アジア・マップ Vol.03 | タイ

《人物評伝》
歴史学界と政治体制に挑んだ知の巨人ニティ・イオシーウォン(1940年5月23日~2023年8月7日)

玉田芳史(放送大学京都学習センター所長)

 ニティはタイを代表する歴史学者である。独創的な視点と明晰な分析を通じてタイ史研究に大きな足跡を残し、1999年に福岡アジア文化賞の学術研究賞を受賞した。ニティは歴史や文化がエリートによる支配の道具として利用されてきたことを問題視し、学術研究を通じて自由で平等な社会の実現を目指した啓蒙知識人でもある。

 本稿では、歴史学者としてのニティの偉大さ、ニティが啓蒙活動に努めた構造的背景、筆者とニティの接点の3点について記したい。執筆にあたっては、ニティの一番弟子と言えるチェンマイ大学名誉教授のサーイチョン・サッタヤーヌラック による評伝『ニティ・イオシーウォンと記憶の網、並びに民主主義の定義』(Matichon, 2023)の助けを借りた。

写真1

写真1 <サーイチョン『ニティ』>

歴史学者として

 ニティはチュラーロンコーン大学文学部に学び、1966年に「1888年のホー族鎮圧と失地」という論文で修士号を取得すると、同年にチェンマイ大学歴史学科の教員になった。71年から75年にかけてアメリカのミシガン大学に留学し、「歴史としてフィクション:戦前期インドネシアの小説と小説家に関する研究(1920~1942年)」という学位論文を76年に提出した。

 1970年代中葉のタイでは左翼勢力が伸張していた。ニティは75年に、タイ史研究を通じて、人間性を踏みにじる「国家(rat)」や「お国(chat)」と戦うと記していた。chatは、nationと英訳されることが多いものの、国民の意味は稀薄である。ナショナリズム(chat主義)は国民主義ではなく、忠君愛国の意味で用いられることが多い。ニティはその問題点を指摘する作品を多数発表することになる。

 タイでは、5世王治世(1868~1910年)に内務大臣として、6世王治世(1910~1925年)に歴史家として足跡を残したダムロン親王が「歴史学の父」と崇められてきた。親王は史料編纂や著作を通じて、史実の掘り起こしと同時に君主支配の正統性確保に努めた。ニティはそうした主流派の歴史研究に実証研究で挑戦することになる。

 タイ国史に関する主要作品の発表時期は1970年代末からである。皮切りとなったのは、78年刊行の『アユッタヤー朝初期の歴史』である。80年には『アユッタヤー王朝年代記におけるラッタナコーシン朝史』と『ナーラーイ王時代の政治』を刊行した。前者は、ダムロン学派が主たる史料としてきた王朝年代記について、現王朝の1世王時代に仏教重視の国家観確立のために改訂されており、さらにもう一度4世王時代に国王重視の歴史観と合致させるために改訂されていることを実証した。

 1982年には代表作となる『ラッタナコーシン朝初期のブルジョア文化と文学』を発表する。これは、史料が乏しい時代の社会経済状況について文学作品から解明を試みた画期的な力作である。この作品を核として編まれたのが84年刊行の『ペンと帆』であり、クリス・ベーカーが英訳し、Pen and Sailの書名で2005年に刊行された。これら以外にも、85年に『スントーンプー:ブルジョアの大詩人』や86年に『トンブリー時代の政治』が刊行された。

写真2

写真2 <ニティ『ペンと帆』>

 これらの作品を通じて、ニティは第一級の歴史学者としての名声を確立した。左翼を代表する実証歴史学者ソムサック・チアムティーラサクンは1982年に、「ニティは当代随一の能力を備えた重要な歴史研究者」であり、歴史研究にパラダイム転換をもたらしたと絶賛した。

啓蒙知識人として

 ニティは給料をもらいながら留学することを可能にしてくれた納税者の農民への謝意を博士論文で表明している。ニティは庶民の側にたつ姿勢を終生変えることがなく、既存体制維持のために主流派の歴史研究が構築してきた文化を批判した。タイでは代議制民主主義を抑制しようとする意図から、君主は古くから選挙で選ばれていたとか、ラッタナコーシン朝の5~7世王は民主政治の導入に向けて準備をしていたとか、君主はいつも民衆を最優先してきたとかといった主張が繰り返されてきた。そうした言説が1970年代以後に結晶化したのが「国王を元首とする民主主義体制」と呼ばれる政治体制である。この用語は意味が一義的ではないものの、体制における王権を重視する点では一致している。

 主流派の歴史研究によれば、国王と仏教のおかげでタイ社会は良好な状態に保たれてきた。国王は独立を守り、仏教を支え、文芸を振興してきた。下層階級は上流階級からの庇護に恩義を感じている。このため、タイは平穏で幸福であり、革命や改革を必要としない。もし対立が生じても、国王への忠誠と仏教の信仰ゆえに、緊張はじきに解消される。こうした主流派の語りに、ニティは学術的に真っ向から挑戦した。

 専門学術書では読者が限られてしまうため、ニティは1980年代から、新聞や雑誌への寄稿を積極的に始めた。歴史に加えて、ニティは同時代の様々な現象についても分析や説明を加えた。話題は、政治、経済、芸術、文化、宗教、労働、農民、貧困、格差、環境、ジェンダー、科学技術など多岐にわたった。タマサート大学で人類学受講生に尋ねると、多くの学生が一番好きな人類学者はニティと答えたという逸話が残っている。

 ニティは、権力者や権威主義体制に挑戦するエッセイを書き続けた。そこには民主主義の意味に関する戦いも含まれていた。2005年以後には、代議制民主主義をめぐって、黄シャツ派と赤シャツ派の対立が激化した。都市中間層を主体とする黄シャツ派は愚民観に基づいて、代議制民主主義がタイの庶民には不向きであると主張した。ニティは赤シャツ派の大衆が都市中間層と大差がない下位中間層であって、選挙を通じた政治参加を尊重すべきだと主張した。

個人的な関係

 ニティは1982年から83年にかけて京都大学東南アジア研究センターで客員教員をしていたことがある。筆者は当時京都大学の法学研究科院生であったものの、この歴史学者を知らずお目にかかることもなかった。筆者は83年から85年にかけてチュラーロンコーン大学へ留学し、84年の政治史の授業でニティの論文を読まされて、格段に聡明な歴史学者がいることに感銘を受けた。

 留学中の1985年にタイ語で書いた期末レポートを帰国後の87年に膨らませて日本語の論文を発表した。それを英訳して91年に「影響力と権力」という題名で発表すると、ニティが同年中に「タイの文化版憲法」という論文を書き、着想を筆者の論文から得ていると紹介した。面識のないニティが言及してくれたおかげで、この英語論文は94年にはタマサート大学政治学部の紀要にタイ語訳が掲載されたほか、内外のタイ研究者の論文を集めて編まれたタイ社会論の大学教科書にも収録された。高名なニティの宣伝効果は抜群であり、筆者は同世代のタイ人研究者の間に多くの知り合いを得ることができた。ニティの門弟アッタチャックはその筆頭である。付言すれば、女流作家でジャーナリストとして活躍するカムパカーは、ニティの教え子であり、その助言により日本政府奨学金を得て京都大学へ留学したものの、筆者の指導力不足で、学位取得に導くことができなかった。それにもかかわらず、彼女の指導教員ということで、タイでの筆者の知名度は上がった。ニティはこのように知り合いの輪を広げてくれた大恩人である。

 筆者は1992年以後チェンマイを訪ねたときにニティと歓談することが何度もあった。好奇心が旺盛で、いろんな質問が飛んできた。ニティがよく口にしたのは、学術研究で大切なのは問いを立てられること、という言葉であった。筆者はこれを肝に銘じて今日まで生きてきた。

 ニティは1980年代前半の京都での生活に基づいて、『京都:ドーイステープの麓にて』という日本論を89年に出版した。日本の社会や文化に関する見聞録であり、独創的な解釈が盛り込まれている。早稲田大学教授であった村嶋英治氏が推薦の辞を書いておられる。その改訂版が2004年に出版されたとき、筆者が推薦の辞を書かせてもらうことになった。

 筆者はチェンマイ大学人文学部が2023年9月27日に開催した追悼講演会に招かれて「ニティ先生から学んだタイ政治の眺め方」という話をさせてもらった。大きな学恩へのささやかなお返しである。

写真3

写真3 <ニティとアッタチャック『京都第2版』>

 最後に、ほぼタイ語ばかりのニティの作品には日本語への翻訳が2点ある。『ニティ撰集』玉田芳史編、京都大学東南アジア研究センター、1999年。『当てにならぬがばかにできない時代:タイの社会と文化』吉川利治訳、2000年。英語への翻訳はPen and Sailのほか、”The Thai Cultural Constitution” (Kyoto Review of Southeast Asia, issue 3, 2003)がある。

書誌情報
玉田芳史《人物評伝》「歴史学界と政治体制に挑んだ知の巨人ニティ・イオシーウォン (1940年5月23日~2023年8月7日) 」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, TH.9.02(2025年00月00日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/thailand/essay01