アジア・マップ Vol.03 | オマーン
《エッセイ》
アジアの自然と景観から アフラージュ
2006年、数千年にわたりオマーンを潤してきたという灌漑システム「アフラージュ」がユネスコの世界文化遺産に登録された。単数形がファラジュ、複数形がアフラージュである。オマーン方言の特徴により、ファラグ、アフラーグと発音されることも多い。水源地から人々の生活圏まで、水が重力に従って流れてくるように勾配を工夫しながら、数キロに及ぶ長大な水路を築いた仕組みのことである。「重力に従って流れてくる」ことが重要で、これにより人々は竪井戸での汲み上げ作業から解放されたのであった。「水が多少しおからいアフラージュのほうが、牛馬にギイギイと滑車をひかせる井戸よりもまし」という現地のことわざには、アフラージュのありがたみがよく表れている。
アフラージュは水源の別により3種に分類される。すなわち、地下水、表流水、湧水を源とするものを、それぞれ、イッディー、ガイリー、アイニーと呼ぶ。このうちイッディーはときに地下60メートルの地底工事を要するため、住民ですら「よくもまあ、ご先祖さまは、現代的な機械もなしに、これを仕上げなさったものだな!」と驚きを隠せないような構造をしている。そのためであろう、オマーン各所のイッディーは、預言者スライマーン(預言者ダーウードの子)が超能力で掘削したのだとも伝えられており、それに因んで、ダーウーディーの称が人口に膾炙している。
もっとも、アフラージュ研究の大家で現在ニズワー大学「アフラージュ研究(考古水文学)に関するユネスコチェア」を率いておられるアブドゥッラー・アル=ガーフィリー教授は、科学者としての立場から、一貫して水源に依拠した命名としてイッディーの普及に努めておいでである。
ところで、このガーフィリー先生は、日本政府の奨学金によって北海道大学に留学され、アフラージュに関する論文で博士号を取得された方である。留学中には三重県の地下水路「まんぼ」をご覧になり、「オマーンのイッディーと見紛うほどにそっくり」とのご感想を抱かれたそうである。オマーン政府肝いりの『オマーン百科事典』において、アフラージュの項目はガーフィリー先生が担当執筆されているが、そこで日本の「まんぼ」が言及されているのには、こんな裏話もあるのだった。
アフラージュの見学先としては、筆者が選ぶのもおこがましいが、例えば古都観光も兼ねて、ダーヒリーヤ県ニズワーや南バーティナ県ルスタークがおすすめできると思う。
ニズワーにあるファラジュ・ハトマインは、水路の分岐点が特によく知られている。そもそもファラジュという言葉が動詞「わける」と同源であるとされる。上流にボールを3つ落とすと、分岐点にある2本の仕切りできれいに3つに分かれるというが、水の分配を象徴するからこそ名所となっているのであろう。筆者が訪れたときは礼拝の頃合いが近かった。楽園を想起させるスィドラの大木が枝を広げて傘をつくっている横を通り過ぎて、人々がファラジュの流水で礼拝のためのお浄めをしてゆく。裏では学校帰りの少年の一団が歓声とともに水しぶきを上げている。いかにもオマーンのアフラージュらしい光景である。
少し下流に移るとナツメヤシ園が姿を現す。受粉の季節と見えて、ベンガル人労働者が表情もうかがえない高所にのぼり、葉陰で作業を進めている。頭上を流れるファラジュの水路橋よりもまだ高い。地べたも余すところなく牧草が育てられ、ぬかるんだあぜ道を進むに、命の緑が目に鮮やかである。からし色のファラジュの横壁に同系色のカエルが固まっている。見上げればバナナの花が赤黒い。この辺りの地名は「バナナ池」というのだった。網の目のように張り巡らされたアフラージュが家々と農園を抱きかかえ、沙漠気候の世界にアフラージュ沿いだけの独特な生態系を守り育てているようなイメージが心に浮かぶ。
ルスタークのアフラージュの特色は、水というより湯が流れていることである。覗きこんだだけでムワッとした気に顔を打たれるが、ナツメヤシをはじめとするこの土地の作物にとっては何のこれしき、小魚まで泳いでいる。お年を召した方が「この魚はサッドと言ってね、昔はパンに練りこんで食べたけれども」と案内してくださったのは、かつての洗濯場の跡である。井戸端会議で何を話していたのだろう。すべてを見守り、水の分配を律してきた日時計は何も語らないが、アフラージュが土木工学的存在のみならず、共同体の運営にかかわる社会的存在でもあったことをうかがわせる。
温水は硫黄分に富むため薬効が期待できるそうで、滝下に入って打たせ湯のように活用する住人もいる。目の前の壁に「ここを打たせ湯に使うべからず」と大書されてはいるが。オマーンにはいい湯がいくつかあるが、ここルスタークも温泉で名高い。ハイサム国王が即位されて間もないころだったろうか、地元の方を煩わせないような時間帯におじゃましたことがある。隣の個室の先客は壁越しに「へえ、わざわざマスカトから運転してきたの!」と歓迎してくれた。ホカホカ上機嫌で車に戻ると、なんとありがたいことにキンキンに冷えた水のボトルがフロントガラスに立てかけられていたのだった。近ごろ観光整備が進んだようだが、ペンキのはげた懐かしの公衆浴場は残してもらえただろうか。
生活の軸であったアフラージュが言語文化に深く入りこんでいるのも道理であろう。「村の娘がファラジュを牛耳る妖怪の生贄に選ばれて泣いていたところ、旅の勇者が通りがかり……」といった説話があるかと思えば、ダーヒリーヤ県バフラーの流れが安定しないファラジュ・ダンは移り気な人というときに引き合いに出される。「ファラジュ・ダン、淵は瀬になる世なりとも」と洒落てみたくなる。
あるいは、シャルキーヤ県の友人が聞かせてくれた迷信がある。なんでも彼の地元では、夜にファラジュで水路の切り替え作業をしていると、物の怪の手がヌッと伸びてきて、股ぐらをギュッとつかまれるのだという。日中であれば男性はディシュダーシャ(長衣)を着て外出するが、夜間にそれも自分の農園に行くのだから、ウィザール(腰巻)姿で構わない。バスタオルを腰に巻いたようなもので、その下には何も履いていない。ファラジュに入ってジャバジャバ作業するためにウィザールをたくし上げるので、背後から妖怪に手を伸ばされたら無防備なことこの上ない。尾籠な話で恐縮だが、実際にこの被害にあって「どうだ、俺の玉の重さは?」とたずね返した猛者もいるとか。もちろん、友人たちが脅かしてやろうと仕掛けたことであり、数十年たった今でも仲の良いおじさんたちの笑い話になっているそうである。
社会の変化に伴い、アフラージュを次世代に継承する上で様々な困難が立ちはだかっているのも事実であるが、今日でもオマーンでは3000本以上のアフラージュが生きて流れている。「エジプトがナイルの賜物なら、オマーンはアフラージュの賜物。我々にとってアフラージュとは文化遺産どころかアイデンティティそのものだ」とは、アフラージュの潤す農園に生まれ育ち、アフラージュ研究をライフワークとしてきたガーフィリー先生の言葉である。
書誌情報
村岡静樹《エッセイ》「アジアの自然と景観から アフラージュ」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, OM.6.02(2025年00月00日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/oman/essay02