アジア・マップ Vol.04 | インド
《人物評伝》
「不可触民」の偉大なる指導者 ビームラーオ・アンベードカル
はじめに
「ジャイ・ビーム!(Jay Bhim!)(1)」。
インドを旅していると、一般的なインドのあいさつ言葉である「ナマステー」や「ナマスカール」に混じって、このあいさつ言葉を耳にすることが少なくなくあるだろう。また注意深く観察してみると、このあいさつ言葉は、特にある属性を有した人びとの間で積極的に使用されているということに気づくかもしれない。その属性というのは、カースト制度の最下層に位置するとされる「不可触民」(2)の出自ということになる。
このあいさつは、ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル(Bhimrao Ramji Ambedkar、1891~1956)という人物の氏名の一部(ビーム)を用いた、強い敬意からくる言葉となる。アンベードカルは、複数の尊称を持つ人物である。「ドクター(Dr.、博士)」、「バーバーサーヘブ(Babasaheb、偉大なる父祖)」、そして「ボーディサットヴァ(Bodhisattva、菩薩)」。
本小論においては、現在においてもなお、不可触民の人びとからきわめて強い崇敬の念でもって慕われているアンベードカルという人物について、上記の尊称をたどりながら紹介し、現代インドに生きる不可触民たちの自己主張のありようについて考えたい(3)。
「ドクター」になる~アンベードカルの学究と「自由世界」の体験~
アンベードカルは、通常、「アンベードカル博士(Dr. Ambedkar)」と呼ばれる。これは、彼が実際に博士号を二つも有していた「博士」だからである。アンベードカルはいかにして、このような、当時においても、また現在においても、稀にみる高学歴を得るに至ったのであろうか。まずは、指導者・アンベードカルが育まれた環境、すなわち、生育環境と教育環境についてみていきたい。
アンベードカルは、1891年4月14日、中央インド(現マディヤ・プラデーシュ州)のマフー(Mhow)(4)という小さな町に生まれた。父ラームジー・マーロージ・サクパール(Ramji Maloji Sakpal)と母ビーマバーイ(Bhimabai)の間の第14子、末子であった。以下にみるように、「アンベードカル」という名は、ハイスクール時代に付与され、以降使用することになる姓である。彼は、幼い頃はビーヴァ(Bhiva)という愛称で、そして後年、大学入学以後は、ビーム(Bhim)という名で呼ばれていた。本小論の冒頭に挙げたあいさつ言葉に代表されるように、この「ビーム」という呼称は、現代インドにおいてもあせることなく、さまざまな時と場において日常的に飛び交っている。
アンベードカルの家族は、現マハーラーシュトラ州に出自をもち、不可触民とされる「マハール(Mahar)」というカーストに属していた。マハールは、インドでもっとも大きな不可触民カーストのひとつであり、特にマハーラーシュトラ州においては、「村のあるところマハール居住区あり」といわれるほど遍在するとされている。マハールの伝統的な仕事としては、村落の雑役、村道の清掃、火葬場への薪の運搬、死畜の片付けなどであったが、その見返りとして小規模な土地を割り当てられ、農業に従事する者もみられた。
マハーラーシュトラ州においては、16~17世紀頃から不可触民が軍隊に勤務する伝統があり、18~19世紀のイギリス統治下においても、多くの不可触民がインド軍に入隊を果たしていた。アンベードカルの祖父は、父方母方ともに軍人であり、また父ラームジーも軍隊に勤務して、軍学校の校長を14年間勤め上げていた。ラームジーは非常に教育熱心であり、収入はさほど多くはなかったが、特に末子のアンベードカルに対しては、惜しむことなくその教育にお金をつぎ込んだ。ラームジー自身、英語とマラーティー語を読み書きすることができ、アンベードカルが高い学歴を得られるよう厳しく指導した。またラームジーは熱心なカビール(Kabir)(5)の信奉者であり、菜食主義者かつ禁酒主義者であった。
ビーヴァという愛称で呼ばれたアンベードカルは、非常に活発でいたずら好き、また負けず嫌いな子どもであった。彼が生まれてほどない1894年、家族はサーターラー(Satara)に移住した。そして1896年、アンベードカルが6歳の時、母親ビーマバーイーが亡くなった。こののち、アンベードカルの面倒は、叔母ミーラバーイーがみてくれることとなった。
サーターラーの軍キャンプ内の学校で初等教育を終えたアンベードカルは、1900年にイングリッシュ・ミディアム(6)の政府系ハイスクールに入学した。登録名は、ビーヴァ・ラームジー・アンベードカルであった。ここにおいて初めて「アンベードカル」という姓が登場することになるのだが、この登録名の所以には、一人のバラモンの存在があった。
もともと、アンベードカルの家族の名前(姓)は、サクパール(Sakpal)というものであった。しかし、低カースト性を含意するこの名を嫌ったラームジーは、先祖の出身村落名であるアンバーワデー(Ambavade)に、マハーラーシュトラ州で一般的な慣習であったように、「カル(kar)」をつけて名前にしようとした。つまり、アンバーワデーカル(Ambavadekar)という姓をもって学校への登録はなされていた。ところで、アンベードカルが学んだ軍キャンプの学校には、授業自体はさておき、生徒たちには強い関心を寄せているアンベードカルという名のバラモンの教師がいた。特に聡明なビーヴァは、この教師のお気に入りであった。教師は、ビーヴァに昼食を分け与えて一緒に食し、ついには、自分の名前、すなわち「アンベードカル」をも与えることになった(7)。
こうしてハイスクールへの入学を果たすことになったアンベードカルであるが、軍人の家庭に育ち、これまで主に軍のキャンプ内で生活を送っていたアンベードカルは、入学以後、「不可触性(Untouchability)」観念に基づく過酷な差別に直面することになる。学校には、アンベードカルともう一人だけ不可触民カースト出身の生徒がいたが、二人とも他の生徒たちから離れて座ることを強要された。アンベードカルがサンスクリット語の学習を希望した折にも、不可触民には禁じられているという理由から、結局、英語とペルシャ語から選択するほかなかった。またある日、アンベードカルが前に出て黒板に答えを書くよう命じられた際、黒板の裏に弁当を置いていた生徒たちは、大慌てで自分の弁当を取りに殺到した。アンベードカルが近づくことによって弁当が「穢れる」前に、避難させようとしたからである。日常生活においても、彼の髪の毛を切ってくれる理髪店は存在せず、また共同井戸から水を飲むことはかたく禁じられていた。
このように、自身の不可触性から比較的自由であった幼少時代から、厳しい差別に直面する学生時代、そしてのちにみるように、さらに不可触性が問われないアメリカやイギリスなどの海外での生活というように、不可触性/不可触民制(Untouchability)から離れた「自由世界」を経験したことは、アンベードカルの思想に大きな影響を及ぼしたものと考えられる。生まれてから始終、不可触性に基づく差別のもとに生活せざるを得ない状況にあっては、そうした自分の被差別の立場が「当たり前」であると感じてしまい、そのことに対する疑問や反抗の意志は生まれ出にくいであろうと思われるからである。つまり、不可触性から自由な世界を経たアンベードカルは、より強く、不可触性/不可触民制の苛烈さと理不尽さを感じることができたのであろう。
さて、1904年、サーターラーでの職を失ったラームジーは、家族を引き連れてボンベイ(現ムンバイー)に移った。アンベードカルは、政府系のエルフィンストーン・ハイスクールに入学した。学校で友人はおらず、教師もほとんどが彼を無視した。アンベードカルは多くの時間を、近くの庭園での読書に費やしていた。
エルフィンストーン・ハイスクール在学中の1905年、14歳のアンベードカルは、9歳のラーマバーイー(Ramabai)と婚約した。町の魚市場で結婚式を挙げた二人の間には、1912年に長男ヤーシュワント(Yashwant)が生まれた。その後、1913年から1924年にかけて4人の子どもが生まれるが、いずれも幼くして亡くなってしまった。妻ラーマバーイーは、控えめでありかつ非常に献身的であったといわれる。彼女自身は読み書きが不得手であるなど、あまり勉学に意を注ぐことなく、またゆえにアンベードカルの思想や活動に深く関わることなく、唯一の息子であり健康に不安を抱えていたヤーシュワントのことを常に気づかっていた。
さて、時間が前後したが、1907年、アンベードカルは大学入学試験に合格する。経済的には困窮した状況であったが、バローダ(Baroda)国(現グジャラート州)の革新的な藩王であったS. ガーヤクワード(Sayajirao Gaikwad)(8)によって給付された奨学金により、アンベードカルはボンベイのエルフィンストーン大学に入学し、1913年には英語とペルシャ語で学士試験の合格を果たした。この頃、アンベードカルの呼称は、幼少時からの愛称であるビーヴァから、現代にまで残ることになる名称であるビームへと替わっている。
大学を卒業したアンベードカルは、1913年1月、藩王の恩義に応えるため、父親の反対を押し切ってバローダ国での就職を決定する。しかし、グジャラート地方のカーストに基づく差別は激しく、彼を欲する部署もなく、勤務先も定まらないなか、転々と異動するほかなかった。こうして所在なくいたアンベードカルに、父危篤の知らせが届く。ボンベイに急ぎ帰ったアンベードカルは、1913年2月2日、父ラームジーの最期を看取った。指導者・アンベードカルの骨格となる学歴は、このラームジーの教育へのきわめて強い意識があったからこそということに疑いはない。
父の死去により、一層の自立を求められたアンベードカルは、バローダ藩王がアメリカのコロンビア大学への留学奨学生を募集している旨を聞き、直接面会を請い、認定を受けることになった。そして1913年7月、アンベードカルはニューヨークに上陸する。アメリカの大学生活は、インドでのそれまでの生活とはまったく異なっていた。不可触性はアメリカ人にとっても、また在米インド人にとってもほとんど意識されず、みなが同じシャワーを浴び、同じ食器を使ってテーブルを共にしていた。アンベードカル自身、何をするにもとがめられることのない「解放感」を満喫しつつ、やがて本分である勉学に没頭していく。アンベードカルは、生活費のほとんどを本の購入にあてており、酒やタバコには一切手を出さなかったとされる。またこの頃から、現代において「アンベードカル博士」を象徴的に表象する装具であるメガネをかけるようになった。
こうしてアンベードカルは、「別世界」に非常に強い感銘を受けつつ、自由と平等という啓蒙思想の感得と、経済学や政治学をはじめとする学問的基盤という、のちの活動の礎となる主要素を獲得していく。アンベードカルは、1915年に「東インド会社の経営と財政」という論文で修士号を取得し、次いで1916年に、博士号取得のために、「インドの国益――歴史的・分析的研究」と題する論文を提出した(9)。
こうして、コロンビア大学において学問的基礎を築いたアンベードカルは、1916年6月、学的追究の場をニューヨークからロンドンへと移す。1年間の奨学金延長許可を得たアンベードカルは、ロンドンでは、弁護士資格取得のための学校に通い、またロンドン大学で経済学も学んだ。しかし、さらなる延長は認められず、奨学金の終了とともに帰国を余儀なくされ、1917年8月、学業半ばにしてインドに帰国した。
4年ぶりにインドに戻ったアンベードカルは、奨学金受給の契約に従って、バローダ藩王国に奉職した。しかし、ここで彼は、再び激しくあからさまなカースト差別に直面することになる。1917年9月にバローダ国に入ったアンベードカルであったが、宿泊所を見つけることができず、ようやく許可を得たパールシー(ゾロアスター教徒)の宿では、パールシーの名を名乗ってなんとか寝床を確保するに至った。職場においても、事務員や部下たちは雑言を隠すことなく、また文字通り書類を投げてよこす始末であった。こうした役所での度重なる差別に加え、ある日彼の出自を知ったパールシーたちが、怒りに満ちて宿所に押し寄せて取り囲んだ。暴行をも辞さない雰囲気の中、ついにアンベードカルは宿泊場所をも失うことになった。
1917年11月、苛烈な被差別の状況のもと奉職を諦めたアンベードカルは、ボンベイへと帰った。ボンベイに帰ったアンベードカルは、求職に奔走の結果、シドナム大学の政治経済学の教授として2年間の職を得て、1918年11月から1920年3月まで勤め上げた。
ロンドンでの学業未完が常に心残りであったアンベードカルは、節約して貯めた資金に加えて、コールハープール(Kolhapur、現マハーラーシュトラ州)藩王(10)からの援助金も受けて、1920年7月、再びロンドンに渡り、中断を余儀なくされた勉学を再開した。ロンドン再渡航後の3年の滞在期間中、アンベードカルはぎりぎりの節約生活とさらなる勉学の追究に没頭することになった。厳格な学究の結果、1921年6月、「英領インドにおける帝国財政の地方分権」と題する論文で修士号を得たのち、1922年の10月には、博士号取得のための論文「ルピーの問題」を提出した(11)。当初この論文は、イギリスの政策を過度に批判しており、また国際為替に関する通説を過度に脱しているとの理由から拒否されてしまった。それを受けてアンベードカルは、数カ所の論述の削除と結論の書き直しに同意する。資金が尽きたアンベードカルは、1923年4月、ボンベイへと戻った。ボンベイから修正論文を再提出したのち、同年11月、彼はついにロンドン大学から博士号を取得するに至った。
こうして、コロンビア大学とロンドン大学の博士号、さらには法廷弁護士の資格という、輝かしい肩書きと実力を携えて、アンベードカルは、いよいよ本格的に「指導者」としての活動を始めていくことになった。
不可触民の指導者・アンベードカルの政治的活動
「バーバーサーヘブ(偉大なる父祖)・アンベードカル」。偉大なる指導者であることをとりわけ強調する尊称である。時に「マハートマー(偉大なる魂)・ガーンディー」(12)と比して称されることも少なくない。ガーンディーが「インド独立の父」と呼ばれる一方、アンベードカルは「インド憲法の父」と言われる。それは後述するように、アンベードカルが、インド共和国憲法起草委員会の委員長を務めたがゆえである。
かように、アンベードカルは、不可触民解放運動の指導者として名高いが、特にその政治的活動において、多くの成果が認められることになる。本節では、アンベードカルの政治的活動を中心に、インド帰国後の彼の活動遍歴をたどっていく。
はじめにここで強調しておきたいのは、アンベードカルは確かに傑出した指導者であったが、彼が遂行した活動は、いずれも彼一人で成し遂げられたものではなかったということである。彼の後ろには、他の不可触民指導者が、そしてカースト・ヒンドゥー(13)の中でも革新的な人びとの存在があった。彼らの助力や協働を得て、アンベードカルは強力に活動を推進することができたのである。
さて、前節の最後と時期的に前後するが、1917年にロンドンから学業半ばでボンベイに戻っていたアンベードカルは、1920年1月、前出のコールハープール藩王の財政的援助を受けて、マラーティー語の隔週刊誌『ムーク・ナーヤク(聾唖の指導者)』を刊行する(14)。この誌上においてアンベードカルは、インドが独立を果たすためには、まず不可触民が解放されていなければならないといったように、不可触民制・カースト制撤廃運動のための論陣を張った。
また、同じ1920年の3月、コールハープール藩王国のマーンガオーン(Mangaon)で、シャーフー藩王列席のもとで開かれた「不可触民大会」においてアンベードカルは議長を務めた。この大会の席上、シャーフーは、アンベードカルが不可触民はもとより、広くインドの傑出した指導者となるであろうことを予言している。さらに同年5月、シャーフー藩王が議長を務め、ナーグプルにおいて「全インド不可触民大会」が開催された。この大会でアンベードカルは、不可触民を正しく代表できるのは不可触民に他ならず、不可触民の政治的権利を自分たちの手で獲得しようという、非常に強い主張を行っている。
ところで、1920年から1923年のロンドンへの再渡航を経て、海外での学業に区切りをつけたアンベードカルは、1924年にボンベイで、初の本格的な組織化となる「被抑圧者救済会(Bahishkrut Hitakarni Sabha)」を設立した。この組織の目的としては、被抑圧層への教育の普及、経済的状況の改善、不平の表明などが設定された。次いで1926年には、ボンベイ州立法参事会議員として指名された。
そして1927年、アンベードカルの運動の真の出発点ともいわれる「マハード・サティヤーグラハ(Mahad Satyagraha)(15)」を実行する。これは、ボンベイ南方の小都市マハードの、高カースト居住区近くにあるチャオダール・タンクと呼ばれる貯水池の使用をめぐる非暴力闘争である。マハード市当局の、同貯水池開放の決定にも関わらず、マハードの正統派カースト・ヒンドゥーたちは、不可触民による貯水池の使用を拒み続けていた。これを違法としたアンベードカルは、1927年3月19、20日の両日、マハード市において、被抑圧者救済会主催の大集会を開いた。この大集会には、およそ5千人から1万人といわれるインド北西部(現マハーラーシュトラ州と現グジャラート州)の不可触民たちが参集した。
初日の演説において、アンベードカルは、不可触民の自尊心向上のための三つの「禁止」を説いた。すなわち、屍肉を食べないこと、残飯を食べないこと、カースト階層を考えないこと、これら三つである。そして二日目、アンベードカルを先頭に、参加者たちはチャオダール・タンクに行進し、その水を汲み、そして飲んだ。この行動は、革新的なカースト・ヒンドゥーの運動家、アナントラーオ・チトレー(Anantrao Chitre)(16)の想定外の提案によるものだった(17)。これに怒った正統派カースト・ヒンドゥーたちは参加者を襲い、多数の怪我人を出すことになった。またバラモンによる貯水池の「浄化」儀礼が執り行われた。
このように、変わらぬカースト・ヒンドゥーの態度に加え、マハード市当局が貯水池の開放を延期したことから、アンベードカルは、同じ1927年12月25、26日、同じくマハードで抗議の大集会を開いた。そしてその席上、アンベードカルは、蔓延するカースト差別の元凶であるとして、ヒンドゥー教の古典籍である『マヌ法典』を、参加者の面前で焼き捨てた。この行為は、バラモンであるサハースラブーデー(Sahasrabudhe)(18)によって提案がなされ、不可触民カーストであるチャーンバール(Chambhar)の指導者P. N. ラージボージ(Rajbhoj)に支持された決断であった(19)。
この1927年のマハード・サティヤーグラハに端を発し、1930年から1936年はインドの不可触民運動の歴史における転換点であるとされている(20)。まず1930年については、二つの大きな出来事が挙げられる。その一つは、ナーシク(Nashik)のカーラーラーム寺院へのサティヤーグラハ闘争である。これは、ボンベイの東北約150kmに位置するヒンドゥー教の聖地のナーシクにあるカーラーラーム寺院に対して、アンベードカルが寺門の開放を求めて起こしたサティヤーグラハ闘争である。この運動は、カースト・ヒンドゥーと激しく争いつつ1935年まで続けられることとなる(21)。
1930年のもう一つの主要な出来事は、11月からロンドンで開催された第一次英印円卓会議である。アンベードカルは、マドラス(現チェンナイ)のシュリーニヴァサン(R. B. Srinivasan)とともに、不可触民代表として出席した。ただし、獄中にあったM. K. ガーンディーをはじめ、インド国民会議派はこの第一次円卓会議を拒否し、欠席した。アンベードカルはこの会議において、インドへの統治権の要求とともに、立法府・行政府・官職における不可触民の登用、また、不可触民および被抑圧階級を、政治的に独立したマイノリティ集団とみて特別の保護を加えることなどを求めた。しかし、ガーンディーならびにインド国民会議派の欠席から、会議は再度もたれることになった。
翌年の1931年9月より、第二次英印円卓会議がガーンディー出席のもとに開かれた。会議の前と会議の席上において、ガーンディーとアンベードカルは、不可触民の分離選挙制をめぐって激しく対立した(22)。不可触民の分離選挙を要求するアンベードカルに対して、ガーンディーは、ヒンドゥー教徒が分断されることになることから、断固として反対の姿勢を貫いた。会議はいったん休会したが、1932年8月、イギリス首相の「コミュナル裁定」が発表され、不可触民は、特別選挙区において留保議席への代表を分離選挙で選ぶ権利、また一般議席代表を合同選挙区でカースト・ヒンドゥーと合同で選ぶ権利という、二重投票権が与えられた。しかし、これに反対して始まったガーンディーの「死に至る断食」により、内外から圧力を受けたアンベードカルは、ついに留保議席の増加と引き換えに、分離選挙を放棄するという妥協案をのみ、「プーナ協定」を結ぶことになった。この1930年から1932年における、会議派指導者層の正統的バラモン主義に基づく頑なな態度に、アンベードカルはおおいに落胆し、不可触民の問題はやはり不可触民自身によってしか解決し得ないという確信を抱くに至った。
さて、これ以後の1936年から1942年は、アンベードカルの運動にとって、経済的・政治的急進主義の時代であるとされる(23)。1936年8月には「独立労働党(Independent Labour Party)」を創立し、翌年の選挙でボンベイ州において圧勝するが、これは労働者、小作農民との連合を目論んだ組織であった。またこの時期、アンベードカルはボンベイ州議会において、ガーンディーが用い始めていた「ハリジャン(Harijan、神の子)」という呼称を議案中に用いることに反対している。これは、この「ハリジャン」との呼称を、ガーンディーらカースト・ヒンドゥーの温情主義的差別用語であるとして嫌悪したことによるものであった。
こうして1937年から1938年は、アンベードカルのもと、社会的搾取である「カースト」に対する闘争と、経済的搾取である「階級」に対する闘争とが、ともに結合していこうとした時期であったとされる(24)。すなわち、1930年代末から1940年代初にかけて、不可触民とカースト・ヒンドゥー、労働者、小作農民が互いに協力を模索し合ったのである。この時期、アンベードカルは、バラモン主義に代表されるヒンドゥー教のイデオロギーについては拒否しつつも、運動のために他のカースト・ヒンドゥーとの協力を求めたことから、ヒンドゥー教それ自体については曖昧な態度に終始することとなった。つまり、政治的・イデオロギー的な敵としてバラモン主義を設定して、非バラモン、労働者、小作農民を、インド国民会議派から独立した政治戦線として統一しようとしたのであった(25)。
しかしこうした目論見も、他の農民・労働者運動が隆盛をみたことと、独立労働党の影響力がマラーティー語地域に留まったという限界から、失敗に終わった。そして1942年、被搾取・被抑圧層としての広範囲な協力への断念から、全インド的に不可触民を代表する組織として「指定カースト連合(Scheduled Caste Federation)」を新たに設立し、独立労働党はこの新党に吸収されることになった。新党の名称に「指定カースト」が明示的に謳われていることからも分かるように、1942年から1956年の死に至るまでは、アンベードカルが指定カースト連合を基盤に、不可触民の政治的代表となった時期であると位置付けられている(26)。
当初、アンベードカルは「反ヒンドゥー」、「反バラモン主義」、「反資本主義」を旗印に、小作農民や労働者ら不可触民以外の被搾取・被抑圧層との連合を志向していた。しかし、それはすなわちシュードラなどの「ヒンドゥー」と協力することを余儀なくされ、その結果「反ヒンドゥー」の宣明と矛盾をきたすことになった。つまり、非バラモンではあれども、同時に非不可触民でもあるヒンドゥーたちとの協働の困難さについて、次第に強く認識するようになったのである。こうしてアンベードカルは、不可触民の代表としての自分をより鮮明に打ち出すようになっていった。
そして第二次大戦も終わった1946年、いよいよインド独立に向けての動きが本格化し、同年2月にイギリス政府は、各界代表から独立付与の方法についての意見を聴取している。その場において、指定カースト連合代表として会談に臨んだアンベードカルは、不可触民の分離選挙を要求し、また中央・州の議会議員、中央・州の内閣閣僚、および官職における不可触民のための一定割合の「留保」を要求した。こうして、1947年8月、インドはついに分離独立を果たすが、その新生インドの閣僚名簿にアンベードカルは法務大臣として名を連ね、さらに憲法起草委員会の委員長に選出された(27)。
アンベードカルを中心に作成された憲法草案において、アンベードカルはいくつかの妥協を見せている。その一つが、不可触民分離選挙の撤回であり、留保議席・合同選挙案の「プーナ協定」に沿ったものとなっている。しかし一方では、不可触民制の廃止、立法府における不可触民議席の留保、行政官庁における不可触民出身職員の留保、国家による不可触民の生活改善・教育向上政策などは、従来の主張通り憲法草案に盛り込まれた。
この憲法草案は、1949年11月26日に採択、翌1950年1月26日より施行された。こうして憲法制定作業を終えたアンベードカルは、次にヒンドゥー法改正にとりかかった。女性の側に離婚の権利を認めず、財産相続権もほとんど認めず、また女性自身の名前で銀行口座を開設することもできないなど、女性に主体性を認めないヒンドゥー法の改正を目指したのである。しかし、やはり保守派ヒンドゥー教徒の反発は激しく、結局廃案とされることになり、失意のアンベードカルは法務大臣の職を辞すことになる。この後、アンベードカルは野党として活躍する一方、次節で詳しくみるように、仏教への改宗に向けて宗教的活動をより活発化させていくことになる(28)。
不可触民の菩薩・アンベードカル~仏教改宗の道~
アンベードカルに付せられた尊称のうち、やや意外に思われるかもしれないのが「ボーディサットヴァ(菩薩)」ではないだろうか。仏教のなかでもきわめて高い位と任じられる存在となるが、これは、アンベードカルが晩年に行った宗教的な導き――すなわち仏教改宗――ゆえとなる(29)。本節では、アンベードカルの宗教的活動について、特に仏教との関わりを中心にみていきたい。
アンベードカルの宗教に関する原体験は、上述したように、父親が熱心なカビールの信奉者であったことに求められる。父ラームジーは、子どもたちに『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』(30)を朗唱し、またカビールをはじめとするバクティ思想家の詩歌も教示した。アンベードカルは後年、自身の信奉の対象として、カビール、フレー(31)、ブッダの三人を挙げたが、カビールに関しては、カビール自身の革新的思想ゆえであることはもちろん、加えて、父親の少なからぬ影響もうかがい知ることができる。
そうしたアンベードカルが仏教に強い関心を向けるのは、後述する1935年のヒンドゥー教棄教宣言以降のこととなる。1927年の「マハード・サティヤーグラハ」の行動において、12月の大集会の席上、『マヌ法典』を焼き捨てた頃から、アンベードカルは、ヒンドゥー教への批判をはばかることなく公言するようになり、次第に改宗を口にするようになっていた。そして1935年10月、マハール・カーストを中心とする不可触民の大会において、アンベードカルは「わたしはヒンドゥー教の中に生まれたが、ヒンドゥー教徒として死ぬつもりはない」という宣言をもって、ヒンドゥー教の棄教を明言する。
しかし、このヒンドゥー教棄教宣言から実際の改宗へは20年以上の年月を要することになる。そしてこの間、イスラームやキリスト教など、実にさまざまな宗教から誘いの声がかかっており、アンベードカル自身の気持ちもかなり揺れ動いていたとされる。ただし、これらの誘いは主に、不可触民という強力な「票田」を求めてのものであり、同じく会議派をはじめとするヒンドゥー教の側も、この「票田」を失うことを恐れて、不可触民たちの改宗に戦々恐々としていた。
このような政治的目的からの改宗の誘いには、もちろんアンベードカルはのらなかった。当初、アンベードカルの念頭にあった改宗先は、シク教であったとされている。これは、シク教がインド文化の中から生まれたという点に、アンベードカルが強く惹かれたからである。対して、イスラームはイスラーム支配の脅威を生むことになり、またキリスト教はイギリス支配を強化させることになるとして避けられた。しかし、結局はシク教も、アンベードカルの構想の中から消えることになる。これは、シク教徒への改宗に伴う「留保制度」の権利の失効を危惧してのことであったとされている。
こうして、1956年にとうとう改宗へと至るのであるが、それはその時点での法的・制度的目標の達成にも関わらず、運動の精神的目標については未達成のままであったことから、改めて改宗の必要性を痛感したがゆえであった(32)。すなわち、運動によってさまざまな制度的権利の獲得を果たしたのであるが、それに反して認識のレベルでは、カースト・ヒンドゥーにも、そしてまた不可触民の側にも、特記すべき変革がみられなかったからである。こうしたことからアンベードカルは、情熱と意欲を持つためには、健全な精神がなければならないとして、精神的変革の必要性を確信し、「不可触民が、あの血も涙もない宗教、ヒンドゥー教のくびきの下で奴隷のように働き続ける限り、かれらにより良い生活を求める希望も情熱も意欲も持てるはずはない」(33)と、ヒンドゥー教からの脱却を改めて強く宣言したのである。
それでは、アンベードカルが仏教の道に進んだ理由は何だったのであろうか。まず何よりも、仏教が強く平等を唱道しており、また、四ヴァルナ制度や「不可触民制」のようなヒンドゥー教の不平等性と闘ってきたことが挙げられている。また、仏教が完全に道徳に基づく宗教であり、道徳以外のなにものでもないこと、さらには、仏教はマルクス主義に打ち勝つことのできる唯一の宗教であるということも述べられている。そして、「これは世界で最も素晴らしい宗教であり、そのことは絶対に間違いありません」(34)として、アンベードカルは仏教への献身を宣言したのである。
しかし、これらの理由に加えてより重要と思われるアンベードカルの主張は、仏教とインド文化との、さらには自身の出身カーストであるマハールとの関係である。つまり、仏教はインドで生まれ、インドで栄えた宗教であるということに加え、マハールにとっては、それが祖先の宗教であったということも説いている。アンベードカルの主張によれば、仏教はアーリヤ人に征服されるまでのマハール・カーストが信仰していた宗教であり、ゆえにこの「再改宗」によって、マハールの人びとは自分たちの真のアイデンティティに目覚めることができるとしたのである(35)。
このように、指導者・アンベードカルにとって、「改宗とは過程であり、ただ彼とのみ出発するものではなく、共同体の多数の人びとの選択とともに出発するもの」(36)であった。つまり「指導者として」あったアンベードカルは、自分の改宗がただ自分一人に収まるものではなく、共同体の他の多くの人びとに及ぼす影響を自覚しており、現在の人びとのみならず、共同体の未来にまで、その決定が波及していくであろうことを認識していた。ゆえにこそ、棄教宣言から改宗行動までに長期にわたる時間を要することになり、また改宗先の決断には吟味と熟考を重ねたものと思われる。
そうしたアンベードカルの「宗教」そして「改宗」に関する認識がよく出ているのが、次のアンベードカルの宣明である(37)。
人間が宗教のためにあるのではなく、宗教が人間のためにあるのです。人として生きるために、改宗しなさい。組織するために、改宗しなさい。力を得るために、改宗しなさい。平等を確保するために、改宗しなさい。自由を得るために、改宗しなさい。あなたの家庭生活を幸福にするために、改宗しなさい。
この言明から分かるように、アンベードカルにとって「改宗」とは、単に信仰の変更をいうだけのものではなく、それによって実質的な生活状況の進展がみられるべきであるとされた。また、アンベードカルの「宗教」観としては、神の存在の有無を議論するものというよりは、「個人が幸福に生き、発展できるように、いかに行動すべきかを指し示したもの」ということになる。ここから、アンベードカルが仏教改宗に求めたものが何であったか、明示的に読み取ることができよう。
おわりに~現代に生きるアンベードカル~
毎年4月14日、アンベードカルの誕生日には、インド全土の各地において、アンベードカル生誕祭(Ambedkar Jayanti)が盛大に祝われている。また10月半ばのダンマ・ヴィジャヤー(Dhamma Vijaya)の日、インド中央部の都市ナーグプルに、数万人ともいわれる不可触民の人びとが熱気をもって集う。その中心地は「ディークシャー・ブーミ(Deeksha Bhoomi)」(写真2)、アンベードカルが1956年10月14日に仏教への大改宗式を行った場所である。また、12月6日のアンベードカルの命日(38)には、ムンバイーの「チャイティヤ・ブーミ(Chaitya Bhoomi)」(写真3)に、同じく多数の不可触民たちが粛々と参列する。ここは、アンベードカルが荼毘に付された地となる。
かように、現在においても、不可触民の人びとのアンベードカルに対する尊崇の念と敬慕の情は絶えることがない。むしろ、不可触民としての自己主張の強調とともに、増大しているとも捉えられる(39)。とりわけ、1991年のアンベードカル生誕100周年は、アンベードカル以後の不可触民解放運動(ダリト運動)が改めて活況をみせる契機となり、同年に始まったインド政府による国の新経済政策(経済自由化政策)とも相まって、アンベードカルの遺志を継ぐ不可触民の人びとの政治・経済・社会、そして宗教的活動が、さらに大きく展開することとなった。
2025年9月3日、筆者は、ムンバイーでのアンベードカルの邸宅であった「ラージグラハ(Rajgruha)」(写真4)を訪れた。現在でもアンベードカルの直系親族(孫)の一家が住むという家屋は、一階がアンベードカル博物館となっており、二階が家族の居宅となっている。一階では、ボランティアで務めているというサマター・セイニク・ダル(Samata Sainik Dal)(40)の二名の女性が入り口で受け付けを担い、二名の男性がそれぞれ警備と案内を担っていた。ここは、デリーで逝去したアンベードカルが運ばれてきた場所であり、この後、チャイティヤ・ブーミに移され、荼毘に付されたものとなる。いずれの地も、12月6日には、数多のアンベードカル信奉者が集う「聖地」となっている。また筆者が訪れた際も、両地とも、途切れることなく信奉者が訪れており、特にチャイティヤ・ブーミでは、数多くの参拝者が、常駐する僧侶に真摯に礼拝を行っていた。
「ボーディサットヴァ・ドクター・バーバーサーヘブ・アンベードカル」。
「ナモ・ブッダィ」、「ジャイ・ビーム」。
今日も人びとは、アンベードカルへの敬意と、不可触民としての自己主張とを込めて、合掌・礼拝を行い、あいさつを交わしている。
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(1) 「アンベードカルに勝利を」という意味をもつ言葉である。
(2) インド憲法において、「不可触民制(Untouchability)」は廃止が明記されていること(第17条)、また何より、きわめて差別的な語句であることから、「不可触民(Untouchable)」との語は、現在、基本的に使用されることはない。現在は、解放運動のなかで登場した自称である「ダリト(Dalit、「抑圧された者たち」の意)」や、主に行政用語として使用される「指定カースト(Scheduled Caste)」が用いられることが多い。ただ、日本においては、これらの呼称は馴染みが薄いこと、またかれらの被差別の歴史性・社会性に強く意識をおくために、本稿では、鉤括弧を付して「不可触民」との語を用いることとする。ただし、鉤括弧の多さから文面が煩雑化してしまうことを避けるために、初出以降は、文脈的に必要な場合を除いて、鉤括弧は付けずに表記するものとする。
(3) 本小論は、舟橋健太、2014年、『現代インドに生きる〈改宗仏教徒〉―新たなアイデンティティを求める「不可触民」―』(昭和堂)の第2章(pp. 75-101)からの抜粋に、加筆修正を施したものとなる。また、アンベードカルの生涯に関しては、以下の伝記を参考にまとめ上げたものとなる。ダナンジャイ・キール、1983年、『不可触民の父 アンベードカルの生涯』、山際素男(訳)、三一書房。山崎元一、1979年、『インド社会と新仏教―アンベードカルの人と思想 〔付〕カースト制度と不可触民制―』(刀水 歴史全書3―歴史・民族・文明―)、刀水書房。Gail Omvedt, 2004, Ambedkar: Towards an Enlightened India, New Delhi: Viking, Penguin Books India (P) Ltd. Vasant Moon, 2002[1991], Dr. Babasaheb Ambedkar, Translated from Marathi by Asha Damle, New Delhi: National Book Trust.
(4) 現在の公的な地区名は、“Dr. Ambedkar Nagar”となる(https://www.britannica.com/place/Dr-Ambedkar-Nagar、アクセス日:2025年10月31日)。
(5) 15~16世紀に生きたバクティ運動の聖人。ヒンドゥー教とイスラームを批判的に統合しつつ独自の一神教を説き、また「カースト制度」(当時のジャーティに基づく身分階層制)を否定したとされる(辛島昇他監修、2012年、『[新版]南アジアを知る事典』、平凡社、168-169頁)。
(6) 教育言語として「英語」を用いる学校のこと。ヒンディー語を用いる学校のことは「ヒンディー・ミディアム」といわれる。
(7) アンベードカルは、長きにわたってこの教師への敬意を抱き続けており、1927年に再会を果たした折には、「グル」として崇めている。一方、後年のアンベードカルの、バラモン主義に対する激しい攻撃からすれば、バラモン教師から名前をもらい、終生その名を冠していたことに矛盾を感じるかもしれない。しかし、アンベードカルが批判したのは、あくまで「バラモン主義」そのものと、このバラモン主義に基づく差別性であって、バラモン個人ではない。アンベードカル自身の言葉を引けば、「われわれはバラモン主義に抗しているのであって、バラモンに抗しているのではない」(Omvedt 2004: 31)ということになる。
(8) ガーヤクワードは、ボンベイを中心に広く西インドで優勢であり、反バラモンの気概にあふれるクシャトリヤ・カーストを自認するマラーター(Maratha)であり、ちょうどこの頃、有能な不可触民の子弟に教育上の援助を実施することを公言していた。
(9) この論文は、1925年にロンドンで『英領インドにおける地方財政の発展』というタイトルで出版される。この出版後、アンベードカルはコロンビア大学から博士号を取得することになる。
(10) シャーフー(Shahu Chhatrapati)という名のこの藩王は、当時、前出のバローダ藩王ガーヤクワードとならんで、革新的思想に基づく施策を推進していた。シャーフーは、クシャトリヤの地位を主張し、反バラモンを強く唱え、さまざまに革新的活動を行っていた。特に、1902年に発令された、奉職枠の50%を非バラモンで占めることというシャーフーの命は、インドの積極的差別是正制度(Affirmative Action)である留保制度(Reservation System)の端緒でもある。また不可触民に対する関心も強く、教育の援助や職への登用に留まらず、公然と食事を共にするなど、積極的に啓蒙的活動を行っていた(キール 1983:37; Omvedt 2004: 24-27)。
(11) アンベードカルは、この論文の審査の間、ドイツのボン大学に留学している。また同じ1922年、弁護士資格の取得も果たしている。
(12) インド独立運動の指導者として著名なモーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー(M. K. ガーンディー、1869~1948)。
(13) 不可触民以外のカースト、すなわち、バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラに属するカーストを指す。不可触民の人びとを、カースト制度の枠外、つまり「アウトカースト」であると捉える認識に基づき、それ以外の人びとについて、「カースト・ヒンドゥー」と表される。
(14) この雑誌は、1年ほどの短命に終わった。
(15) サティヤーグラハ(Satyagraha)は、M. K. ガーンディーが提唱し、開始した非暴力抵抗運動である。サティヤー(Satyā)は「真理」を、アーグラハ(Ā-grah)は「強い要望、熱心さ」を意味する。非暴力・不服従を徹底することによって、大願に至ることができるとする運動方針である。
(16) カースト・ヒンドゥーの多くが「正統派」、すなわち保守的な思想を持つが、対して、特に革新的なカーストとして、マラーター(Maratha)やカーヤスタ(Kayastha)を挙げることができる。かれらは、アンベードカルの重要な賛同者・支援者となった。このチトレーも、カーヤスタ・カーストに属する(Omvedt 2004: 29)。
(17) Omvedt, 2004, p. 30。
(18) G. N. サハースラブーデーは、ボンベイの労働者の指導者、N. M. ジョーシー(Joshi)に率いられた、社会奉仕連盟(Social Service League)の一員であった。彼は、のちに、アンベードカルが1930年に刊行した週刊誌『ジャナター(Janata、人民)』の編集長を務めた。
(19) Omvedt, 2004, p. 32。
(20) Omvedt, Gail, 1994, Dalits and the Democratic Revolution: Dr. Ambedkar and the Dalit Movement in Colinial India, New Delhi: Sage Publications, p. 161.
(21) しかし、この運動は結局失敗に終わり、このような、同一宗教内における同等の扱いの希求、すなわち、ヒンドゥー教内における不可触民解放運動といったものの無意味さを、アンベードカルは強く認識するようになる。
(22) 分離選挙制とは、不可触民が独自の候補者を立て、かつ、不可触民だけが投票権を有して独自の選挙を行う制度である。
(23) Omvedt, 1994, p. 191。
(24) Omvedt, 1994, p. 207。
(25) Omvedt, 1994, pp. 207-208。
(26) Omvedt, 1994, p. 218。
(27) この時期、糖尿病、高血圧など、継続的に不調を抱えていたアンベードカルは、1948年4月、かかりつけの医師の助手であったカビール女医(Sharda Kabir)と再婚を果たしている。しかし、彼女がバラモン・カーストの出身であったことから、この再婚は激しい議論を巻き起こし、現在においてもなお、アンベードカルの死の責を彼女に負わせる論が唱えられるなど、感情的とも捉えられる批判が続いている。
(28) 仏教への集団改宗の前に、アンベードカルは、政治的活動として、指定カーストを越えて、指定トライブ、後進諸階級などの被抑圧階層全てを統合した新しい政党である「共和党(Republican Party of India)」を組織する予定であることを公表している。しかし、この共和党の正式な発足は、アンベードカル死後の1957年10月のこととなる。
(29) アンベードカル信奉者の、特に仏教徒の人びとのあいさつにおいては、「ジャイ・ビーム」と並んで「ナモ・ブッダィ(ブッダに帰依します)」との言葉も用いられる。
(30) いずれも、インドの国民的叙事詩となる。
(31) ジョーティラーオ・フレー(Jotirao Phule、1827~1890)。マハーラーシュトラ州出身の教育家・社会改革活動家。低カースト出身で、不可触民を含む低カースト子女の教育推進に努めた。真理探究者協会を設立し、カースト制度や不可触民制度、また女性差別に反対し、各種の改革運動を推進した(辛島昇他監修、2012年、前掲書、713頁)。
(32) Jayashree B. Gokhale, 1986, “The Sociopolitical Effects of Ideological Change: The Buddhist Conversion of Maharashtrian Untouchables.”, Journal of Asian Studies, 45(2), pp. 269-292.
(33) B. R. アンベードカル、1994年、『カーストの絶滅』(インド―解放の思想と文学 第5巻)、山崎元一・吉村玲子(訳)、明石書店、238頁。
(34) アンベードカル、1994年、251頁。
(35) Gokhale, 1986。
(36) Omvedt, 2004, p. 72。
(37) 棄教宣言翌年の1936年5月の二つの演説、すなわち、5月17日のカルヤーン(Kalyan)におけるものと、5月31日のダーダル(Dadar)におけるものにみられた言明となる。これらの演説はいずれも、多くがマハールの大聴衆を前にマラーティー語で行われたもので、ここでの典拠元は、その英訳本となる(B. R. Ambedkar, 2004, Conversion as Emancipation, New Delhi: Critical Quest, p. 30)。
(38) アンベードカルの逝去は、1956年12月6日のことであった。すなわち、仏教を広く不可触民たちの間に、そしてインドの人びとの間に、再度普及させるとの目的をかなえることなく、実際の仏教改宗から2ヶ月弱で、アンベードカルは世を去ったことになる。
(39) こうした状況は一方において、アンベードカル自身が厳に禁じたアンベードカルの「神格化」ともなり、アンベードカルに関する批判的分析が行いにくい状況を生んでもいる。
(40) 1927年に、アンベードカルによって設立された「平等を推進するための組織」である。現在においても活発に活動しており、被抑圧層の人びとを保護する目的で、各種の警備やパトロールに従事している(https://www.samatasainikdalindia.org/、アクセス日:2025年11月5日)。
書誌情報
舟橋健太《人物評伝》「「不可触民」の偉大なる指導者 ビームラーオ・アンベードカル」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.4, IN.9.01(2026年00月00日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol04/india/essay01/