アジア・マップ Vol.03 | オマーン
《エッセイ》
オマーンの都市 サラーラ
オマーンは11の県から成る。最大面積を誇るのは隣国イエメンに接するズファール県で、その中心都市がサラーラである。国の南を代表する町と言っても良い。行政単位としてのサラーラを越えて、近傍一帯をサラーラと称する習慣もあるため、本稿ではそのような広義のサラーラについて綴る。
首都マスカトからサラーラまでは1000キロほど隔たっている。飛行機ならば1時間40分、自家用車でも朝から晩まで飛ばせば到着できる。沙漠の一本道には、売店のカラク(ミルクティー)なりアンバー(グリーンマンゴー)なりが良いお供になるだろう。沿岸経路を行けば、海色の濃淡や奇岩怪石の眺望が刺激的である。対向車のパッシングは、前方ラクダ注意の合図である。彼ら“沙漠の船”は、車よりも背が高く、特に暗がりではなかなかの危険物であるが、やさしい目をしてのんきに道を横切るので憎めない。ときおり子連れもいる。
サラーラは、ハリーフと呼ばれる7月から9月ごろの雨季にかけて、一大観光地となる。霧が立ちこめ緑したたる山々、チョウが舞いトンボが羽を休める渓流を前に、アラビア半島にいることを忘れそうになる。これがオマーン人のお国自慢の一つであるが、皮肉なことに緑に慣れすぎた我々には沙漠に立ち尽くす感動のほうが大きかったりもする。
サラーラは古くから貿易で栄えてきたため、遠く中国の貨幣も出土する。現地の博物館で四角い穴のまわりに漢字が配された宋銭を目にすると、我々の東アジア人センサー(?)が反応するのか「おっ」と目を引かれてしまうものである。ココナツとカモメの白浜には、明代に訪ねてきた旅行家、鄭和の記念碑まで建っている。中国の話ついでに述べると、故カーブース国王の教師であった名士の設立した地元の図書館には、四書五経から習主席の著作まで、アラビア語・英語に訳された中国関係書籍が、棚まるまる一つぶん寄贈されている。アラビア半島でも、漢字があるところにはあるものである。
マスカトからサラーラに移動すると、どことなく文化的な雰囲気の違いも感じられる。外面的に分かりやすいところでは、女性は顔を隠している割合が明らかに高く、男性はマスカトならば人前に出るのが憚られるウィザール(腰巻)姿で外を歩く人が少なくない。住民の姓にも特徴的なものがあり、また「なんとかウート」という地名がやけに多い。
ズファール県では、アラビア語のオマーン方言あるいはズファール方言のみならず、まったくの別言語もいくつか話されている。その一つにシャハリー語がある。この言語でサラーラはツァルラトのように発音する。アラビア語の遠い親戚ではあるが、あまりに遠すぎるため、他のオマーン人にはまったく通じず、「ヘブライ語かロシア語か何かかい」と聞かれたことまであると、シャハリー語を話せる地元の青年は苦笑していた。「山の民が話す謎の古代言語」という扱いを受けることもあるそうだが、古代言語との評価はまんざらでもない様子であった。というのも、通常のアラビア語話者が註釈なしでは読めない古典の文章を、自分たちは身内で使っているシャハリー語のおかげで簡単に理解できるという誇らしさを抱いているからである。
例えば『クルアーン』11章72節に見える「バアル」について、古代神の「バアル」と同音だがここは「夫」の意味で、などと教えられなくても、シャハリー語の話者ならばこの語は「主」(世界の主、一家のあるじ、持ちぬし、……)の意味として直ちに了解されるので、世界の主たる神も、一家のあるじたる夫も、当然「バアル」であろうと統一的に理解される。38章42節の「踏む」、55章35節の「炎」なども、他のアラブ人が註釈を確認したくなるくだりであるが、シャハリー語とアラビア語のバイリンガルたちは難なく腑に落ちると言う。
極めつけは、36章の神秘文字「ヤー・スィーン」が彼らの日常語で「おお神よ」と解釈できてしまうことである。古代メソポタミアの月の神スィーンに捧げられた遺物はズファール県でも発掘されるため、古代にはスィーン信仰がこの地まで広まっていたと考えられるが、シャハリー語では現在でも唯一神アッラーの意味でスィーンと言うことがある。例えば誰かがものを落としたり転んだりしたときに「あなたの上にスィーンがいますように!」と唱える。ほかにも、ジャーヒリーヤ詩の言葉やアラビア半島遠方の言葉でも分かるものがあると感じるらしく、シャハリー語話者たちは、今日の国境線に縛られない、時間的・空間的に広がりを持った文明圏の痕跡を実感しながら生活しているように見受けられた。……残念ながら彼らも「ター・ハー」は分析できない由。
さて、『クルアーン』で言及される預言者ゆかりの地がそこかしこにあることも、この地方の不思議な特色である。
例えば、預言者フードの廟は、市街から離れた山中にある。5メートル四方の建物に長さ3メートルの石棺が安置されている。スンナ派スーフィーでシャリーフ(預言者ムハンマドの血筋)だと言う地元の男性が、「よっこらせ」とばかりに腰掛けるものだから驚いたが、それを察したのか「ここには誰も埋まってないからね」と笑った。なんでも、イエメンのハドラマウトにこそ真に預言者の眠る奥つ城どころがあり、ズファールのこちらは預言者の礼拝所にすぎないのだとか。奇しくもハドラマウトの墓所に人々が巡礼するシャアバーン月某日であったが、こちらの廟は閑散としていた。
預言者アイユーブの廟も、これまた山中にひっそりと佇んでいる。フード廟よりは大きめの建物に、長さ4メートル弱の棺が横たわっている。入り口近くに咲いていたブーゲンビリアの明るいピンクの花びらが、棺を覆う緑の布にまで散っていたが、一部、人為的に棺に寄せて飾られたように見えなくもなかった。むろん筆者に詮索する意図はない。
預言者イムラーン廟は、市街地の役場近くにあり、30メートル近いとてつもなく長い棺が特徴的である。入り口に賽銭禁止と明記されている。筆者が訪問した際には、南アジア系の外国人男性2人組とすれ違っただけであったが、彼らは去り際に棺に投げキッスを送っていった。
いっぷう変わったところでは、住宅街の真ん中に、預言者サーリフのラクダの足跡などが保存されている。筆者が訪れた際に案内係がいたのはここだけだった。「実際のところは知りようもないが」と前置きしつつ、「これが杖の跡、あのあたりの黒いのが血の跡……」と解説してくれた。
これらはいずれも政府によって簡素な案内板などが整備されているものの、積極的に観光資源化されているとは言いがたい。オマーンはこうした場所で入場料をとったり関連商品を売りつけたりすることを考える国柄ではない。また、この種の史跡が宗教上の機微に触れうる性質のものであることは言うまでもない。筆者の奇妙な霊廟めぐりに付き合わされた他県出身の友人は、霊廟に靴を脱いでまで入ろうとはせず、(預言者を神と並べて崇める逸脱行為への入り口であるかのように)いぶかしげにちらりと覗いたあとは、ずっと車の中で待ってくれていた。
ここまでいわゆる広義のサラーラについて印象を述べてきたが、結びに、とある古老の戒めも紹介しておきたい。いわく「きょうびの若者は、歴史を知らんのや。空港を開いたらサラーラ空港、モールを建てたらサラーラモール。リゾートも全部サラーラや。猫も杓子も、サラーラ、サラーラ、やかましいわ。ほんまのサラーラは、そんな大きなもんやないで」と。この人物は、サラーラから西へ80キロばかり離れた町に出自を持つシャイフ(一族の長)である。「サラーラ」がオマーン南部の大都市として持ち上げられ、発展を遂げてゆくかげで、昔ながらの地名と伝承が埋もれてゆくようで歯がゆいと指摘する長老の声は、果たして半世紀の後にも伝わっているだろうか。
矍鑠たるシャイフの苦言と、それに続く国際政局の論評が、声高に響く。かつてマスカト、アフリカ、インドとの貿易のために先代たちが3隻所有していたという木造の大船の模型が、応接間の一隅に飄々と構えていた。
書誌情報
村岡静樹《エッセイ》「オマーンの都市 サラーラ」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, OM.4.01(2025年00月00日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/oman/essay01