アジア・マップ Vol.04 | イラン

《人物評伝》
アリー・シャリーアティー(1933–1977)

村山木乃実(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 特定研究員)

しかし人はまた、最初の動きとは逆で対極にある、別の動きも夢見る。それは、政治生活に精神的次元をも導入することを可能にするものである。そうすることで、政治生活が常に精神の妨げとなるのではなく、むしろ、その器となり、機会となり、原動力となることを目指す。ここで私たちは、今日のイランにおけるあらゆる政治・宗教生活を覆い尽くす影、すなわちアリー・シャリーアティーの影に遭遇する。彼の2年前の死は、彼に、シーア派で特権的な地位——不可視の現存者、常に存在する不在者の地位——を与えた。

[Foucault 2005, 207]

Ⅰ. はじめに

 アリー・シャリーアティー(‘Alī Sharī‘atī, 1933–1977)は、20世紀イラン思想を牽引した思想家の一人であり、1979年に起きたイラン・イスラーム革命の立役者として知られている。彼の影響力の大きさは、その肩書きの幅広さ——改革思想家、宗教的知識人、学者、活動家、文学者——から伺い知ることができよう。

 なかでも、彼が宗教的知識人だったということは、彼の思想を理解する上で重要である。イランにおける宗教的知識人とは、イスラームを自らの思想の拠り所としながらも広い視野をもち、ヨーロッパの知識なども取り入れながら思想を展開させた知識人を指す。本稿で用いる宗教的知識人には、法学や神学などの伝統的なイスラーム諸学を修めた知識階級であるウラマーは含まない。いわゆる「俗人」宗教的知識人(Boroujerdi 1996, 105; Nabavi 2003, 80)である。

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アリー・シャリーアティーの写真(シャリーアティー財団より提供)

 1960年代後半に宗教的知識人が社会に台頭するまで、イラン社会で影響力のあった知識階級は、主に、ウラマーと開明派知識人だった。イランの国教であるシーア派では、ウラマーのなかでも法学を専門とするイスラーム法学者が、時代を下るにつれてイマーム(預言者ムハンマドの後継者)の代理として宗教的指導権を担うようになった。その結果、イラン社会では、イスラーム法学者が時に、民衆をとりまく社会問題の解決を求めて、彼らの筆頭に立ち、導く存在にもなった[1]。一方で開明派知識人とは、19世紀以降の近代化に伴い、政治・社会思想において近代西洋思想の受容に向かった知識人を指す。西洋近代思想を軸にするという点でウラマーと決定的に異なる知の体系を持つ彼らは、文学を通じて国民を啓蒙し、社会変革を試みた[2]。だが、1953年にモハンマド・レザー・シャーとイランの軍部がCIAと共謀して企てたクーデターによって石油国有化運動が挫折したことを機に、開明派知識人らの活動や思想は、一つの行き詰まりに直面した(Nabavi 2003, 11)。さらに、パフラヴィー朝下でイスラームが政府から周縁化され(Jahanbaksh 2022, 104)、ウラマーが政治に介入しづらくなっていった。このような既存の知識階級と民衆の乖離が進む状況下、両者を結ぶ紐帯を引き受け、自国の文化に根差した社会改革を目指して登場したのが、宗教的知識人だった。そしてその草分け的存在が、アリー・シャリーアティーである。

 本稿では、アリー・シャリーアティーを宗教的知識人と捉えた上で、彼の生涯、思想、文学作品を概観する。本稿を読み、さらなる理解を深めたいと思った読者は、VI.の読書案内をぜひ参照していただきたい。

Ⅱ. アリー・シャリーアティーの生涯[3]

 シャリーアティーは1933年に、マズィーナーンという小さな村で生まれ育った[4]。マズィーナーンは、イラン東部のマシュハド近郊に位置する、沙漠に囲まれた村である。マシュハドは、現在イランで2番目に大きい、シーア派の聖地イマーム・レザー廟がある大都市である。シャリーアティー一家はマズィーナーンの名家で、何代にもわたってウラマーを輩出していた。アリー・シャリーアティーの父・タキー(Taqī Sharī‘atī, 1907–1987)もウラマーだった。シャリーアティーは、地元やマシュハドで精力的に活動する父親の背中を見ながら育った。タキーは、世俗化政策を推し進めるパフラヴィー政権に対しても、若者を中心に広がる共産党勢力に対しても抗う形で、イスラームの教えを人々に説くために奔走していた。シャリーアティーは、生涯を通じてイスラームに基づいた社会改革を志すが、この姿勢はタキーの影響が大きかったと考えられる。

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シャリーアティーの故郷、マズィーナーン近郊の風景(2015年筆者撮影)

 シャリーアティーが政治の世界に足を踏み入れたのは、1950年頃に当時の首相モサッデク(Moḥammad Moṣaddeq, 1880–1967)のもと高揚した、英国が利益を独占してきた石油会社の国有化を求める運動がきっかけだった。シャリーアティーは、父タキーとともに、外国勢力に頼らない、自立した国家を目指すナショナリストのモサッデクに共感を示し、支持した。だがこの石油国有化運動は、先に述べたクーデターによって挫折してしまう。これを機に、シャリーアティーは政治活動から離れ、文学活動に重点を置いていく。

 1955年、シャリーアティーは、新設されたマシュハド人文科学大学という単科大学に一期生として入学した。つまりシャリーアティーは、ウラマーになる道を選ばなかった[5]。大学時代のシャリーアティーは、授業の他にも学外で開催されていた文学サークルにも積極的に参加し、文学的感性を磨いていった。1958年にはクラスメイトだった女性プーラーンと結婚し、その翌年には政府奨学金を受けてフランスのソルボンヌ大学大学院に留学した。

 シャリーアティーはフランスで、奨学金の関係上、専攻にせざるを得なかったペルシア文学よりも、社会学を積極的に学んだ。大学では、第二次世界大戦後のフランス社会学を代表するユダヤ系ロシア人学者ギュルヴィッチ(Georges Gurvitch, 1894–1965)が担当する授業や、アルジェリア出身のフランス人学者ジャック・ベルク(Jacques Berque, 1910–1995)のイスラーム現代社会史の授業に出席していた。他にもジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre, 1905–1980)の授業、スーフィズム研究者ルイ・マシニョン(Louis Massignon, 1883–1962)の授業にも参加し、当時の最先端の知に触れた。このような大学での活動と並行して、アルジェリアの独立を目指し奮闘する人々にも感化され、政治活動にも精力的に取り組んだ[6]。1964年、博士号を取得したシャリーアティーは、帰国を決心する。フランスで新しい知識と経験を吸収した彼は、後にイラン社会で宗教的知識人として頭角を現すことになる。

 帰国後のシャリアーティーは、マシュハド大学で教鞭を執る傍ら、テヘランに新設された宗教施設ホセイニーイェ・エルシャード[7]でも講演を行うようになった。マシュハド大学では史学部の教員として、イランの歴史やイスラームといった地域の歴史や文明史を教えた(Sharī‘atraz̤avī 1393Kh/2014–15: 107)。ホセイニーイェ・エルシャードでは、イスラームに関連した多くの講演を担当した。なかでも「イスラーム学」(Eslāmshenāsī)と銘打った連続講演は、人々から絶大な人気があった。シャリーアティーは、多くのイラン人にとってあまりにも当たり前であり、改めて疑問を持つことなどなかったイスラームを問い直し、現代におけるイスラームのあり方やその再解釈を、「イスラーム学」で解き明かした。

 「イスラーム学」でシャリーアティーは、イスラームを「イデオロギー」として人々に教えようと試みた。シャリーアティーが言う「イデオロギー」とは、人々の行動の源泉となりうるものを指す。「イデオロギー」としてのイスラームは、学問を修めたか否かに関わらず身につけることのできるものであり、それを体得することで、人間は社会において進むべき道を理解すると、シャリーアティーは人々に訴えた。シャリーアティーは、「イデオロギー」としてのイスラームを授けた先に、民衆主体の社会変革を見据えていた。

 「イスラーム学」をはじめとした、ホセイニーイェ・エルシャードでの講演は、シャリーアティーのイスラーム思想が鮮明になる場でもあった。彼は、授業や講演を通じて自らの思想を先鋭化させ、学生や聴衆は、それを熱狂的に受け入れた。一方で、そこで明らかとなった宗教的知識人シャリーアティーの思想をめぐっては、一部のウラマーから批判を受けた。ウラマーでない立場から、ウラマーによる伝統的な作法に則らない方法でイスラームを解釈することは、彼らからすれば正統な解釈だとは到底みなせなかったからである。一部のウラマーからの非難に加え、パフラヴィー王朝時代に結成された秘密警察SAVAKからの監視も受けるようになった。ウラマーにとっても、世俗化政策を推し進める政権にとっても、イスラームを再び人々の心に宿らせようとするシャリーアティーは野放しにさせておくことはできない存在だった。

 SAVAKによる妨害が激化した結果、1971年ホセイニーイェ・エルシャードは閉鎖に追い込まれた。1972年には、シャリーアティーの講演活動および著書の出版も禁止され、翌年にはシャリーアティーが逮捕される事態となった。長い勾留期間を経た後、事実上の軟禁状態となった彼は、精神的に苦しい状況に陥った。1977年、シャリーアティーは亡命を決意し、ベルギーを経由してイギリスへと到着した。予定では、シャリーアティーを追って家族が来る予定だったが、2人の娘が到着した翌日、彼は客死した[8]。享年44歳だった。亡骸をイランに送ることを断念した家族は、彼をシリアにあるザイナブ(Zaynab bint ‘Alī ibn Abī Ṭālib, ?–682)廟の近くに埋葬することに決めた。今でもシャリーアティーは、シリアの地で静かに眠っている。

Ⅲ. アリー・シャリーアティーが目指したイスラーム

 シャリーアティーは、宗教そのものの定義や、西洋思想、文学、芸術にまで及ぶ、幅広いテーマに着手した。現在、シャリーアティーの思想をめぐっては、さまざまな研究分野や関心から研究が行われており、彼の思想のすべてを細部に至るまで把握し検討することは、極めて困難であると言わざるをない。ただし、そうした彼の多岐にわたる挑戦や思想的プロジェクトを下支えしていたのは、停滞し硬直化したイスラームを脱構築し、民衆へと降ろし、再びみずみずしさを与えることで、新たな思想として社会に動きを与えようとする一貫した試みだったとは言えよう。本稿では、そのような彼の思想の一端を紹介することを目的に、シャリーアティーの「アリーのシーア派」とタウヒードの定義の革新を中心に述べる。

 シャリーアティーは、一部のウラマーらが牽引してきた「伝統的」解釈にとらわれず、新しい視点からイスラームを捉え直し、宗教に動きを与えようとした。このようなシャリーアティーが目指した理想的なイスラームを、彼は自ら「アリーのシーア派」と呼んだ[9]。1971年10月31日にホセイニーイェ・エルシャードで行われた講演「アリーのシーア派、サファヴィー朝のシーア派」は、シーア派に対するシャリーアティーの考えが鮮やかに表れている講演である。この講演においてシャリーアティーは、「アリーのシーア派」と「サファヴィー朝のシーア派」のうち、「アリーのシーア派」こそが、イラン人が信じるべきシーア派であると人々に訴えた。「アリーのシーア派」が、シーア派初代イマーム・アリーへの純粋な信仰を取り戻す活力にあふれたものであり、柔軟な解釈の可能性を秘めたイスラームであるのに対して、「サファヴィー朝のシーア派」は、西暦16世紀以降のイランのシーア派化を進めたサファヴィー朝の意に適う、イランの人たちがともすれば盲目的に信仰しているイスラームを指していた。「アリーのシーア派、サファヴィー朝のシーア派」においてシャリーアティーは、「アリーのシーア派」を「カリフ制なきイスラーム」とも言い換えている。シャリーアティーにとって、真のイスラームは、権力と結びつき硬直化してしまうこともなければ、神と人々の間に仲介者など置かない。イラン社会において神と人の間に立つかのように権威を振りかざしている一部のウラマー[10]こそ、イスラームの停滞を招き、人々に偽りのイスラームを教え込んでいるとシャリーアティーは痛烈に批判した[11]。また、「アリーのシーア派」を宿し社会を変えていくのは一般の人々であると考えていた。

 シャリーアティーは、民衆を主体としたイスラームの再構成(櫻井 2013, 82)を試みた。その試みは、先に述べた「アリーのシーア派」にも、イスラームの中心となる教義タウヒードの定義の革新にも確認することができる。タウヒードは神の唯一性を意味する。このタウヒードに対置されるのが、シルクである。シルクは、多神教を信じることを意味し、イスラームでは最大の罪だとみなされている。シャリーアティーは、この両者の対立図式を用いて、シルクによる産物が精神と現実を切り離す見方である一方で、タウヒードは、それらを区分することをしない、すべてを一とする統合的な世界観であると説いた(Sharī‘atī 1390Kh/2011–12, 160–174)。このシャリーアティーによる新たなタウヒードの定義は、現実世界に生きる万人が平等であるという価値観をもたらした。シャリーアティーは、このタウヒードの革新的な解釈を根拠に、民衆一人一人が社会を突き動かす原動力となることを明らかにする(黒田 1997, 43)。さらにシャリーアティーは、クルアーンの聖句においてアッラーと民衆は同義であるとまで言い切る(Sharī‘atī 1390Kh/2011–12, 84)。このダイナミックな解釈をもとに、「アリーのシーア派」実現のために責任ある行動をするのは民衆であると、人々に訴えた。

IV. アリー・シャリーアティーの文学作品

 イラン革命の教師として広く知られてきたシャリーアティーであるが、革命後数十年の時を経て、シャリーアティーの文学作品にも注目がされるようになった。シャリーアティーの生涯は、その多くが過酷な政治闘争に費やされたことで知られているが、その一方で、彼にはたった独り、自らの内面を深く見つめる、求道者のような側面もあった。シャリーアティーの文学作品は、彼の思想をイラン革命と関連づけた研究では、ほとんど顧みられることがなかった。しかし彼の文学作品は、彼が権力に立ち向かい、社会改革を目指して闘争する道を選んだラディカルな知識人であると同時に、詩的な神秘的世界に感応する人物でもあったことを示している。

 シャリーアティーは、自身の一連の文学作品群を「沙漠論」と呼んでいた[12]。講演や政治活動に勤しむ傍ら、自分のために語りかけ、夜な夜な紡いだ言葉の集合が「沙漠論」となったといえる。「沙漠論」は4つの文学作品——『沙漠』、『降下』、『親しい友人たちとの対話』、『独白』——からなるとされている。とりわけ『沙漠』は、シャリーアティーの生前に、『降下』は彼の死後遺言に沿う形で出版された。

 シャリーアティーが孤独と徹底的に向き合うなかで言葉を紡いだ「沙漠論」は、伝統を突き破るシャリーアティーのシーア派思想の土壌にも、彼の生を支える存在にもなった。言語芸術的実験の場であり、かつ精神的な格闘の場でもあった「沙漠論」で、シャリーアティーは、孤独を抱えながら筆を走らせ、神秘思想に迫ってゆく。彼にとって神秘思想は、あらゆる宗教の根幹を形成する概念だったために、シャリーアティーは「沙漠論」を書くことを通じて、「アリーのシーア派」を再確認したり、時に大胆にもシーア派の枠組みからも超えた考えを展開させたりすることができた。「沙漠論」を書く行為は、現実世界でも孤独に苛まされ続けたシャリーアティーに、自由に赴くままに思考を巡らせ、時代や空間を超え思想的に共鳴し合う人物と精神的に邂逅する場を与えた。したがって「沙漠論」を書くことは、シャリーアティー自らを救済する行為でもあったともいえる。

V. おわりに

 シャリーアティーは、1979年のイラン革命前に、イスラームに基づく社会のあり方を模索していた。革命の2年前にイギリスのサザンプトンで若くして亡くなった彼は、革命を見届けることはできなかったものの、彼の思想に共鳴した多くの若者たちが、彼の思想的遺産を引き継ぎ、革命運動および革命後の政権で中心的な役割を担っていった。だが、シャリーアティーが目指したシーア派と、革命後共和国政権が掲げるイデオロギーとしてのシーア派の間には、齟齬が生じた。両者の相違についてはすでに研究上で指摘がされているが(Abrahamian 1982)、イラン社会ではその差異は特段指摘されないどころか、両者は同一視されてしまうような傾向にある。その背景には、革命後に成立した政権に「検閲」された形で称賛されたことがある。政権はシャリーアティーを、権力を拒否するイスラームを提唱した人物として示した一方で、「ウラマーなしのイスラーム」というような、現在の体制と抵触するような彼の主張には極力触れない。

 現政権による評価のみならず、シャリアーティーの支持者が革命後さまざまな政治グループに散らばった結果、複数のシャリーアティー像が存在しているのも、シャリーアティーの思想的実態を見えづらくしている。例を挙げると、シャリアーティーの支持者のうち、イスラーム共和国の支持者となった者もいれば、彼が提唱した社会革命に共感する武装組織モジャヘディーネ・ハルグに加わった者もいた。現在イスラーム共和国とモジャヘディーネ・ハルグは激しく対立しているが、その各々が異なる形でシャリーアティーの思想を解釈している(Abrahamian 1982)。

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マズィーナーンにそびえ立つ、巨大なシャリーアティーの像(2015年筆者撮影)

 革命から40年以上が経過した現在、シャリーアティーに関する研究は進んでいる。その一方で、社会でのシャリーアティーに対する評価は、現体制に対する批判が強まる昨今、悪化していると言える。革命後の共和国体制に不満を持つ人の中には、1979年のイラン革命は現在の政権が生まれる要因であり、この革命を準備したすべての元凶こそがシャリーアティーだと思っている者も少なくないからだ。もちろん、シャリーアティーが目指したシーア派と共和国体制のシーア派の違いは、そこまではまったく考慮されない。実際に筆者も、シャリーアティーに関する研究発表をしていたときに反体制者による妨害を受けたり、シャリーアティーを研究していると伝えると一方的に危険視されてしまったりした経験がある。社会的情勢を考えれば、彼らがそのような考えを抱くのも止むを得ないかもしれない。だが、政治的フィルターがかかったシャリーアティー像から彼を理解するのではなく、彼の著作を自ら読み自身の頭で思考すれば、彼が決して「白か黒か」で分けることのできない、スケールの大きく開かれた考えを持っていたことに、シャリーアティーを極端に評価している人たちも気づくだろうと思う。彼の思想に対する「唯一かつ正しい解釈」は存在しない。何より、常にたった独りで、悩み苦しみながら、自身の矛盾を超克すべくもがきつづけていたのは、他ならぬシャリーアティー自身だったことを忘れてはならない。彼の心情や葛藤に思いを馳せることで、新たな理解の扉が開かれるかもしれない。

VI. アリー・シャリーアティーをもっと知りたい人のための読書案内

 シャリーアティーの思想をよりよく理解するためには、シャリーアティーに関する情報のみならず、イランの歴史、シーア派、イランの文化・文学の知識が欠かせない。これらの知識を学ぶことができる、一般の読者も対象とした書籍を以下紹介する。

①シャリーアティーに関する書籍
アリー・シャリーアティー(1997)『イスラーム再構築の思想:新たな社会へのまなざし』(黒田壽郎序論, 櫻井秀子訳・解説)大村書店.
村山木乃実(2024)『孤独と神秘: アリー・シャリーアティーの「沙漠論」にみる現代イランのイスラーム思想』作品社.

②イランの歴史
イランの歴史を知ることで、シャリーアティーの問題意識や、彼が目指していた理想の社会像をよりよく理解できる。
黒田賢治(2025)『イラン現代史:イスラーム革命から核問題、対イスラエル戦争まで』中公新書.
羽田正編(2020)『イラン史』山川出版社
吉村慎太郎(2011)『改訂増補イラン現代史:従属と抵抗の100年』有志舎.

③シーア派
シャリーアティーが信じる宗教であるシーア派を概観することで、彼が訴えたシーア派の特異性が理解できる。
桜井啓子(2006)『シーア派』中公新書.
平野貴大(2024)『シーア派:起源と行動原理』作品社.

④イランの文化・文学
イランの文化的背景や文学の潮流を知ることで、シャリーアティーのイスラームに収まりきらない考えや、彼が引用するペルシア文学作品に対する理解度が増す。特に古典ペルシア詩の知識は、持っておくと大いに役に立つ。
上岡弘二編(1999)『暮らしがわかるアジア読本:イラン』河出書房新社.
黒柳恒男(2022)『増補新版:ペルシア文芸思潮』東京外国語大学出版会.
森茂男編(2010)『イランとイスラーム:文化と伝統を知る』春風社.

VII. 参照

Abrahamian, E. 1982. Ali Shariati: Ideologue of the Iranian Revolution. Middle East Report 102. https://merip.org/1982/01/ali-shariati-ideologue-of-the-iranian-revolution/. Accessed 26 December 2025.
Boroujerdi, M. 1996. Iranian Intellectuals and the West: the Tormented Triumph of Nativism, New York: Syracuse University Press.
Foucault, M. 2005. “What Are the Iranians Dreaming [Rêvent]About?,” Foucault and the Iranian Revolution, edited by Janet Afary and Kevin B. Anderson, 203–209, Chicago and London: the Chicago University Press.
Jahanbakhsh, F. 2022. ‘Different Forms of Religious thought in modern Iran,ʼ The Routledge International Handbook of Contemporary Muslim Socio-Political Thought, edited by Lufi Sunar, 101–114, London and New York: Routledge.
Nabavi, N. 2003. Intellectuals and the State in Iran: Politics, Discourse and the Dilemma of Authenticity, Gainesville: University Press of Florida.
Rahnema, A. 2014. An Islamic Utopian: A Political Biography of Ali Shari‘ati, New York: I.B. Tauris.
Sharī‘atī, ‘A. 1390Kh/2011–12. Eslām Shenāsī: Jeld-e avval, Tehrān: Enteshārāt-e qalam.
Sharī‘atraz̤avī, P. 1393Kh/2014–15. Ṭarḥī az yek zendegī, Tehrān: Enteshārāt-e chāpkhosh.
アリー・シャリーアティー(1997)『イスラーム再構築の思想:新たな社会へのまなざし』(黒田壽郎序論, 櫻井秀子訳・解説)大村書店.
櫻井秀子(2013)「イスラーム的な自己形成——アリー・シャリーアティーのナースの思想」『中央大学政策文化総合研究所年報』Vol. 16, 69–84.
フランツ・ファノン(2025)「アリー・シャリーアティーへの手紙」(中村菜穂訳・解説)『思想』No. 1210, 82‒90.
村山木乃実(2019)「理想的人間像と動的イスラーム:アリー・シャリーアティーの視点から」『オリエント』Vol. 61, No. 2, 151–162.
村山木乃実(2024)『孤独と神秘: アリー・シャリーアティーの「沙漠論」にみる現代イランのイスラーム思想』作品社.

注釈
[1]現在のイラン・イスラーム共和国の統治体制の基礎である「法学者の統治」論は、イスラーム法学者なしに成立しない。
[2]厳密に言えば、本稿で説明している開明派知識人(rowshanfekr)とは、1940年代にイラン社会で存在感を高め、西洋思想に傾倒した知識人を指す。彼らの多くが、イランの共産党であるトゥーデ党の党員として活動するか、その思想に共感していた(Nabavi 2003, 5)。当時の作家や詩人たちの多くもトゥーデ党を支持していた。
[3]シャリーアティーの生涯の詳細については、(Rahnema 2014)を参照。
[4]厳密に言えば、彼の生誕地はマズィーナーンから北西に約8キロ離れた場所にあるカーハックという村である(Sharī‘atraz̤avī 1393Kh/2014–15, 3)。
[5]ウラマーになるためには、宗教学校でイスラームの伝統的な諸学問を修めなくてはならない。
[6]シャリーアティーは、フランツ・ファノン(Frantz Fanon, 1925­–1961)とも交流があったとされる。詳しくは(中村 2025)を参照。
[7]バーザールガーン(Mehdī Bāzārgān, 1906–1995)ら「イラン自由運動」のメンバーが中心となり、イスラームを一般の人々に教えることを目的として、1965年にテヘランに設立された宗教施設(Sharī‘atiraz̤avī 1393Kh/2014–15, 139)。
[8]検死官による報告によれば彼の死因は心臓発作だったが(Rahnema 2014, 368)、遺族は他殺を疑っている(Sharī‘atraz̤avī 1393Kh/2014–15, 242–243)。
[9]シャリーアティーは「アリーのシーア派」の他にも、自らが理想とするイスラームを「ムハンマドのイスラーム」と呼んでいる。先に述べた、「イデオロギー」としてのイスラームも、この「アリーのシーア派」と同義だといえる。晩年のシャリーアティーは、論考「神秘思想、平等、自由」(‘Erfān, barābarī, āzādī)で、このような自らが理想とするシーア派には、社会主義や実存主義の要素が含まれていると説いた。イスラームを捨て西洋の思想に傾倒しなくても、イラン文化に根ざしたイスラームに「正しく」回帰すれば、社会主義や実存主義の本来的精神も手に入れることができると、シャリーアティーは訴えた。
[10] 注意すべきは、シャリーアティーは全てのウラマーを否定していたわけではなかったことである。この点については、(櫻井 2013)を参照。
[11]「アリーのシーア派」については、(村山 2019)を参照。
[12]「沙漠論」については、(村山 2024)を参照。

書誌情報
村山木乃実《人物評伝》「アリー・シャリーアティー(1933-1977)」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.4, IR.9.01(2026年00月00日掲載)   
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol04/iran/essay01