アジア・マップ Vol.04 |インドネシア

《総説》
インドネシアにおける環境倫理と宗教

中鉢夏輝(慶応義塾大学経済学部日本学術振興会特別研究員PD)

 インドネシアは、その地理的特性から、地震、津波、洪水、地滑り、干ばつといった自然災害が発生しやすい国である。さらに近年では、廃棄物や工場排水、自動車の排ガスなどに起因する各種の環境汚染に加えて、全国的な異常気象や地盤沈下といった問題が、人々の生活基盤を深刻に脅かしている。こうした状況下で、政府やNGO、地域住民の間で環境保護の必要性が広く唱えられるようになっている。本稿では、こうした訴えに表れる、インドネシアの環境倫理の一端を紹介していく。

環境倫理とは

 「環境倫理」とは、環境といかに関わるべきかを定める規範であり、そのことを考える哲学の一分野としても確立されている。日本や欧米諸国において、環境倫理は20世紀後半から顕在化した公害問題を受けて発展したと理解されている。『沈黙の春』(1962年)で農薬の大量散布による健康被害と環境破壊の危険性を訴えたレイチェル・カーソンなどが、その草分けとしてよく知られている。

 環境倫理が注目を集めるなか、議論の基調を成したのが、人間と自然の関係を巡る問いであった。とりわけ、人間を最上位に位置付け、自然環境や動物を人間の利益に供する資源と見なす従来の「人間中心主義」は、大幅な再考を迫られることとなった。この論点について、大きな議論を呼んだのが、歴史学者のリン・ホワイトが『サイエンス』誌に投稿した論文「生態学的危機の歴史的根源」(1967年)である。ホワイトは、現代の科学技術が大規模な生態学的破壊をもたらしている要因を、⼈間による⾃然の搾取を認める西洋のユダヤ・キリスト教的伝統に求めた。これに対し、キリスト教側からの反論のみならず、様々な分野の研究者によって、人間中心主義からの脱却を目指す新たな倫理的枠組みの探求が本格化した。

インドネシアの環境問題

 インドネシアでは、中央集権的な開発主義政策を推進したスハルト政権下の1970年代、急速な工業化と都市化の進展に伴い、各地で環境汚染や住民の健康被害が社会問題として顕在化した。こうした状況下で、中央省庁の一部のテクノクラートが環境保護の必要性を論じ始めた。1978年には同国初の環境省が設置され、1982年には環境管理基本法が制定された。また、限定的であったとはいえ、開発政策の被害に苦しむ人々の権利を主張する環境運動も黙認された。

 初代環境大臣のエミル・サリムは、行政機関だけでなく、宗教機関やNGOが有する媒体も広く活用し、「環境に配慮した社会倫理」を育成する必要性を説いた。サリムの主張の要諦は、開発そのものの否定ではなく、過剰かつ不当な消費を退け、抑制された消費にもとづく「正しい開発」の実現である。サリムはその前提として、人間が自然環境および社会環境の不可分な一部にすぎないという自覚を持つことが不可欠であると指摘した。サリムによると「誤った開発」とは強欲な資源追求にほかならず、それは植民地支配をも生み出し、人間による自然および他者の支配・従属化を推し進めるものであった。このように、サリムは環境保護を国家の防衛に重ねることで、個人の環境配慮行動の促進を図ったのである。

 一方で、国家や企業が主導する開発、およびそれに伴う土地収奪や環境破壊を、一種の植民地支配とみなす環境アクティビストも存在してきた。かれらは、開発によって住民を不当な立場に置かない社会正義や権利を掲げ、抗議活動を展開している。これらの運動は、開発の対象となる地域の環境保護と、そこで暮らす市民の生活の防衛を目指すものである。

写真1

写真1. インドネシアのシンクタンクNGO「LP3ES」が発行した学術雑誌『プリズマ』(Prisma)1978年9月号。「環境と開発」の特集が組まれ、エミル・サリムの論考も巻頭に収録されている。

インドネシアの環境倫理と宗教

 「環境」を守ることには、人類の生存のほか、国家や地域住民の生活といったさまざまな意味が重ねられてきた。インドネシアにおいて特徴的なのは、環境保護を正当化する論拠として、宗教的世界観に基づく倫理規範も重要な位置を占めている点である。もちろん、その基盤となる宗教は一様ではない。インドネシアでは憲法上、6つの宗教が公認されており、イスラーム、プロテスタント、カトリック、ヒンドゥー教、仏教、儒教が信仰されている。それぞれの教義に複数の解釈が存在するだけでなく、民族や地域に固有の慣習や儀礼とも混淆しながら、信仰実践が営まれている。その実践のなかには、海や山といった自然界を対象とし、そこで神や精霊へ供物を捧げる儀礼が少なくない。

 また、人々が宗教的・倫理的規範を内面化する重要な場として、学校教育の役割が挙げられる。政府が定める教育カリキュラムにおいて、環境保護に特化した独立の科目は存在しない。その代わり、初等教育から高等教育まで履修が義務付けられている「宗教」科目において、聖典の読解や礼拝の作法にとどまらず、利他精神や衛生観念の大切さが説かれている。すなわち、宗教教育を通じて日常生活における規範意識が醸成されているのである。

 さらに、自然科学を修める「理科」科目においても、記述される自然は「神の創造物」として位置づけられており、学生にはそのメカニズムを理解するだけでなく、自然の恵みに感謝することが求められる。実際の授業中に信仰実践が行われるわけではない。とはいえ、自然の摂理を学ぶことの根底に、創造主への称賛が伏流している点は、同国の環境倫理を形作るうえで看過できない重要な側面である。

エコ神学

 さらに近年では、宗教教育や宗教行事を管轄する宗教省からも、環境問題に対する公式の指針や声明が積極的に発信されている。宗教省は2025年より「エコ神学」(Ekoteologi)プログラムを推進しており、これを2025年から2029年にかけての注力事業の一つに掲げている。このエコ神学は、国民が各々の宗教や信仰に基づいた環境管理・保護の価値観を内面化し、意識の向上および実践の促進を図るための政策枠組みである。宗教省は、この枠組みに基づいて、全国の宗教団体と協働しながら、諸宗教に基づいた環境保護活動の展開を目指している。以下では、宗教省発行の啓蒙冊子をもとに、各宗教の観点から説明される、エコ神学における人間自然関係の代表的概念を概説していく。

①イスラーム
 イスラームのエコ神学は、聖典『クルアーン』に複数回登場する「ハリーファ」という概念を中核に据え、すべてのイスラーム教徒がハリーファとしての責務を果たすよう訴えかける。歴史的にハリーファ(カリフとも呼ばれる)は、代理人や後継者を意味し、政治的指導者を指す言葉として知られてきた。現代の環境問題の文脈においては、ハリーファは、生態系を含むすべての被造物の秩序を維持すべく、「神の代理人」として現世の管理を任せられた存在として再定義されている。人間は自然資源を利用する権利を認められているが、他方で、既存の秩序を乱すような資源の濫用は厳しく戒められており、環境の崩壊を防ぐ義務を負う。すなわち、エコ神学は、人間・自然を創造した神から課された宗教的義務を喚起することで、ハリーファたる人間の資源利用に倫理的なブレーキをかけるのである。

②キリスト教(プロテスタント・カトリック)
 エコ神学の価値観は、聖書の『創世記』第2章15節の記述によっても体現されている。同節には「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」とある。この一節は、神が人間に労働の使命を授けたことを示すものとして理解されてきた。しかし、環境倫理の文脈においては、ここでの「耕す」および「守る」という行為は、エデンの園に象徴される地球環境を育み、豊かにする役割をも内包するものとして再定義されている。すなわち人間は、神から委託された「スチュワード」(世話人)として環境の持続可能性を維持する責任を負っているのである。

③仏教
 仏教において、宇宙の秩序や人間の行為、精神を司る自然法則である「パンチャニヤーマ」が重視される。人間は、この法則が示す因果律を正しく理解しながら、自然資源を賢明かつ節度をもって利用することが求められる。パンチャニヤーマのなかで、人間は水や空気、土壌、地球が相互に関連しあうシステムの統一体の一部を成しており、さらに欲望や善意、思いやりといった精神的性質によってもあらゆる存在と結びついている。人間のいかなる些細な行動であっても、直接的・間接的に生態系全体へと波及するため、この認識が環境保護への関わりを促す論拠にもなっている。

④ヒンドゥー教
 インドネシアのヒンドゥー教の環境倫理において、その中核をなすのが「トリ・ヒタ・カラナ」と呼ばれる哲学的概念である。これは「神と人間」、「人間と人間」、「人間と自然」という三者の調和の取れた関係を規定するものである。語源的には、トリが数字の3、ヒタが幸せや喜び、そしてカラナがその理由や要因を表す。このトリ・ヒタ・カルナの精神は、ヒンドゥー教徒が多数派であるバリ社会の生活実践のなかに反映されている。その代表例が、伝統的な灌漑組織「スバック」である。スバックに基づく共同体的な稲作において、人々は農耕儀礼を通じて神との精神的紐帯を深め、相互扶助を通じて人々の社会的紐帯を強め、環境負荷を抑えた農法を通じて自然生態系とのつながりを維持している。

⑤儒教
 他の諸宗教と同様に、儒教に基づくエコ神学もまた「三者関係」の調和を強調する。その思想的基盤となるのが、宇宙の万物を構成する三つの根本要素、すなわち天・地・人からなる「三才」の概念である。宇宙を主宰する絶対的存在としての「天」、自然環境を表す「地」、そして実践主体としての「人」の三者間で調和を保つことが、万物の維持と発展の条件とされている。ここで重要な経書として参照されるのが『中庸』である。そこで説かれる様々な原理である「道」を理解し、農業や林業といった自然への介入を正しく行えるか否かが、その後の結果や償いを左右すると論じられている。

 以上のように、エコ神学はそれぞれの宗教的教理に根ざした、創造主・人間・自然の三者関係を大前提としており、この三者の均衡の崩壊として環境問題を位置付ける。このバランスを乱す行為は、その結果として現実世界の生存基盤を脅かすだけでなく、教義からの逸脱とみなされ、信徒自身も相応の倫理的帰結を被ることになる。すなわち、エコ神学の論理において、環境を保護することは自らの信仰を守ることと同義なのである。

写真2

写真2. 『エコ神学』啓蒙冊子表紙。6つの公認宗教の指導者が苗木を植えるイラストが描かれている。

宗教運動としての環境保護

 本稿では、宗教省が推進する「エコ神学」に着目し、宗教規範に基づく環境倫理のあり方を概観した。もちろん、このエコ神学という公式な政策枠組みのみが、インドネシアの環境倫理を網羅しているわけではない。むしろ、インドネシアの環境問題の歴史のなかで、宗教的アクターは主流派ではない。他方で、こうした倫理的枠組みが定式化される以前から、同国の草の根レベルでは、宗教的・倫理的規範を実践的な環境保護活動へと応用する動向が随所に見られていた。例えば、バリのスバックのような伝統的制度を環境保護のための不可欠な実践として再定義し、エコツーリズムなどの形で外部へ発信する試みがある。また、住民主導で環境配慮型の礼拝施設を構築する「エコ・モスク」や「グリーン・チャーチ」といった活動も、2010年代より各地で展開されている。

 これらの実践は必ずしも近代的な「環境保護」そのものを第一義的目的に掲げているとは限らない。こうした動向を捉えるうえで、サステナビリティや環境正義といったグローバルに流布する概念とは異なる、固有の文脈に沿った理解が有効になる場合がある。特に、都市部など、環境破壊の被害が比較的小さい地域で環境活動に従事する参加者からは、自然環境への配慮以外の動機が語られるケースも少なくない。その代わり、天然資源の有限性や搾取といった科学的で構造的な課題よりも、内面的な契機に突き動かされる。例えば、筆者が調査を行なったジャカルタ及びジョグジャカルタにおいて、モスクでのごみ収集・分別・リサイクル活動を行うムスリムからは、現世での徳行を通じて「神からの報奨」を獲得するという精神的・宗教的なモチベーションが聞かれた。現世で善行を積み重ね、報奨を貯めていくと、最終的に天国に行くことが神により認められるかもしれない。神との関係は、環境活動の重要なインセンティブになりうる。

 こうした現代インドネシアにおける環境倫理事情を考察するうえでは、「人間と自然」という二者関係の図式に捉われるのではなく、その枠組みを超えて、神のような第三の要素が大きな比重を占める世界観も重ね合わせて理解することが極めて肝要である。

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写真3. モスクにおけるごみ分別・リサイクル活動(2025年7月6日、筆者撮影)

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写真4. モスクにおける住民のリサイクルグッズ・コンテスト(2024年8月3日、筆者撮影)

参考文献
Kementerian Agama Republik Indonesia. 2025. Ekoteologi: Mengamalkan Iman,Melestarikan Lingkungan.
White Jr., Lynn. 1967. “The Historical Roots of Our Ecological Crisis.” Science 155:1203–7.
カーソン、レイチェル.(⻘樹簗⼀訳)1974.『沈黙の春』新潮社.
中鉢夏輝. 2026. 「現代インドネシアにおけるイスラーム環境運動の展開」京都大学博士学位請求論文.

書誌情報
中鉢夏輝《総説》「インドネシアの環境倫理と宗教」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.4, ID.1.02(2026年00月00日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol04/indonesia/country01/