アジア・マップ Vol.03 | フィリピン
《総説》
フィリピンの日本人コミュニティ
1. 日本からフィリピンへの人の移動
日本からフィリピンへの人の移動の歴史について考えるとき、おそらく3つの波がある。1つ目の波は、1900年代初頭にルソン島北部での高速道路建設のために125人の日本人労働者が移動したことである。これらの人々の多くが北部の都市バギオで暮らしていた。
2つ目の波は、1910年代~30年代にかけて、フィリピン南部のミンダナオ島ダバオを中心として、アバカ(マニラ麻)の生産のために多くの商社が進出していた。当時、ダバオには、約3万人の日本人が暮らしていた。これらの人々の中には、現地の人々と結婚し、家庭を築いた場合も多かった。しかし、これらの日系人の多くは、1941年~45年の日本によるフィリピン占領と敗戦を経た戦後、反日感情の拡大に伴い、自身の出自をあきらかにすることが難しくなった。1980年代になり、反日感情が薄れるとともに、ようやく残留日系人問題が注目されるようになった。現在では、日本にルーツを持ちながらも、戸籍などに登録されていない人々が新たに日本の戸籍への登録を申し出る「就籍」活動が行われている。フィリピン日系人リーガルサポートセンターなどの非営利団体が「就籍」を求める人々の手続きを支援している1。
そして、3つ目の波は、戦後である。本論ではこの波に注目する。1951年、アメリカ合衆国を中心とする、西側諸国に位置した旧連合国と日本との平和条約、「サンフランシスコ講和条約」により、日本は朝鮮半島の独立の承認とともに、太平洋戦争中に損害を及ぼしたアジア諸国(ビルマ、フィリピン、インドネシア、南ベトナム)に対して、2国間協定による賠償を約束した。
2. 戦後のマニラにおける日本人コミュニティの拡大
日本とフィリピンは、1956年に日比賠償協定を結び、「賠償」、「準賠償」の一環として、無償援助、融資を開始した(鷲見1987:127)。これがのちに「政府開発援助」となる。日本からの援助により、発電所、道路、港湾、空港建設などの社会経済インフラ整備などの大規模プロジェクトを中心に整備された。この大規模プロジェクトに付随して、日本企業が進出し、その後、プロジェクトにより整備された地域において、日本企業や日系合弁企業が製造業などを展開している。
国家の政府開発援助による大型事業を主導に始まったフィリピンへの進出は、単に資本の流れだけではなかった。多くの日本人駐在員が企業活動に帯同して、移動した。現在、この流れは日系企業の現地の人々への雇用転換によって減少したが、1980年代にフィリピンに移住し、継続して暮らしている人々も一定数いる。1997年、海外在留邦人の総数は75万3,977人であった。そのうちフィリピンには4,608人(うち永住者661人、国別23位)がいた。マニラ首都圏には、4,393人の日本人が暮らしていた2。2017年時点では、海外在留邦人の総数は135万1,970人であり、フィリピンには16,570人(うち永住者5,423人、国別17位)が暮らしている。マニラ首都圏には、8,156人(都市別で28位)がいる。2024年時点では、海外在留邦人の総数は129万3,097人であり、フィリピンには12,648人(うち永住者4,534人、国別17位)、マニラ首都圏には、5,941人(都市別で29位)となっている3。
3. マニラ首都圏の日本人駐在員たちの生活について
1980年代から2000年代にかけて、日本人や駐在員たちが集中して暮らすマニラ首都圏には、日本人の不慣れな海外生活を助けるように、様々な日本人向けのサービスがあった。まるで日本にあるようなホテル、サウナ、バー、ラウンジ、レストランなどが多くあった。当時、これらの店を利用したのは日本人滞在者であった。また、駐在員たちは、現地の人々を家事従事者や運転手として雇用していた。これらの家事従事者や運転手は同じアパートや住宅に住んでいた前任者から引き継ぐ場合が多かった。
当時、日本人や駐在員たちは、メトロ・マニラ首都圏(Metro Manira)の中心部であるサン・ロレンソやベル・エアーなど、マカティ市(Makati)の周辺にある高い塀に囲まれた高級住宅街に住んでいた。また、マガリヤネス(Magallanes)駅付近にある高級高層アパートにも多くいた。
駐在員は日本での生活とは異なり、雇用している運転手付きの車でマカティやマラテの高層ビル内にある職場に出勤する。そして、駐在員の家族も同じような暮らしを送ることになる。職場においても、日本人駐在員が業務を円滑に行うために、日本人と関わることに慣れている人や、日本語を一定程度できる人が現地スタッフとして働いていた。日本語ができないスタッフでも、日本人が理解しやすい速度の英語を使用し、業務遂行に支障がでないように努めていた。また、駐在員たちの昼食は、現地の価格からすると比較的高額な日本食レストランや中華料理店などでとっていた。そして、買い物もマカティなどの中心地にあるショッピングモールに行っていた。移動もフィリピンの庶民が利用するバスやジプニー、MRTやLRTの鉄道などを使うことはほとんどなかった。
また、日本人駐在員の大多数は男性であり、駐在員同士で夕食をとった後は、日本人が多く集まる男性を対象にした歓楽街でお酒を飲むことが多かった。ブルゴス(Burgos)や、マラテ(Malate)のパサイ・ロード(Pasay Road)、リトルトーキョー(Little Tokyo)と呼ばれる地域には、日本料理店、日本式居酒屋、そして、フィリピン人ホステスがいるカラオケバーや、ラウンジが多くあった。これらのバーやラウンジで働くフィリピン人女性たちは、日本での「興行ビザ」を取得し、エンターテイナーとして働く準備をしている女性たちか、すでに日本にエンターテイナーとして何度も渡航した後の女性たちであった。彼女たちは、流暢に日本語を話し、駐在員たちを接客していた。
日本人駐在員たちや家族にとっては、このような生活はあくまでも「特別な時間」であったかもしれない。
4. 駐在員ではない日本人・日本ルーツの人々
日本人駐在員のこどもたちは、多くの場合は、日本大使館が運営するマニラ日本人学校に通学していた。マニラ日本人学校は、入学の要件として、マニラ日本人会の会員であることが求められる4。日本人駐在員たちの多くは、雇用先との関係でほぼ自動的にマニラ日本人会の会員となっていた。マニラ日本人会は、約3,000名(2025年11月時点)を有する会であり、日本法人や日比合弁企業に所属する人であれば入会できる5。逆に言うと、そうではない日本人には入会のハードルが高く、入会するメリットもあまりない。
親たちは、海外生活が一時的なものであれば、近い将来の日本への帰国を考え、子どもをこの学校に入学させる。しかし、1990年代から2000年にかけて、入学する子どもたちの中に現地で生まれ育った子どもたちを見かけるようになった(永田2011:124-128)。1980年代のマニラ首都圏の治安悪化などにより、日系企業の一部の撤退に伴う日本人駐在員の減少により、日本人学校は定住している駐在員ではない日本人に一時期門戸を広げた。その結果、現地の比日国際結婚夫婦のこどもたちが入学し、比日夫婦の次世代が多い時期もあった。駐在員ではない親たちは、日本の教育を受け、日本語を習得させようとフィリピン生まれのこどもたちを日本人学校に通学させた。ただ、学費がかなり高額なこともあり、就学を継続できない場合も少なくなかった。
このような親たちがフィリピンに移住した経緯はさまざまである。また、比日国際結婚の多くが、日本人の夫で、フィリピン人の妻という構成であった。元駐在員でフィリピンでの生活に惹かれ、現地採用に転嫁する場合もあれば、フィリピンと日本を往来する仕事で出会ったパートナーと結婚し、日本で暮らし、定年した後にフィリピンに移住した家族もいた(永田2011)。このような人々は経済的に安定して暮らすことができた。また、日本人の配偶者も英語やフィリピン語が話せ、現地社会で十分に生活を成立させることができた。しかし、日本でなんらかのトラブルを起こし逃げるようにフィリピンに移住した人々も少なくなった。これらの人々は言語があまりできず、現地の社会にも適応することができず、経済基盤も不安定であった。このような不安定さを解消しようと日本人互助会などを組織して、日本人同士の団結を図ろうとするが、組織内で金銭的な問題を起こして、日本人同士で良好な関係を維持できないことなども多々あった。そのため、現地社会で暮らしている比日国際結婚夫婦の中にはこのような日本人とは距離を置く人たちも少なくなかった。
5. その後の日本人コミュニティ
現在でも、マニラ首都圏には、日本企業や日系企業の駐在員も一定数存在している。しかし、大きく変わったのは、フィリピンの経済的な発展もあり、現地の社会との関わりが増え、以前と比べ日本人とフィリピン人が対等な関係になっているようにみえることである。また、かつては日本人向けだった居酒屋やレストランでは、日本人よりも、現地の富裕層たちのほうが多い。あるいは、日本人向けだった繁華街のカラオケバーやクラブは韓国人向けに変化している。そして、駐在員のこどもたちの中にもマニラ日本人学校ではなく、隣接するアメリカンスクールやブリティッシュスクールに通学する場合が多くなった。親たちはこどもたちに英語を習得させ、将来は、日本以外の国で活躍することを希望しているのかもしれない。
フィリピンに移植された「日本」は日本人ではなく、現地の人々が「日本」を体験し、楽しむ場に変わり、かつて、日本人男性で賑わった歓楽街からは日本人向けの店が姿を消し、韓国人向けにとってかわっている。フィリピンの日本人コミュニティにも時代の変化が押し寄せている。
1フィリピン日系人リーガルサポートセンター(https://pnlsc.com/)[2025年11月1日検索]
2海外在留邦人数統計速報版 (1997年度版) (
https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11552799/www.mofa.go.jp/mofaj/toko/tokei/hojin/97/index.html)[2025年11月1日検索]
3外務省『海外在留邦人数統』(https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/tokei/hojin/index.html)[2025年11月1日検索]
4マニラ日本人学校ウエブサイト(https://www.mjs.ph/) [2025年11月1日検察]
5マニラ日本人会ウエブサイト(https://jami.ph/) [2025年11月1日検索]
参考文献資料
鷲見一夫 1987『ODA 援助の現実』岩波書店
永田貴聖 2011『トランスナショナル・フィリピン人の民族誌』ナカニシヤ出版。
書誌情報
永田貴聖《総説》「フィリピンの日本人コミュニティ」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, PH.1.01(2026年3月13日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/philippines/country01