アジア・マップ Vol.03 | オマーン

《エッセイ》
アジアの自然と景観から 乳香

村岡静樹(元・在オマーン日本国大使館専門調査員)

 筆者の生まれ育った京都で、お香の老舗におじゃますると、舶来の香原料が見世棚に趣を添えている。白檀(びゃくだん)、沈香(じんこう)、桂皮(けいひ)、丁子(ちょうじ)、……。粉を吹いた飴玉のような、ミルキーイエローの塊が詰まったガラス瓶があれば、それがオマーンの特産品、乳香(にゅうこう)である。フランキンセンスという小洒落た横文字で、美容オイルに含まれていたりもする。

 オマーン南部のズファール県は、最高級の乳香の産地である。例えば世界遺産のダウカというワーディーに行ってみよう。1000本を超える大小の乳香の木が、燦々と降り注ぐ陽を浴びて育っている。

 学校の地理の授業で、乾燥地の涸れ川、涸れ谷をワジと呼ぶと習った。これがそのワジもといワーディーである。川といっても通常は干上がっているし、谷というのも深山幽谷を連想するなら語弊がある。むしろ、だだっ広い河川敷のようなイメージで、見ようによってはきわめて開けた平野的な印象すら与える地形である。アラビア語初学者だったころ――爾来永遠の初学者であるが――課題文に「夢(複数形)のワーディー」とあり、てっきり狭く暗い谷底に希望が塞ぎこんでいるのかと誤解してしまったことがあるが、実際にいくつもワーディーを訪れてみると「明るい夢がのびやかに育つ情景だったんだな」と得心したのだった。

 閑話休題、このワーディーにおり立って、石ころを踏んで進む。よく育った乳香樹は木陰で涼めそうなくらい立派である。カサカサ鳴っているのは何かと思えば、樹皮が古い壁紙のように剥離して、そよ風に揺られているのである。この木に、熟練した職人が専用の道具でよい塩梅で傷をつけ、にじみ出てきた樹脂が、乳香となる。桃栗三年、柿八年ではないが、乳香の木も採取に適した段階に成長するまで10年近くの歳月を要する。腰丈ばかりの若木は、なるほど、これを傷つけるわけにはゆくまいという細さである。

 現に乳香がしみ出ているところもたやすく発見できた。傷つけられた部位は内側の赤茶色が露出して痛々しくもあるが、そこに粘り気のある透明な液体が分泌されている。鼻が触れそうになるくらい近づけば、すでにかぐわしい。さらにじわじわとしみ出て成長し、乳白色の塊となったものが、削りとられて出荷されていくのである。わずかに青みを帯びた不純物のないものが高級とされ、赤っぽく混じりけのあるものは値落ちする。

 オマーンの高級香水「アムワージュ」の名が記されたタグが枝に掛かっていた。これはサラーラまで出向かずとも首都マスカトの瀟洒なモールで購入できる。販売員が「あら、日本のお方はよくいらっしゃいますね」と笑う。帰国して家族のアパートのドアノブに土産袋を引っかけておいたところ、階下の駐輪場まで異国風の香りが漂ってきていたと言われた。

 乳香樹の周辺に生い茂る雑草もまた、いかにも乾燥に強い植物といったふうの、厚みのある小さな葉をしているが、愛らしい黄色や白の花を咲かせているものもあり、案外種類が多いものだなと驚く。大きなアリがせっせと働いていて、トカゲが筆者の視線に気づいたか古枝の上でじっとしている。先ほどからハエの羽音も聞こえる。

 乳香は各種の香辛料と同様に民間療法にも活用されている。オマーン人はまるで万病の薬であるかのようにその効能を力説する。消化器系、呼吸器系、泌尿器系等々のあらゆる方面に効果を発揮し、精神的な特効も目覚ましいという。それゆえ彼らは乳香を焚くのみならず、水にといて飲んだり、そのままガムのように噛んだりして直接摂取することもある。試してみると、ヒノキ風味のチューインガムを作ればこうなるだろうかという代物で、断じて甘くはないが、ハッカ的な清涼感がある。歯にはり付くと後で口にするもの全てに特有の風味が移ってしまう。乳香はアラビア語でルバーン、この地のシャハリー語ではシャハズと言うが、いずれも乳香のほかチューインガムの意味で用いられることもある語である。

 乳香は、数千年もの間オマーンの特産品であり続けてきたため、同国の象徴的な産物となっている。実際、旅人は初日から乳香の洗礼を受けるであろう。オマーン航空の飛行機に乗れば、離陸前の安全講習動画でさっそく乳香や香炉のカットが入り、空港にも乳香のかおりが満ちているのである。

 乳香の文化は、死せる骨董や客寄せ品ではなく、生ける伝統である。あたかも雑貨を買うように、数百円のパッケージから簡単に手に入れられる。最近では石鹸の香りづけや乳飲料の風味づけのように新たな動きもある。

 乳香に限らずオマーン人は男女ともお香を焚いたり香水をつけたりするのが好きである。マスカトのリヤーム公園には香炉を模した巨大なモニュメントがあり、近年出版された『オマーン方言手帳』の表紙にもなっているが、著者S先生に尋ねると、なにか一つオマーンらしいものをということで選んだのがそれだそうである。香り好きなオマーン人たちは、日本の春のイメージとして知られつつある桜にもむせるほどの香気を期待している節があり、美学の違いを感じなくもない。

 肝心の、乳香のかおりを描写し忘れていた。酸味を帯びた薫風なのであるが、なんとも名状しがたい。いま一度思い出そうと焚いてみたが、日本の小さな部屋ではもうもうと上る煙でたちまちのうちに向かいの壁がかすんでしまう。隣人は嗅ぎなれない刺激に驚くだろう。やはり野に置け蓮華草ではないが、乳香もかの地の暮らしにおいてこそのびのびと引き立つような気もする。あるいはかつて3年働いたオマーンへの郷愁がそう思わせるのか。もちろん、わが国で仏壇にあげる線香にも乳香を含むものがあるように、昔からそのかおりは微かながらシルクロードの終着点たるわが国にも及んでいるのであるが。

写真1

写真1 世界遺産「乳香の土地」の一部であるダウカの乳香の木。どの木も同じ向きに傾いて伸びているのが目を引く。風か、日当たりか、何のせいであろうか。(2024年2月、筆者撮影)

写真2

写真2 傷口に樹脂が分泌されている様子。オマーンの友人が「風邪をひいたときに鼻から垂れるあれにも見えなくはないよね」と率直な感想をこぼす。(2024年2月、筆者撮影)

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写真3 サラーラにある乳香の専門店。手前で量り売りをしている。棚には香炉も並ぶ。モダンなスタイルも売り出しているが、伝統的な香炉のほうが長持ちするという。(2024年2月、筆者撮影)

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写真4 サラーラの「乳香の土地博物館」館内。伝統的な香炉で乳香をくゆらせながら係員が巡回している。(2024年2月、筆者撮影)

書誌情報
村岡静樹《エッセイ》「アジアの自然と景観から 乳香」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, OM.6.03(2025年00月00日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/oman/essay03