哲学体系全体においてどれほどの重要性をもっていたのかを示唆する。しかし、新たな論理学の構築という壮大な計画は、彼の生前まとまった形を取って現れることはついになかった。ただ、その基本的な構想は彼が残した文章の随所で確認することができ、特に博士学位請求論文として提出された「否定に関する研究」(一九六〇)の結論部で、ヘーゲルの弁証法を『中庸』の思想で乗り越えようとしているところに比較的に詳細に論じられている。
全集第四巻、第五巻に収められている膨大な量の韓国思想史研究も、それが彼の学問でいかに重要な課題であったかを思い知らせる。量を基準とすれば、朴鍾鴻の韓国思想史研究は、彼の本業である哲学研究に匹敵するような地位を占めている。韓国思想史研究が彼の哲学体系全体において占める位置は必ずしも明瞭ではないが、それが朴鍾鴻の畢生の事業であった「創造的論理」の構築プロジェクトと密接に結びついていたことは確かだろう。過去の思想的遺産を振り返るのは、新たな創造のためであるということは、朴鍾鴻の韓国思想研究における一貫した姿勢であった。
「韓国哲学」の構築という朴鍾鴻の夢は、未完の夢である。それが未完に終わったのは、彼個人の力量不足という面とともに、韓国の時代的状況という面も作用していただろう。彼が奮闘した時代的な状況がいかに大きな困難を伴っていたかについては、未完に終わった彼の努力すら徹底的に忘れ去られた歴史的な事実からも明らかであろう。朴鍾鴻によって進められた「韓国哲学」構築のプロジェクトをそのまま継承するのは不可能であるし、望ましくもない。しかし、これからの「韓国哲学」のために、朴鍾鴻哲学の価値と限界を綿密に検討する作業は避けて通れないものではないか。このような認識こそ、「日本哲学という迂回路」から筆者が得た最大の収穫である。
注釈
1以下の叙述は、小島毅、加藤泰史編『尊厳概念の転移』(法政大学出版局、二〇二四年)所収の郭旻錫「朴鍾鴻哲学の創造的人間観における尊厳の問題」の叙述と一部重複するところがある。
2民音社版全集第三巻の口絵に付された編集部の説明。
書誌情報
郭旻錫《人物評伝》「韓国哲学という未完の夢:朴鍾鴻考」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, KR.9.03(2025年9月29日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/korea/essay02/