アジア・マップ Vol.03 | タジキスタン
《総説》
タジキスタン−中央アジアで唯一の内戦経験国−
タジキスタンという国名を聞いて、具体的な場所が思い浮かばない人が大半であろう。また、思い当たる人はアフガニスタンの北側にあるということで危険な地域というイメージを持つかもしれない。実際に、タジキスタンはソ連からの独立直後となる1992年5月から内戦に陥った。だが、今日のタジキスタンを訪れても、内戦があったことを感じることは少ないだろう。それだけ、今のタジキスタンは平和で安定している。
1992年5月に始まったタジキスタンの内戦は、1997年6月の最終和平合意(「モスクワ合意」)で終結したとされるが、筆者は同内戦の終結は国連タジキスタン監視団(UNMOT)が内戦終結を宣言した2000年5月と考えている。それは、内戦はたとえ和平協定が結ばれようともその協定の履行が進まず再発する可能性があり、和平協定の内容の履行が重要と考えられるためである。実際に、モスクワ合意締結後も戦闘は終わらず、国連や赤十字の職員が犠牲になることもあった。とくに、1998年7月20日には、筆者の恩師でもある秋野豊・元筑波大学助教授が、UNMOT政務官として活動していた和平協定に反発するいわゆる「スポイラー」に襲撃を受けて他のUNMOT職員とともに殺害されている。和平協定が調印されたとしても、その仲介役の国連職員が殺害される状況では内戦は終結したと言い難い。秋野も、UNMOTでの活動を政府と反政府勢力に分断されたタジキスタンをつなぎあわせる「困難な外科縫合手術」と表現し、タジキスタンが再度内戦に転がり落ちる可能性を懸念していた。なお、国連が襲撃の対象となったことについて、筆者がタジキスタンにて聞き取り調査をした際に、「イスラーム圏の国家が常任理事国に入っていない国連に正統性を見出さない人たちがいる」という意見を旧反政府派から聞いた。この言葉は、イスラーム圏における紛争解決への国際社会の関与の難しさを示している。
なお、秋野豊先生の事件は、日本政府のタジキスタンへの関与を強める契機となった。同事件を受けてタジキスタンを訪問した、武見敬三・外務政務官(当時)は、タジキスタン和平支援パッケージを表明し、その後、日本政府は5年間で500名の研修員をタジキスタンから受け入れた。旧ソ連構成共和国であったタジキスタンは、(他の中央アジア諸国同様に)国家運営のための人材を欠いており、その育成は内戦からの復興もあり急務であった。日本政府は、人材開発を通じてタジキスタンにおける平和の定着と発展に貢献してきたといえる。そして、2000年5月以降に、単発的な衝突はあったが、再度内戦に陥るようなことはなく、タジキスタンは順調に平和構築の道を歩んできた。
タジキスタン内戦とはここで、タジキスタン内戦の構図について簡単に整理しておきたい。タジキスタンは、地域分類的には中央アジアに位置し、ユーラシア大陸の正に中心的な場所にある。その国土の8割を山岳地帯が占める同国は、他の中央アジア諸国同様に1991年のソ連解体により独立した旧ソ連構成共和国の一つである。タジキスタンは、他の中央アジア諸国(ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス共和国、トルクメニスタン)と同様にソ連時代初期となる1920年代から30年代に作られた人工国家であるため、1991年以前に独立国家であった経験はなかった。つまり、1991年のソ連解体は独立国家としての国造り、つまり近代国民国家としての体裁作りを一から始めることと同義であった。他方で、他の中央アジア諸国と異なり、タジキスタンはその国造りの最初期の段階で内戦に陥りつまずいてしまった。
タジキスタン内戦の基本構造は、地域対立である。タジキスタンは、ソ連時代を通して北部のレニナバード州(現ホジェント州)を南部のクリャブ州(現ボフタール州東部)が支援する形で統治体制が形成されていた。だが、この統治体制に対する他地域の不満がソ連末期になると表面化したものであり、その予兆はソ連時代の1990年2月に起きたアルメニア系難民に対する優先的な住居割り当ての噂に端を発している。「ドゥシャンベ事件」と呼ばれる死者22名、負傷者505名を出した同事件は、タジク共産党指導部が押さえ込む形で終わったが、1991年8月にモスクワで起きたヤナーエフ・ソ連副大統領等保守派によるクーデーター未遂事件を契機にその不満は再度表面化した。ヤナーエフらを支持したタジク指導部に対する抗議運動が活発化し、マフカモフ・タジク最高会議議長は1991年9月7日に辞任した。だが、この共和国最高指導者の辞任にもかかわらず、イスラーム復興党(IRP)など野党勢力による抗議運動は続いた。その結果、ナビーエフ大統領代行は共産党の活動を禁止するとともに、1991年11月24日に大統領選挙の実施を決定した。同大統領選挙は、9名の立候補者が出る民主的な選挙であった。だが、筆者の友人に聞いた話では、同選挙は意味不明な主張をする泡沫候補も多数立候補しており、正にカオスだったとのことであった。日本でも昨今の選挙ではSNSなどの影響もあり、過激な活動をする候補者がいるなど選挙のあり方が問われているが、当時のタジキスタンでの選挙も同様であったのだろうと思われる。そして、それだけ自由な選挙を実施してしまったために、むしろ社会的亀裂を体現するものとなってしまった。ただし、選挙直後は野党勢力も社会的安定を重視した結果、ナビーエフ大統領代行が選挙の勝利者として大統領職に就任することとなり、そのまま1991年12月のソ連解体を迎えタジキスタンは独立した。
ドゥシャンベ北部の保養地ホジャ・オビガルム、ソ連時代からのサナトリウムがある。
タジキスタンが山岳地帯であることがわかる一枚。なお、タジキスタンに温泉はあるが、火山は存在しない。
(2022年9月22日撮影)
独立後も社会的亀裂は修復されず、「ドゥシャンベ事件」の2周年記念集会などを通じて政府と野党勢力間の対立関係は続いた。1992年3月9日には1991年9月の反政府デモの際に、レーニン像撤去を認めていたイクラモフ・ドゥシャンベ市長が権力濫用と収賄の罪で逮捕された。野党勢力は、イクラモフの釈放を求めた大規模デモを3月26日に起こすと、4月11日には東部ゴルノ・バダフシャン自治州が自治共和国宣言を出し、野党勢力支持と最高会議議会の解散を要求した。野党勢力は、ゴルノ・バダフシャンと中部ガルムと中心としている。つまり、タジキスタンの対立構図は、野党連合(ゴルノ・バタフシャンとガルム)対政府(レニナバードとクリャブ)という地域閥間の対立であった。
そして、1992年5月6日に両勢力の対立は頂点に達した。野党勢力は、政府側の国家警護隊と衝突、14名の犠牲者を出しつつも大統領公邸を含めドゥシャンベ市大半を選挙、革命評議会を設置した。5月11日に革命評議会と政府は交渉の結果、ナビーエフ大統領の留任と閣僚の3分の1を革命評議会(野党)に引き渡すことで合意したが、レニナバードとクリャブ州政府は新連立政権不支持を表明したため、対立は収束しなかった。そして、タジキスタン内戦での一番の悲劇とも言われるクルガンチュベでの大虐殺が起きる。クリャブ州の民兵がクルガンチュベ州(現ボフタール州東部)の集団農場を襲撃、ガルム系住民の100名が殺害され、地域間の対立はますます激化していった。
以後、政府側をロシアが支援し、反政府側をイランが支援する形で内戦が激化していった。まず、大きく様相が変化したのは1992年11月であった。クリャブ州ダンガラの国営農場(ソフホーズ)議長であったエモマムリ・ラフモンが1992年11月に国家元首である最高会議議長に選出されたことで、レニナバードをクリャブが支援するという支配構造が、レニナバードがクリャブを支援する形に変わったことであった。これは、ロシアの安全保障に深く関わる露宇宙軍監視基地「アクノー」がクリャブ州に存在することも影響した。ロシアは、クリャブ州勢力を支援し、自国の安全保障のためにイスラーム勢力である野党勢力が政権奪取をすることを阻止する必要があった。また、野党はイランからの支援を受けるとともに、アフガニスタンのタジク系勢力であるマスード将軍率いる北部同盟の支援を受けていた。特に、野党勢力はアフガニスタンに避難し、アフガニスタンから越境攻撃を仕掛けてくる状態であり、戦況は泥沼化していった。
タジキスタン内戦が終結に向かった一因は、各勢力を支援する外部要因の変化であった。アフガニスタンにおいてターリバーンが伸張するとロシア、イラン、アフガニスタン北部同盟がターリバーンを共通の脅威と認識したことで、タジキスタン内戦を収束する必要が生じた。そして、1997年6月の和平協定に結びついた。だが、繰り返しになるが秋野豊・UNMOT政務官の悲劇が語るように、平和の定着は容易ではなかった。ただ、アフガニスタン北部に避難していた野党勢力は、本拠地であるタジキスタン中部のガルムに帰還し、武装解除も進み国民融和は進んでいった。そして、秋野の最後のミッションはこのアフガニスタンからのガルム系住民の帰還と武装解除であった。つまり、秋野のミッションは、無事にその実を結んだ。
内戦終結から四半世紀を経てUNMOTは、2000年5月に議会選挙が平和裡に民主的に実施されたことで、タジキスタン内戦の終結を宣言した。タジキスタンの内戦の契機の一つが、民主的に実施された1991年11月の大統領選挙であったことを考えれば、平和裡に実施された選挙が内戦終結のメルクマールとなったことは当然といえよう。そして、それ以後四半世紀近く経つがタジキスタンは、順調に経済発展を遂げ社会も安定してきている。筆者は、2007年以来、毎年タジキスタンを訪問しているが、ホテルでシャワーを浴びる際も砂混じりのお湯であったし、歯磨きにも水道水は使えなかった。だが、特にこの4〜5年のタジキスタンの経済発展は目覚ましいものがあり、半年ぶりに訪問するだけでも目覚ましいい変化を遂げている。5年前には、ホテルでさえ、クレジットカードを使うことが拒否されたが、今では街中のレストランやスーパーでもクレジットカードが使える店舗が劇的に増えてきている。かつては、コーヒーを飲む人たちは少なかったが、今では多くの人がコーヒーを飲むなどライフスタイルにも変化がみられている。また、夏場には、子供が夜の10時頃でも外で遊んでいる光景をよく見かけるが、それほど治安も安定している。2017年以降、筆者は学生を連れて毎年のようにタジキスタンを訪問するが、学生たちも治安の良さに驚いている。
ただ、その一方で内戦が遠く忘れられた過去になりつつあるのも事実である。内戦を経験したからこそ、タジキスタンは安定を最優先に国づくりを進めてきて、それが実っている状態である。だが、経済発展とともに経済格差が拡大し、内戦の記憶がない世代が増えてきたときに社会が再度不安定化しないとも限らない。実際に、タジキスタンは経済発展を遂げているが、エネルギーアクセスなどに課題を抱えており、特に冬場の暖房エネルギーに課題を抱えている。筆者は、タジキスタンの経済発展のボトルネックともいうべきこのエネルギーアクセスの課題解決を目的に、JST/JICA「地球規模課題対応国際科学技術プログラム(SATREPS)」にて「地中熱を利用した脱炭素型熱エネルギー供給システムの構築」というプロジェクトをタジキスタン科学アカデミーと共同で2021年より実施している。ODAでもある、同プロジェクトを通じて省エネ/脱炭素技術である地中熱ヒートポンプを利用した熱エネルギー(暖房)供給システムの実証を行なっているが、少しでもタジキスタンの経済発展そして社会的安定に貢献したいと考えている。
書誌情報
稲垣文昭《総説》「タジキスタン−中央アジアで唯一の内戦経験国−」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, TJ.1.01(2025年10月3日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/tajikistan/country01