アジア・マップ Vol.04 | モンゴル

《エッセイ》
研究の現場から モンゴル君主の名前と称号

宮紀子(京都大学人文科学研究所 助教)
(モンゴルの)諸の慣習のなかでも格別なのは、福蔭ある者たちの習慣・気力ちからもつ者たちの慣例のごとき儀礼の次第・称号の種類が、断固として拒否・忌避されていることである。君主の宝座に坐す者は皆、「qanカン」ないし「qa’anカアン」なる一名号を加えるが、それより過多には記さない。また、その子供たち・兄弟たちを、権貴も庶民も対面だろうが背後だろうが、出生の折に名付けられた幼名「某」で呼ぶ。筆写される詔勅の文書は、まさにその名のみを記し、スルタンや庶民の間で区別しない。ことばの真髄・意図を記し、称号の過剰、数々の修辞を否定する。

――アターマリク・ジュヴァイニー『世界を開く者の歴史』――

 「Čiŋgis-qanチンギス・カン」は称号・尊号であって名前ではない。かれの名は鉄匠・鍛冶屋を意味すTemüğinテムジン。誕生時に父のイェスゲイがタタル部との戦闘から連行して来た捕虜テムジン・オゲから採られたという。モンゴルには、出産を終えた母親が最初に目にしたものや一家が遭遇した出来事を記念して命名する習慣があった。大元ウルス治下の漢籍では意訳を兼ねて「ジン」と当て字されることが多いが、南宋では悪意を込めて「ジン」と記している。

 テムジンは、モンゴル高原の名族ケレイト部、ナイマン部、メルキト部、さらには西夏タングトを次々と打破して、1206年、イェケ聚会クリルタを挙行した。そして、 ケレイト部の長トオリル(猛禽・鷹)が大金ダイキムアンバンジュンシェングルンの君主「Altun-qanアルトゥン・カン」(テュルク語の「金」)から与えられた「Oŋ-qanオン・カン」(漢語の「王」の音写)、ナイマン部や西遼カラ・キタイの長さらにはテムジンのライバルのジャムカ(大言壮語・怜悧)が使用していた「Gür-qanグル・カン」(「あまねき」「気力ちから有る」)を凌駕する称号として、カンの前にモンゴル語で「čiŋチング」(強固)の複数形「最強」の謂いの「チンギス」を冠した。コンゴタン部の神巫テブテングリのココチュが選定した称号だった(ココチュは、チンギス・カンの母ホエルンの再婚相手モンリク父の息子だから、テムジンとは義理の兄弟になる)。

 ウイグル文字ではČiŋgis(=ẓ)ンギ、とうじĞとČを区別しなかったアラビア文字ペルシア語文献でもČīnggīzーンギーと特記されていることがある。漢字ではウイグル文字表記に依拠してチンのほか、チンチンなどと書かれ、ラテン語ではChingiscanと表記された。具合のよいことに、発音の似るtenġizンギというテュルク語が、タルイ・オグズのtaluyやダライ・ラマのdalayと同じ「大海」を意味する。古くからテュルク諸部族に伝わるオグズ・カガンの伝説において、オグズの末子がまさにこのテンギズという名前であった(オグズののこりの5子の名は、kün キュン、ayアイ、yulduzユルドゥズ、kök蒼天キョク、taγタク)。

 『モンゴル秘史』の冒頭にも

 蒼き狼と惨白き鹿は共に大海テンギズを渡りオノン河の源にブルカン山に宿営をなしてバイダカンを産んだのであった。

 とあり、モンゴル語に取り込まれていた単語であることがわかる。チンギス・カンのもとを訪れた南宋の使節は、この称号を駅伝ジャムチ牌子パイザ(パスポート)やジャルリク冒頭の「テン」の漢音に引きつけて解釈した。

 「最強カン」の称号に違わず、テムジン率いるイェケモンゴルウルスの大軍は大金ダイキムジュシェングルンの領土を席捲したのち、西遼カラ・キタイ、ホラズムシャー国を倒し、わずか一代で広大な版図を得た。1227年、叛乱を起こした西夏の鎮圧から一気に大金と南宋の接収を企て、軍を三国の境界たる六盤山まで進めたが、陣中にて病没した。テムジンの亡骸は、ほかならぬ蒼き狼の宿営の地に葬られたのだった。

 テムジンとBörteボルテ(蒼色)夫人の間に生まれた嫡子4人のうち、長男はボルテがメルキト部による掠奪から救助された直後に生まれ、出自に疑惑をもたれた。そのことが「客人」を意味するĞočiジョチと名付けられた所以だとか、否、予定日以前に生まれた不意のお客さんだったからだと、後々まで論議を呼んだようだ。ただし、ペルシア語文献ではトゥシTušiと還元される表記が散見され、ラテン語文献では「Tussuc-can<Tüsig-qanトゥッスク・カン」(支柱)と記される。『史記』に見えるフンの太子の称号で「賢者」の謂いの[屠耆トゥシ諸耆ジョチ]に由来する可能性もあるだろう。

 次男のČa’a-daiチャガタイと三男のÖgö-deiオゴデイは、一対たることを運命づけられたような名である。dai/deiはtu/tüと同じく「~ある」、「~をもつ」。ča’aには、「凝乳」、「そこ」、「乳児」、「支柱」等の意味があることが知られている。いっぽう、パクパ字碑と漢語音訳によって音価が確定されたオゴデイのögöは、ウイグルや契丹の王子、国舅など貴戚の称号「ögä 」(テムジン・オゲのオゲ。経験豊かな賢哲、義父)あるいは「üge 言語ことば」と看做して、「賢者」・「能弁家」の謂いだと考えられてきた。オゴデイの女性形として、チンギス・カン裔のなかにÖgö-činオゴチン公主が確認され、のちの武将にはÖgö-čarオゴチャルという名の者もいる。またオゴデイはペルシア語文献で[Högö-dei/Hö’e-deiと]記される場合があり、逆にテムジンの母Hö’e-lünホエルンは「Ö’e-lünオゲルン」とも表記されるから、同義の可能性が高い。

 しかし、ラシードゥッディーン・ファヅルゥッラー・ハマダーニー編纂の『集史』第一部『ガザンの吉祥なる歴史』は、オゴデイの名は誕生時に与えられたものではなく、幼名が気に入らず、のち(即位時?)に自分で改めたのだとして、ögede「高く/上に」という原義から転じた「精壮」、「利発」に関連づけている。その伝でいえば、チャガタイについても、オゴデイの輔佐としてのイメージから「寄り添って」の謂いのča’adaに繋がる。法令ジャサクに精通し厳格だったというチャガタイの逸話と法令を意味するča’ağaとも近い。もはや言葉遊び、連想ゲームの感すら漂う。

 末子のトルイToluiの名はモンゴル語の「鏡」。のちにトルイの嫡長子メング(モンケ)の即位後、「トルイ」は近親者・臣僚の間で三世代に亙って禁忌語に指定され、テュルク語の「鏡」の謂いの「közgüキュズグ」を以て代用したという。ラシードゥッディーンは、「この4[嫡]子はみな聡明有能完璧勇敢英武、父・軍・百姓じんみんの賞賛の的であった」と総括するが、使用した形容詞自体、それぞれの名前に導かれたものなのかもしれない。

 テムジンが大金ダイキム女真ジュシェングルンからジャウトクリ(百夫長/招討使)の称号を与えられていたことから、とうしょ嫡子たちに女真ジュシェン語としても通じる名を付けていた可能性もある。オゴデイは「ぶち犬」の発音に似る。

 さて、チンギス・カンの後を継いで女真の大金ダイキムを滅ぼし、キプチャク草原も制してさらに版図を拡大したオゴデイは、鮮卑や突厥などテュルク・モンゴル諸部族の間で使用されてきた大いなる称号「qaγanカガン」の訛った「qa’anカアン」を名乗った。「カンたちの中のカン」、「大カン」、それ自体で「チンギス・カン」とほぼ同義なのだが、ウイグル語文献では敢えて「カアン・カン」と表記し、1294年までの漢語訳は「合罕カアン皇帝」を充てる。その版図を以てふりかえれば、秦の始皇帝以降の中国皇帝もムスリムたちのスルタンも神聖ローマ皇帝の「imperatorイムペラトール」も「カン」程度でしかない。

 じつは「カアン」の称号は、チンギス・カンよりも前にモンゴルを束ねたQabulカブル、Ambaqaiアムバガイ(Hambaqaiハムバガイ)、Qutulaクトラ等が使用していたらしい。14世紀になると、史官のなかには、アムバガイ、クトラ等の血筋の扱いに苦慮、傍流たるチンギス・カン裔に忖度してかれらを「カン」に引き下げようとする者、言及せず存在を消そうとする者も出てくる。ぎゃくにチンギス・カンを「カアン」に引き上げてしまう者もいた。

 『モンゴル秘史』は、遡って一律に「チンギス・カアン」に改めようとしたようだが、第三巻123節、第八巻202節に「テムジンをチンギス・カアンと名付けてカンになさしめた」、「チンギス・カアンにカンの名号を彼処にて与えた」とあり、原形がしっかりのこっている。また第十巻269節は「オゴデイ・カアンをカンに立てた」と記す(そのいっぽうで、第一巻57節は「クトラをカアンに立てた」のままになっている)。かつて岡田英弘が主張した『モンゴル秘史』の1324年完成(改訂)説があながち無稽でないことを示唆する。

 オゴデイの息子Güyük:グユク(疾走・猟犬)は、ドミニコ会修道士サン・カンタンのシモンが1247年頃にローマ教皇インノケンティウス四世に提出した報告書によれば、「Cuyuc Chanクユク・カン」とも、「Gog Chaamゴグ・カアン」とも呼ばれていたらしい。シモンは、モンゴルの地のグユクを『旧約聖書』の「エゼキエル書」の「Magogマゴグの地のGogゴグ」や「ヨハネ黙示録」の悪魔サタンの誑かしにより侵略戦争に乗り出した夷狄の民「ゴグとマゴグ」に結び付け、故意に「ゴグ」と表記した。ヨーロッパにおいて、モンゴルは当該地域でそれ以前に強大だった部族「タタル」を以て呼ばれており、ギリシャ神話の地獄「タルタロス」の民を想起させていたためである。

 しかしグユク自身は、「チンギス・カン」と同様、オグズを意識し、自身の名の綴りと発音に近似するテュルク語を選んで、「Kök-qa’an-qan蒼天キョクカアン・カン」と称していたようだ。じっさい、グルジアで打刻された銀貨には、ペルシア語で「上天の気力ちからうちに、キョク・カアンの福廕によって、臣たるダビド国王」とあった。時代が降るが、ムハンマド・シャバーンカーライーの『系譜総覧』も、グユク・カンの即位式で参加者たちが「キョク・カアンの名号に定めた」と記す。かつて唐の太宗が突厥と連携することによって西北諸藩から奉られた尊号「テングリガン」、さらに遡れば匈奴の「テング孤塗クト(天子)単于」を想起させる。

 1246年、グユクがフランチェスコ会修道士プラーノ・カルピニのジョヴァンニの一行に託したインノケンティウス四世宛ての国書とそこに捺されたウイグル文字の印璽の冒頭には、それぞれテュルク語とモンゴル語で、

 mängü tängri küčinda/ möngke tenggeri-yin küčün- dür

 長生とこしえの天の気力ちからうち

 gür uluγ ulus nung taluï nung/ yeke mongqol ulus-un dalay-in

 [普きあまね大国/イェケ・モンゴルウルス]の四海(海内)

 γan yarlïγïmïz/ qan-u ǰarliq

 皇帝カンわれヤルリク皇帝カンジャルリク

 とあり、統治権に関わる重要な語彙が列挙されている。高麗に送られた国書等から、テムジン、オゴデイの印璽や書式をそのまま踏襲したものだったことがわかる。プラーノ・カルピニのジョヴァンニの一行がラテン語で伝えるところの、ルテニア人の黄金細工職人がグユクのために新調した印璽の刻文は、「上天に神、地上(四海)にユクカン、天の気力ちからうちに、あまね百姓じんみんの皇帝の宝」とのことなので、これとは別物だろう。かれらは、オゴデイのこともカンと表記しており、カアンとカンの区別に留意しない。なお、『ガザンの吉祥なる歴史』の初期系統写本の「聖訓」の冒頭には、この印璽と呼応する「グユク・カンは(強大な自負心・尊大な高慢さをもった)崇高なる天空の君王、壮大なる大海の主君」なる表現が見える。

 グユクの従兄弟で、1208年に誕生したトルイの嫡長子は、モンゴルにとって重要な語彙のひとつであるテュルク語の「長生とこしえ」すなわちMängüメングの名を、おそらく既述のテブテングリのココチュから授けられた。シモン修道士は、この名を「ゴグ」と対になっている「マゴグ」に結びつけた。メングは即位すると、オグズ伝承の世界を越える版図をめざし、「カアン・カン」の前にモンゴル語の「長生とこしえ」を意味するMöngkeモンケを冠した。

 モンケの治世に書かれた『世界を開く者の歴史』や後にモンケの実弟フレグのウルスで編纂されたペルシア語資料は、一貫してグユクをān「カン」としか呼ばず、系図の『(五)分枝』に至っては、フレグ・ウルス(通称:イル・ハン国。ペルシア語資料の表記īl-ḫānに引きずられたものでel-qanエル・カンが正しい)の君主よりも下、諸王と同等の扱いにとどめられている(『ガザンの吉祥なる歴史』には「qānカアン位をグユク・カンに決定した」のうっかりミスの一文があるが)。クビライの大元ウルス治下に於いても「与罕ユクカン」。トルイ家がグユクを正当な「カアン」と認めたくなかったことの反映だろう。

 いずれにせよ、イェケモンゴルウルス全体を統べる宗主だけが「カアン」の称号を使用でき、ジョチ・ウルス(通称:キプチャク・ハン国。Qipčaq草原を支配したqanの国の謂い)やチャガタイ・ウルスの君主はあくまで「カン」であった。したがってモンケの弟のクビライ以降は、「カアン」といえば大元イェケモンゴルウルス全体の当主を指し、ペルシア語資料では大元ウルスを「カアンのウルス」と呼んでいる。そのためか、『バナーカティー史』(1318年)や『(五)分枝』では、オゴデイ・カン、メング・カンの表記も混じるようになってゆく。

 なお、Qubilaiクビライ(「分与」)の名は薬師如来の眷属十二神将の筆頭毘羅ビラ(金毘羅)と似ており、チベット語文献では意図してそのように呼ぶ。かれの子、孫たちは、姻戚のコンギラト駙馬家一門ともども、チベット仏教に基づいた名をもつ者が多く、孫のTemürテムルも1297年の「大元中山府大開元寺重修仏塔記」や1318年「釈迦仏龕記」といった仏教関係の碑において、天侔テム皇帝と音訳されたりしている(前者の碑は、モンケを実名のままにメン皇帝と音訳する)。

 クビライの即位式は末弟Ariq-[böke/böge]アリクブケ(清浄なる[力士/巫祝])との闘争で慌ただしかったためか、「カアン」に冠する称号を公布していなかったようだ。おそらく、モンケから賜わり巷間に浸透してしまっていた「Sečenセチェン」(聡明な――漢語では即位の詔で使用した「憂国愛民」あるいは「[経/報/忠/永]国愛民」に相当――君主)の称号を使用つづけ、皇太子チンキムが実権を握った時、およびクビライ崩御の時――重臣たちに漢語の尊号・おくりなを選定させた時に、再度「セチェン」の称号を確認・発布した。

 いずれにしても、クビライ以降は名前に近似するテュルク語由来の尊号を選ばなくなった(クビライが創製させたパクパ文字ではĞとČを区別できるにもかかわらずĞiŋgis-qanジンギス・カンの表記に統一している)。『ガザンの吉祥なる歴史』の「本紀」、同書第三部の姿を伝えるとされる『(五)分枝』の注記、『大元通制』にのこる聖旨等からすると、次のテムル以降は、在位中に尊号を公布し、それを謚号にも用いたようだ。『バナーカティー史』の著者は、1317年に「バヤントゥ(=ブヤントゥ)」で韻を踏む頌詩を、フレグ・ウルスに来訪した使節団へ託して、アユルバルワダに贈呈している。ただシディバラについては、次のイスンテムルが即位の詔において、歴代カアンを尊号で呼ぶ中で唯一実名を以て呼んでおり、生前の短い治世に尊号を公布していなかった可能性もある。

 この実名以外の尊号は、フレグ・ウルスでも模倣されている。もともと、フレグがモンケ・カアンから征西を命じられた際に、ジョチ・ウルス当主のバトゥ(堅固・強力)の「Sayin-qanサイン・カン(き「済国恵民」の君主)」の向こうを張る「El-qanエル・カン(治平/和善――「輔国安民」の君主)」の呼称を得ていた(漢文資料に見えるフレグとクビライが共に用いていた匈奴以来の肩書「賢王」は「tüsigトゥシグ・カン(支柱・輔国の君主)」の訳だろう)。クビライは中央集権制から連邦制への移行時、ベルケ(モンゴル語:berke艱難/貴重、テュルク語bärgä:鞭。バトゥの弟)とフレグのそれぞれにモンケ時代の称号を追認する金製の漢字四文字の宝印を下賜していた。フレグ~アルグンの治世の金銀貨は「イル・カン」と刻むものが一定割合で確認される。ところが紙幣の導入で知られるイリンチンドルジが令旨ウゲや金銀貨に実名と並べて「[Geyige-tüゲイゲトゥ/Γayiqa’a-tuガイカアトゥ]・カン」(光輝持つ/神威・驚奇持つ)と刻させたのを皮切りに、Ġazan<Ġāzġānガザン(ペルシア語:大釜)は「Γasan-sultanガサン・スルタン」(非凡な聡明さの)、Ḫarbandahハルバンダ(ペルシア語:驢馬牽き)は「Ölğeitü-sultanオルジェイトゥ・スルタン」(吉慶持つ)、アブーサイードは「Ba’atur-qanバアトル・カン」(英雄)の名乗りを好んで使用するようになった。「オルジェイトゥ」なる美称の選定には、誕生時に命名された「オルジェイブカ(吉慶の牛)」も考慮されているのだろう。その幼名は、まもなくTemderテムデルないしMātamdārマータムダールに、それからハルバンダに改められた。ペルシア語の「服喪者」や「[驢馬/愚者]のしもべ」はモンゴルの王子の名としては奇妙に見えるが、邪視の呪いを撃退するためだったという。ついでに言えば、イリンチンドルジの称号は、『ガザンの吉祥なる歴史』や『(五)分枝』ではKYATWと綴るが、フレグ・ウルスの後継のムザッファル朝の『神の賜物』ではQYĠATWとなっている。とうじのウイグル文字からアラビア文字への変換は、こんにちの言語学者・歴史研究者が思うほど厳密・正確ではなかった。

 ところで、マルコ・ポーロの『百万の書』にいう「gran-canグラン・カン」はあくまで「大カン=カアン」である。欧米や日本の研究書・概説書がクビライたちを「大カアン」と呼ぶのは、「カアンたちの中のカアン」になってしまい、本来はおかしい。ただし、アユルバルワダ以降のカアンの権力の低下、空虚化と反比例するかのように、「偉大なるカアン」の謂いで「イェケカアン」が出現し、そのご散見されるようになってゆく(トクテムルの治世の1328年に刊行されたモンゴル語訳『仏説北斗七星延命経』等)。ペルシア語、アラビア語文献にも反映された。

 また、洪武帝をモンゴル語で大明ダイミン皇帝カアンと書さねばならない情勢になった時、甘粛方面にいたナムングレゲン等は、チンギス・カンはもとより自分たちのウルスの創始者チャガタイ主人エジェンの称号も「カアン」に引き上げた。こうした外交文書が『モンゴル秘史』の各称号の修正に影響した可能性もある。

歴代カアンの廟号と謚

歴代カアンの廟号と謚

チンギス・カン家系図

チンギス・カン家系図

  〈余録〉

 2022年3月、高松宮記念ステークスで、モンゴル語名をもつ栗毛の牡馬ナランフレグが勝利した。naranナランは「太陽」の謂い、hülegフレグはチンギス・カンの孫の名Hülegüと同じに聞こえるが、「駿馬」「俊傑」の謂いのkülükクルクが訛ったもので、香港では「天照飛駿」と訳す。その疾走を以ってまさに「天馬」たることを実証したわけだ。ちなみに、チンギス・カンの四嫡子、チンギス・カンを支えたアルラト部のボオルチュ、ジャライル部のムカリ、フウシン部のボロクル、スルドゥス部のチラウンは、ともに「ドルベン駿クルク」と称され、カイシャンの称号にも「クルク」が採用された。

書誌情報
宮紀子《エッセイ》「研究の現場から モンゴル君主の名前と称号」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.4, MN.8.01(2026年7月6日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol04/mongol/essay01/