アジア・マップ Vol.03 | ネパール

《総説》
ネパールにおける観光――近くなりすぎたシャングリラ

森本泉(明治学院大学国際学部 教授)

はじめに
20世紀半ば以降、観光現象の発展と共に世界各地に〇〇の楽園と呼ばれる観光空間が創出されてきた。その典型ともいえる「洋上の楽園」という言葉から、視界を遮るものがない水平線や透き通った青い海、明るい太陽の光を受けて白く輝く砂浜、そしてそれらを背景にしたラグジャラスなリゾートやクルーズ船を思い浮かべるかもしれない。こうした開放的で享楽的な「洋上の楽園」に対し、ネパール連邦民主共和国(以下、ネパール)に重ねられてきた「天上の楽園」シャングリラShangri Laという言葉からは、人々の接近を阻むような高峰に囲まれ隔絶された秘境のイメージが想起されよう。本小論では、この楽園シャングリラのイメージがなぜネパールに求められるようになったのか、そしてそのシャングリラをめぐって何が起きてきたのか、経緯を辿りながらネパールにおける観光について概観する。

ヒマラヤのシャングリラ
シャングリラとは、ジェームズ・ヒルトンの小説『失われた地平線』Lost Horizon(1933年)の舞台として描かれた理想郷の名称として知られている。峻険な高峰が連なるヒマラヤの山中に人知れず存在する秘境シャングリラは、『失われた地平線』の映画化に伴い、険しい山道の先にあって容易に到達できない、人里離れた桃源郷のイメージをまとうようになった。このイメージは、もともと西洋の人々によって創造/想像されたものであり、ヒマラヤ山脈の北側に位置するチベットに重ねられてきたが、20世紀半ばに発生した「チベット蜂起」により、その桃源郷のイメージが損なわれるようになった。当時ネパールはヒンドゥー王国であったが、ヒマラヤの高山地域にはチベット仏教を信仰する人々が多く暮らしていたことから、物理的文化的距離が近いヒマラヤ山脈の南側に位置するネパールにそのイメージが重ねられるようになった。しかし、ネパールでは1990年に第一次民主化運動が起こり、経済の自由化が進められるようになると、カトマンドゥをはじめとした都市部で開発が進められ、シャングリラの景観にそぐわないとして批判されるようになった。他方で近隣国のブータンが「地上最後の楽園」シャングリラとして知られるようになり、21世紀に入ると、観光促進を目的に中国雲南省にある中甸県が香格里拉(シャングリラ)県に改名された(2014年に香格里拉市に昇格)。これらの地域がシャングリラを名乗るようになったように、楽園シャングリラは当初の隔絶された秘境的なイメージをまといながらも、観光空間として諸所に創出され、知られるようになった。

ネパールの観光資源
ネパールは世界最高峰のサガルマータ(エヴェレスト 8,848m)をはじめ8,000m級の高峰が連なるヒマラヤ山脈に位置する内陸国である。国土は日本の約4割程度に相当する14万㎢であり[,と、両方使われているため、「、」に統一。以下同。]、南北約200㎞に対し東西約1,000㎞にわたる横長のかたちをしている。このネパールを特徴づける多様な自然や文化を生み出す要因となっているのがヒマラヤ山脈であり、それ自体がネパールの最大の観光資源となっている。

高山地域(ヒマラヤ)には年中雪氷に覆われた銀世界が広がり、その東部では降水量が多いのに対し、西部の高峰の北面は乾燥して荒涼とした景観が広がる。一方、ガンジス平野に接続する南部低地(タライ)には、トラやサイのような野生動物が棲息する亜熱帯ジャングルが広がる。ヒマラヤとタライの間には、降水に地表を刻まれ,起伏に富んだ山地(パハール)が広がり、ここには日本でも見られる茶や椿のような照葉樹が生育している。ヒマラヤの標高差に加えて緯度が低いこと、そしてインド洋から吹いてくるモンスーンが、ネパールの自然環境に多様性をもたらしてきた。

この多様な自然環境は、独自の文化的多様性を育む土壌ともなってきた。人口の約8割がヒンドゥー教を信仰する一方で、北部のチベットとの関わりが深いヒマラヤ高地では仏教を、南部のインドに接するタライではイスラム教を信仰する人々が多く暮らしてきた。2021年の国勢調査によると、142のカースト・民族集団が登録されており、124の母語が登録されている。このように豊かな多様性を擁す自然や文化が、ネパールを特徴づける観光資源となっている。

広く知られているネパールを代表する自然や文化の例として、UNESCOに登録された世界遺産をみてみよう。まず、ヒンドゥー教と仏教が混淆し独特の文化的多様性を育んできたカトマンドゥ盆地が、その歴史的建造物群が高く評価され「カトマンドゥ盆地」(文化遺産)として1979年に登録された。タライには名前の通り仏陀の生誕地として知られ、世界各地の仏教徒の巡礼先として人気を集めている「仏陀の生誕地ルンビニ」(1997年登録 文化遺産)がある。ヒマラヤに位置する自然遺産の「サガルマータ国立公園」は、1976年に国立公園に指定され、氷河や峡谷といった地形、雪豹等の稀少動物に加え、サガルマータ南麓に暮らす少数民族シェルパの文化も評価されて1979年に世界遺産(自然)として登録された。この地域はサガルマータ方面の登山やトレッキングの拠点となり、ネパールの中でも早い時期から観光産業が発達してきた。タライのジャングルに位置する「チトワン国立公園」は、ベンガルトラやインドサイ等絶滅危惧種をはじめとした多様な生物が棲息しており、その豊かな自然と生物多様性が評価され、1984年に世界遺産(自然)に登録された。これら4件の世界遺産の他にも、各民族に由来する文化や、野生動物保護地区、狩猟保護地区等が指定されており、観光客の注目を集めている。

他方で、ネパール最大の観光客送り出し国であるインドにとって、ネパールの魅力は少々異なる。ネパールと同様にヒンドゥー教徒が多いインドの人々にとって、ヒンディーがほぼ通じ、ベジタリアンを含むインド料理も食べることができ、そしてより安価に旅行できることから酷暑期の避暑地として気軽に行ける目的地となっている。また、近年急増している中国人にとって比較的近距離で安く旅行できる目的地として、またアジアの仏教圏の人々にとっては仏陀の生誕地の巡礼地として人気があり、ネパールに誘う魅力は人々の出身国や文化的背景によって多様である。

ネパールにおける観光の発展
ネパールにおける観光の起源を辿ると、「鎖国」政策を解いた20世紀半ばに求められる。「鎖国」といってもチベットやインドから巡礼者や交易者が往来していたが、門戸を閉ざされていた西洋世界にとって、ネパールは近寄りがたい隔絶された秘境的なイメージをまとっていた。

1951年にネパールが「開国」すると、欧米からの登山家や探検家、研究者が公的にネパールを訪れるようになった。この背景に中国情勢によりチベット側からのヒマラヤへの入域が困難になったことが挙げられる。1953年、ニュージーランド人のヒラリーとネパール人(諸説あり)のテンジン・ノルゲイ・シェルパがネパール側から世界最高峰エヴェレストの登頂に成功した。その前後から、世界各国から登山家・探検家がネパールを訪れ、ヒマラヤの高峰に登頂するようになった。

1960年代になると、欧米の若者がヒッピーの「聖地カトマンドゥ」を目指してネパールを訪れるようになった。ヒッピーが多く滞在していたカトマンドゥの旧王宮付近の通りはフリーク・ストリートと呼ばれ、麻薬販売所や麻薬喫茶等が軒を連ね、ある種の楽園となっていた。1973年にネパールで麻薬の売買が禁止されると、ヒッピーの姿はフリーク・ストリートから消えていった。この頃、ネパール政府は外国人観光客による経済効果を期待し、ヒマラヤの銀世界から南のジャングルに至るまで、自然や文化を「商品化」する構想を打ち出した。その構想は、外国の援助を受けて作成されたNepal Tourism Master Plan(1972年)に基づいている。

1980年代になると日本を含むアジア諸国・地域の経済発展を受け、観光客数も増加するようになった。1980年代末に民主化を求める運動が激化すると一時的に観光客が減少するが、1990年に民主化が達成されて経済の自由化が進められ、インド以外からも国際資本が投じられやすくなり、リゾート開発が進められるようになった。観光開発のみならず、都市開発が進められるにつれ、首都カトマンドゥにおける乱開発が顕在化し、聖なる川がドブ川になったと揶揄されるように環境汚染がひどくなった。こうして、先述したようにシャングリラ・イメージが遠のいていくが、ネパール政府は新たにシャングリラを創出するなど観光開発を進めてきた。1998年にはネパール初の観光年Visit Nepal Year ‘98が実施され、1999年にはそれまでで最多の491,504人の観光客を迎えた。この頃、日本はインドに次いで2番目に多い観光客送り出し国となっていた。しかし、1996年に始まったネパール共産党毛沢東主義派(当時)による反政府武装闘争が激化するにつれ、観光客も減少するようになった。ようやく2006年に包括的和平協定が締結されると、2007年に1999年に記録した観光客数を越え、2011年に二度目のネパール観光年Nepal Tourism Year 2011が実施された。

21世紀になって経済的に成長してきた近隣の国・地域からの観光客が増大するようになった。その中で際立つのが中国であるが、他方でスリランカをはじめとした上座部仏教圏からの観光客も増加するようになった。また、ネパール人観光客も国内を旅行するようになり、国内外の観光客の増加を受け、ネパール各地にリゾートをはじめとした観光施設が開設されるようになった。ところが、2015年に発生したネパール大地震により、再び観光客数が激減した。ネパール大地震によってカトマンドゥでは住宅や寺社仏閣のような歴史的建造物の多くが倒壊した。その中には、世界遺産に指定されていた伝統的建造物も多く含まれていた。しかし、建造物の修復や地域の復興がままならないまま観光客数は急増し、2017年には2014年の観光客数を追い抜いた。しかし、2020年に世界を襲ったコロナ禍により、ネパールから,一時的ではあったが、観光客の姿が消えることになった。

ネパールでは政情不安が続き、国際情勢の影響を受けて激動の時代が続いているが、2024年の時点でパンデミック前の水準に回復している。これまで述べてきたように、ネパールを訪れる観光客や、その求めるものは国際政治経済や、国内外情勢によって大きく変わってきたが、ネパールでは一貫して観光産業に大きな期待が寄せられてきた。

近くなりすぎたシャングリラ
エヴェレストをはじめ8千メートル級の高峰は、かつては限られた登山家のみが挑戦するような山であったが、1990年代以降登山家が増加し続けている。その背景に、登山の商業化がある。登山ルートの開拓が進み、装備の高度化・軽量化、登山を支援するサービスの拡充により、資金力があればアプローチしやすい山となった。その結果、ヒマラヤはネパールにとって主要な登山料収入源となり、登山関連の経済機会が創出され、観光資源としてますます重要になってきた。

これと並行して、エヴェレストの山頂では、登頂を試みる登山家やそれを支えるスタッフで渋滞するようになった。人々がすれ違うのも困難な細い道に長蛇の列ができ、天候の急な変化等によって時に大量遭難が起きるようになった。エヴェレストの稜線では、オーバーツーリズムという用語が普及する以前から、自らの生命が危機にさらされるような状況が深刻化していたのである。また、遭難した遺体が放置され、登山家が山に廃棄していく酸素ボンベやゴミ等による環境破壊も問題化している。これに対し、ネパール政府はごみの回収を義務付けたり、登山家の集中を回避するために未開放の山を開放するようになったが、世界最高峰のエヴェレストを目指す登山家は増加の一途をたどり、2025年5月の時点で既に2024年度の登山許可数を越え、過去最多を記録している。こうした問題に対し、ネパール政府は段階的に未開放の高峰を開放して登山家の分散化を図ってきたが、エヴェレストへの登山許可数は増加し続けている。2025年9月から、エヴェレストの登山料を11,000ドルから15,000ドルに引き上げることにし、エヴェレスト山頂の過密状態を回避し、安全性の向上に努めようとしている。

かつて、エヴェレストをはじめとしたヒマラヤの高峰は、人々の接近を阻むような隔絶された秘境、シャングリラのイメージを生み出す源泉となっていた。今日では、到達困難であった世界最高峰の頂上までもが人々で渋滞するようになり、その隔絶された秘境のイメージが後景化していく一方で、これに変わる新たなシャングリラや、ラグジャラスなリゾートが創り出されるようになった。

とりわけ観光現象において起きているこのような変化は、観光開発を進めるネパール政府はもとより、観光客や観光客になり得る国内外の人々の欲望や関係性と無関係ではない。ネパールで起きている昨今の変化は、シャングリラで平和に暮らす人々から、そもそも人々は何を求めてネパールを旅しているのか、問われているように感じる。

写真1

カトマンドゥ:最古の仏教寺院スワヤンブナート 1996年筆者撮影

写真2

ヒマラヤ:ジョムソンから望むニルギリ(7,061m) 1996年筆者撮影

写真3

ヒマラヤ:ジャルコット,ヒマラヤを背景に 1996年筆者撮影

表1

書誌情報
森本泉《総説》「ネパールにおける観光ー近くなりすぎたシャングリラ」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, NP.1.01(2025年00月00日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/nepal/country