アジア・マップ Vol.03 | ベトナム
《総説》
文字の近代化―ベトナムにおける書き文字の変遷
1.はじめに—前近代の文字文化—
多民族国家であるベトナム社会主義共和国(以下、ベトナム)の領域内で文字が使用され始めた形跡については諸説あるが1、本稿で対象とするベトナム国内の最多数民族キン族が文字を使用し始めたのは恐らく漢字が最初であり、金石文資料としては7世紀初頭のものがよく知られている2。紀元前1世紀から10世紀まで北部紅河デルタ地域が漢民族の支配下に置かれ、中部のチャム族、南部のクメール族が属するサンスクリットを媒体とするインド文化圏とは一線を画する漢字文化圏が形成された。因みに、サンスクリット碑文の古いものとして、カィン・ホア省ニャ・チャンで発見されたチャンパ王国期のヴォー・カィン碑文(4世紀?)が有名である。
10世紀の独立以降、中国の統治機構をモデルとする儒教国家が徐々に成立し、官吏登用試験として科挙が採用された。その過程で更に漢文化が浸透し、様々な公文書が漢文で書かれるようになった。一方、その漢字を駆使し本来口語としてのみ存在したベトナム語を文字で表記する試みがなされ、15世紀には広く文学や漢文の翻訳を記す手段として使用されるようになった。さらに17世紀の交易の時代には、西洋のカトリック宣教師がベトナムにも訪れ、説教言語としてベトナム語を習得するためにローマ字に補助記号を付した表記法を考案した。ここに至って、科挙試験による伝統的知識人層が使う、元来中国の書記言語であった「漢字」に加え、本来口語であったベトナム語を表記するために漢字を改良して作成した「チュノム」、そして、キリスト教会の中では「ローマ字」が書記媒体として併存する状況が生まれた。これが19世紀フランス統治時代を迎える前夜のベトナムにおける文字事情である。
2.フランス植民地期から1945年まで
19世紀後半以降、欧米諸国がシャム(現在のタイ)を除く東南アジア各地を植民地化する中、ベトナムはフランスの侵略を受けることになる。この時期を「近代」と呼ぶとすれば(古田2021)、「文字の近代化」の舞台はまさにこの時代ということになる。フランス植民地となった当時のベトナムは阮王朝(1802~1945)の時代であり、第二代明命帝(1791~1841)は、中央集権的な「中華」帝国の建設を目指し、第四代嗣徳帝(1829~1883)に至って、キリスト教宣教師の迫害が激化した。そして、キリスト教宣教師の保護と港の割譲をもとめたフランスに、1885年遂に侵攻を許すこととなる。
フランス植民地政庁の言語政策を端的に表現するとすれば、「ローマ字を介したフランス語へのアクセス促進」と言えるだろう。最終目的はベトナム全土でフランス語を公用文にすることであるが、まずベトナム人にローマ字表記のベトナム語を習得させ、徐々にフランス語にアクセスさせようという考えである。そこでフランスが注目したのがキリスト教会で使用されていたローマ字表記のベトナム語である。
フランス植民地政庁がローマ字表記のベトナム語に目を向ける一方、いち早くベトナム人の中にもベトナム語のローマ字表記に深く魅せられた人物がいた。南部メコンデルタ出身のチュオン・ヴィン・キー(張永記 1837~1898)である。キリスト教に理解のある父親のもとに生まれ、8歳で父を亡くした際、禁教令の中父が助けた神父に勧められベトナム語のローマ字綴りを学び始める。恵まれた語学の才を活かし、様々な著作をローマ字表記のベトナム語で著すことを通じて、ベトナム語の持つ表現力がフランス語に比肩しうることを確信し、ベトナム語のローマ字綴りをクオック・グー(国語)と呼ぶに至ったと伝えられている。
一方、ベトナム人の間で独立運動の機運が高まる中、西欧列強に対抗するための富国強兵を唱え、思想伝達の重要な手段である書き言葉についても近代化が必要であると説いた人物がいる。キリスト教徒の家族に生まれたグェン・チュォン・ト(阮長祚 1830~1871)である。元来漢学の教育を受け、ゲ・アン省で私塾を開き自らも漢学を教えていたが、その際フランス人司教の目に留まりフランス語の手ほどきを受けると同時に、西洋の学問知識にも触れることとなった。その知識を土台に、王朝に様々な建議書を陳情することになるが、中でも1867年の「済急八条」には文字に関する条項「国音の使用」がある。チュオン・ヴィン・キーがローマ字綴りに意義を見出したのに対し、グェン・チュォン・トはあくまで漢字の運用方法にこだわり続け、漢字のいわゆる「訓読み」を奨励する文章を綴った。従来ベトナムには「訓読み」の習慣がなく、そのために漢字より見かけ上複雑なチュノムを別途考案する必要があったわけであるが、漢字をベトナム語で読む訓読みが実現すれば、従来の漢学の知識をベースにベトナム語が書記言語として使用できると考えたのであろう。グェン・チュォン・トの思惑とチュォン・ヴィン・キーの実践には、対象とする文字種に差異はあったものの共通する部分も見られる。それは外来のことばに頼ることなく、「国語」、「国音」つまりベトナム語をあらゆる場面で使用することである。
ローマ字で表記されたベトナム語に対し、当初は忌避していた知識人の間でも、漢字やチュノムに比べてはるかに習得しやすく、ベトナム民族の団結意識を高めるツールとして優れた点を認めざるをえなくなり、徐々に広く受け入れられていくようになった。
3.1945年以降
1945年9月2日、ベトナム民主共和国の独立宣言をハノイのバーディン広場で読み上げたホー・チ・ミンは、当初から識字運動に力を注いでいた。民族にとっての3つの敵「愚・餓・外敵」の「愚」とはフランスの愚民政策による識字率の低さを指していた。元来カトリックの宣教師が考案したローマ字綴りが、チュオン・ヴィン・キーの時代には相当洗練されたシステムとなっており、1940年代には多くの文学作品が書かれていた。そのローマ字綴りが識字運動の重要な道具として選ばれたことも、それまでの経緯を考えるともはや議論の余地はなかったであろう。正規の学校以外にも、多くの場所で「平民学務」と呼ばれる識字教室が開かれ、従来読み書きの世界から隔離されていた大衆が、自らのことばを表記する手段を獲得するに至った。因みに、ホー・チ・ミン自身は漢詩を好んで作詩しており、中国で投獄された際の漢詩集「獄中日記」はしばしば教科書にも取り上げられている。
4.おわりに
1945年以降、徐々に漢字・チュノムを使用する人口は減ってゆき、遂には宗教関係者、古典文献学者以外には皆無となってしまった。文字の近代化が果たした役割は確かに大きかったとは言え、東南アジアの一独立国家としての地位を確立した現代において、伝統文化の継承の問題、あるいは東アジア儒教文化圏の国としての共有財を手放したことの代償は、ベトナム国内においてもっと議論されてしかるべきであろう。
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1 Lê Trọng Khánh (2010)によると、クアン・ガイ省のチャム・フレ族が結縄を使用したことや、ラオ・カイ省サパで岩の上に刻まれた人型模様が、中国周代の象形文字に酷似すること等が報告されている。
2 タィン・ホア省にある618年刻の『大隋九真郡寶安道場之碑文』(潘、蘇編 1998)。近年さらに古いと目される碑文類の発見が丁克順(2017)に紹介されている。
[参考文献]
Lê Trọng Khánh (2010) Phát hiện hệ thống chữ Việt cổ thuộc loại hình Khoa đẩu, Nhà xuất bản Từ điển Bách khoa.
Trương Bá Cần (1988) Nguyễn Tưởng Tô: con người và di thảo, Nhà xuất bản Thành phố Hồ Chí Minh
丁克順(2017)「十世紀前越南漢文碑銘:新發現、文本意義和價值」『中正漢學研究』1: 77~96. (https://ccjournal.ccu.edu.tw/var/file/58/1058/img/173/29_04.pdf)
今井昭夫(2001)「ベトナムにおける漢字と文字ナショナリズム 漢字・漢文からローマ字表記のベトナム語へ」『ことばと社会』5: 126-143.
岩月純一(2005)「近代ベトナムにおける「漢字」の問題」『漢字圏の近代——ことばと国家』村田雄二郎・C.ラマール編、東京大学出版社: 131-147.
清水政明(2018)「ベトナム語正書法の標準化について」『日本語学』2018年5月特大号: 54-65.
古田元夫(1996)『ホー・チ・ミン——民族解放とドイモイ』岩波書店.
古田元夫(2021)『東南アジア史10講』岩波書店.
書誌情報
清水政明《総説》「文字の近代化―ベトナムにおける書き文字の変遷」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.3, VN.1.03(2025年00月00日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol03/vietnam/country02/