アジア・マップ Vol.04 | ミャンマー

《エッセイ》ミャンマーと私
知らない人の死と向き合う
タイに住むミャンマーからやってきたシャン人移民たち

岡野英之(近畿大学総合社会学部 准教授)

知らない人の葬儀に初めて参列した。

2年前のことだ。この寺院にバイクで乗り付けたのはその1時間前のことだった。「夕方5時にこの寺に来い」とA氏がいうから、来てみたのだ。この寺は宿からも近いし、よく知っている。シャン人の研究をしているからには、知らないではすまされないような有名な場所である。たしかにA氏もシャン人だ。しかし、それほど信心深くもないA氏がなぜ寺院をアポイントの場所に選んだのかは不思議だった(彼は僧侶だった経験があるとはいえ、あまり仏教の話はしない)。しかし、その理由は寺院に着いて納得がいった。目の前では葬儀の準備が着々と進行していた。まさか葬式の参列とアポイントをぶつけるとは…。

忙しそうに作業をしている人々に声をかけるのも気が引ける。とりあえずA氏が来るまで待つことにした。A氏は外務大臣という立場もあり、忙しく動いている。会う約束を取り付けたものの遅刻してくるのは珍しいことではない(むしろ、会えるだけでもマシである)。ちなみにA氏は外務大臣といえども、政府関係者ではない。彼は武装勢力の文官である。

写真1.タイ北部の町チェンマイにあるこの寺はシャン人の信仰を集めている(2026年3月撮影)。

写真1.タイ北部の町チェンマイにあるこの寺はシャン人の信仰を集めている(2026年3月撮影)。


シャン人とはミャンマーの少数民族である。隣国タイ、その中でもこの町チェンマイには、数多くのシャン人が住んでいる。1990年代以降、チェンマイを含むタイ北部ではミャンマーからやってくるシャン人の移民労働者が増えた。当初はミャンマー側で内戦が激化したことにより、彼らは半ば難民としてタイに流れてきた。そして、生きるために低賃金労働に従事した。その後、彼らが親族や知人を呼び寄せ、さらに彼らが新たな親族や知人を呼び寄せることで移民労働者の流入が定着した。現在でもミャンマーから新たな労働者が流入し続けており、チェンマイには数多くのシャン人労働者が働いている(Amporn 2016; 岡野2025)。

あたりがだんだんと暗くなる中、スマホを見ながら時間を溶かす。もちろん、やってくる参列者をチラ見できるように寺院の入り口が見えるところに陣取った。やがて、やってくる参列者の中に見覚えのある顔を見つけた。ブーンさんだ。数年前、国境地帯での調査の折にお世話になった人物である。以前はバンコクに住んでいたこともあり、標準的なタイ語が流暢だ。コロナ禍を挟んでの久しぶりの再会だった。彼は葬儀の準備で早めに来ているという。挨拶を交わすと、参列者用の弁当と水を手渡してくれた。弁当にはいくつかの種類があり、その中にはガパオライスもあった。葬式で出る弁当にガパオライスとは、なんともタイらしい。会場にはセッティングされたばかりのテーブルとイスが並んでいる。故人を知らない私が、そのイスに腰かけた一人目となった。


会場では何人かの人たちがあわただしく動き回り、葬儀会場が徐々にセッティングされていった。亡くなったのはおじいさんのようだった。遺影として人の良さそうな笑顔の写真が掲げられている。

ちなみに葬儀といっても故人の遺体があるわけではなく、メモリアルなものらしい。こうした葬儀は珍しいものではなく、シャン人の政治家や有名人が亡くなった時には、けっこうな割合で開かれている(本エッセイでは以降も、「葬儀」という用語を用いて話を進める)。

準備は着々と進み、遺影の周りに、いくつかの花輪が立てかけられた。そこには贈り主の名が記されている。いくつかの贈り主から判断すると、亡くなったのはシャン人武装勢力の関係者らしい。贈り主の中にはA氏が属する武装勢力の名もあった(同勢力の「陸上新第一部隊」から贈られたものだ)。そのほかにも、かつて存在していたシャン人武装勢力の司令官の名もあった。その司令官自体は故人だが、花輪にはその司令官の「親族一同」と記されている。無論、花輪の贈り主は武装勢力関係者だけではない。ごく一般的な会社名や個人名も並んでいた。

花輪の贈り主は、タイ語で記されたものもあれば、シャン語で記されたものもある。武装勢力の関係者から贈られた花輪はすべてシャン語で書かれていた。少数民族の言語というのは、内輪で通じる暗号のようなもので、外部の人にとっては読むことができない。運送業者がタイ人であった場合、シャン語で武装勢力の名が書いてあったとしても読めはしない。もちろん、運送業者の中にシャン人労働者がいる可能性もある。ただし、彼らは読めたところで通報したりはしない。なぜならシャン人武装勢力の関係者がチェンマイにいることなど誰もが知っているからである。それに同勢力は本国ミャンマーでは強圧的で評判は悪いものの、それでもなおシャン人の政治的理想を体現しようと活動を続けてきた存在でもある。

写真2.捧げられた花輪たち。シャン語とタイ語で贈り主が書かれている(2024年2月)※プライバシー保護のため一部加工している。

写真2.捧げられた花輪たち。シャン語とタイ語で贈り主が書かれている(2024年2月)
※プライバシー保護のため一部加工している。


ちなみに私が調査で用いているのはタイ語であり、シャン語はカタコトしか話せない。文字もなんとか読める程度だ。シャン語とタイ語は近い。いずれの言語もクラ・ダイ語族のタイ諸語に属しており、シャン人は半年もすれば生活に困らないくらいのタイ語を話すことができるという。シャン人の分布するシャン州は、ミャンマーでもタイとの国境に接したエリアであるし、そもそも数百年レベルで歴史をさかのぼれば、タイ人もシャン人もひとつの系譜に辿ることができる(岡野2025)。このように言語としては近接性があるものの、文字体系が異なるのは前述の通りである。ちなみにA氏と私とは英語でやり取りをしている。A氏は外務大臣という立場でもあるため普段から英語を使っている。タイ語で話しかけても、「お前のタイ語はまどろっこしい」と英語で返される。

A氏は内戦が激しかった1990年代にミャンマーから逃れる形でタイへとやってきた。タイで僧として生活をしている間にタイに亡命してきたシャン人政治活動家やシャン人武装勢力の関係者とつながりを持ち始めた。その後、還俗して自らも解放闘争に身を投じるようになったという。やがて対人能力の高さと英語が話せることから文官となり、外務大臣まで昇進した。彼自身は忙しくあちこちを動き回っているが、家族はチェンマイに住んでいる。

シャン人が大量に押し寄せるようになった1990年代は、もはやひと昔前といってもいいだろう。この頃やってきたシャン人の多くはタイで家庭を持ち、母親や父親になった。その子供たちはタイ語で育ち、タイ社会になじんでいった(朴2022)。その一方でミャンマーからは新たな移民労働者がやってくる。さらにタイではシャン人の武装勢力が事務所を構えるなど政治運動の拠点ともなっている。

私は、こうしたシャン人が辿ってきた移民の歴史ならびに現在の生活を研究している研究者である。毎年、日本で大学の授業がない春休みや夏休みに現地調査を実施している。今回、A氏と連絡を取ったのも、農村地域での調査を終えて、チェンマイでしばらくの間、ゆっくりする時間が取れたからだ。


弁当を食べている間にも、ぞろぞろと参列者がやってきた。その中には何人かの知り合いもいた。かつてインタビューをお願いした方や、シャン人の祭典でお見かけした方もいる(シャン人の祭典については[岡野2022]を参照のこと、A氏との出会いも書いてある)。タイ語はわかるもののシャン語が苦手な私に、わざわざタイ語で話しかけてくれる方もいらっしゃった。

葬儀の流れは次のように進んだ。やってきた参列者はまず弁当を食べながら、三々五々とやってくる他の参列者を待つ。その間に言葉を交わし旧交を温める。人が一通りそろったところで僧侶が現れ、説法をする。そのあと、読経をはじめとした宗教的な儀礼が執り行われる。最初に弁当を出すなど待ち合わせ時間の感覚がユルめの東南アジアらしい。

写真3:調査で訪れたチェンマイにある労働者集落(2024年8月)。シャン人の団体が子供たちを集めてイベントを開いていた。

写真3.集まってきた参列者たち(2024年2月)※プライバシー保護のため一部加工してある。


参列者の方から話を聞くと、亡くなったのはかつてシャン人武装勢力の兵士だった男性で、国境地帯で暮らしていたという。ミャンマー(当時の国名はビルマ)でシャン人が初めて武装蜂起したのは1958年、すなわち、70年ほど前のことである。中央政府に対してシャン人が多数住むシャン州の独立を大義に武装蜂起した(Lintner 1984)。その後、シャン人武装勢力は離合集散を重ね、そのいくつかの勢力はタイ国境に拠点を置いた。そうした拠点周辺にはシャン人兵士たちが家族を住まわせ、タイとかかわりを持ちながら生活の基盤を作った。武装勢力が解散したり、その地を放棄したりした後も、その地に住み続けた者も少なくない。そのため、その家族たちの中にはタイの学校へと通い、タイ人となっていった者も多い。かつては、わいろを払えばタイ国籍は簡単に取得できたし、抜け道はいくらでもあった。例えば、役所に出生届を出すときにタイ国籍を持つ親戚の子として登録する。彼らはそうしてタイ人として暮らすようになった(岡野2024)。

故人やその家族もそうしたシャン人の一部だったようだ。参列者の中にヨーロッパ系の男性がいた。こんな場にいるのだから、ジャーナリストか研究者なのだろうと思い声をかけてみると、この方は故人の娘婿であった。タイ人の妻とヨーロッパで生活しているという。妻とはタイで暮らしていた時に出会ったそうだ。父が亡くなったと妻がいうからヨーロッパから駆け付けたらしい。彼は妻がタイ人であること以上のルーツは知らず、この日まで妻がシャン人に出自を持つとは知らなかった。

むろん、彼が例外的に鈍感なわけではない。おそらく、この老兵の子供たちは大人になるとチェンマイで働き始めたのだろう。農村部から都市に移り住んで仕事を見つけ、生活が安定すると老いた父母を呼び寄せて共に暮らす。タイに住む多くの人々がごく一般的にすることである。シャン人の中でも国籍を得た者たちも同じことをした。チェンマイのような都市に住んでしまえば、その生活は一般的なタイ人と変わらない。


A氏が現れたのは参列者もかなりそろった頃であった。運転手付きの車で寺に乗り付けてきた。指定した時間から1時間ほど遅れての到着だったが、本人は悪びれる様子もない。何人かの参列者と言葉を交わした後、私のいるテーブルに来て、おもむろに同行していた若い男性を紹介した。

「彼は我々の情報担当官だ。英語がわかるからお前とも話せるはずだ」

という。情報担当官として紹介された男性は20代後半から30代前半くらいの顔つきだった。タイ語で話しかけたが、タイ語はできないらしい。前述のようにタイに住むシャン人はたいていの場合、タイ語がわかるのだが、彼は全くわからないといった様子だ。英語は流暢である。名をウェンファ(仮名)といった。私と同じ大学教員の経歴があるらしい。ミャンマーの国立大学でビルマ文学を教えていたという。そもそもシャン人武装勢力は、ビルマ人を主体とする中央政府に対峙している。そのシャン人武装勢力の情報担当官が国立大学の教員としての経歴を持っており、ビルマ文学を教えていたとはどういうことだろう。気になることだらけだ。

まもなく、A氏の到着を待ったように僧侶がやってきて宗教的な儀礼が始まった(たぶん、本当にA氏を待っていたんだろう)。儀礼が終わると、A氏は武装勢力代表としてスピーチをした。シャン語でなされたそのスピーチの内容がわからないのは研究者として不徳の致すところである。とはいえ、A氏の姿を見ていると日本と同じだなと思わせる。同じ会社で働いた後輩が亡き上司の思い出を語る。そんな光景は日本でも変わりないはずだ。

写真4.三々五々集まってきた参列者たち(2024年2月)※プライバシー保護のため一部加工してある。

写真4.葬儀の様子(2024年2月)※プライバシー保護のため一部加工してある。


葬儀は終わると私は、先ほどの男性ウェンファに「また改めて話を聞かせてもらえませんか」と尋ねた。
彼は快諾してくれた。

※  ※  ※

彼へのインタビューをしたのは、葬儀の3日後だった。アポの日の朝、スマホで連絡をするとチェンマイ市内にある武装勢力の事務所に来いという。バイクでその事務所まで彼をピックアップしに行き、近くのカフェで話を聞いた。ウェンファは、一週間ほど前にチェンマイに来たばかりだという。住むところもなく事務所に身を寄せているとのことだった。改めてカフェで話を聞くと、彼は職を追われた大学教員であった。

ウェンファはシャン人であるものの、都会で育ち、ビルマ語(ミャンマーの公用語)でなされる公教育をきちんと受けた。シャン人でも農村に住む貧しい人の中には学校教育を十分に受けられず、その結果としてビルマ語がうまくしゃべれない人が少なくない。その一方で、ウェンファは都会で育ち、家柄もよかった。高い教育も受けた。高校の頃にはビルマ文学に関心を覚え、大学ではビルマ文学を学んだという。

ウェンファはその後大学院に進学し、大学教員になった。修士課程の研究テーマはビルマ人王朝における文学作品がいかに中国文学からの影響を受けているのか、である。修士号を取得した後は大学で教壇に立った。もちろん教えるのはビルマ文学である。ウェンファはシャン人といえども、一義的にはビルマ語の世界に身を置いていたといえよう。

そんな彼の生活は2021年に起きたクーデターによって一変した。指名手配されたのである。この年の2月、ミャンマー国軍が武力を用いて政権を掌握し、新たに軍事政権「国家行政評議会」(State Administration Council: SAC)を成立させた。それに対して市民は様々な方法で反対の意を表明した。とりわけ、教員を含む公務員たちは市民不服従運動(Civil Disobedience Movement)に参加した。CDMという略称で知られるこの運動は、いわば公務員たちのストライキである。出勤しないことで軍事政権SACに対する反対を表明した。しかし、SAC側はその参加者に対して仕事に戻らなければ停職処分にし、さらには指名手配をするという強硬手段に出た。SACへの反対を貫いた人々は、逃亡生活を余儀なくされた。その中には武装勢力の支配地域に身を寄せたり、隣国タイへと逃げたりした者も少なくない(ナンミャケーカイン2024)。

こうしたCDM参加者に関しては、取材のしやすさから少数民族カレン人を主体とする武装勢力の支配地域へと逃げた者に注目が集まりがちである。しかし、実際には、さまざまな武装勢力へと人が流れたようだ。とりわけ、少数民族出身者には、親戚や知人の中に武装勢力の関係者がいることは珍しくない。彼らはそんなコネを利用して安全な場所に逃げ込んだ。

ウェンファも例外ではない。追われる身となった彼はシャン人武装勢力へと助けを求めた。彼がシャン人武装勢力とつながったのは、彼らが主催した公聴会を通してであった。同勢力は2011年にミャンマー政府と停戦合意を結んだ。その合意は政治的解決に向けての対話のために結ばれたもので、武器の所有や支配地域の維持を継続することが認められた。この合意により、武装勢力関係者が政府の支配地域へと合法的に立ち入れるようになった。彼らは政府の支配地域に住むシャン人と対話をし、自らの存在をアピールすることになった。公聴会はそんな活動の一環として開かれたものである。ウェンファは、そこで武装勢力からやってきた者と連絡先を交換したという。

クーデター後、その連絡先が活きた。追われる身になった後、彼はその人物に連絡をし、政府支配地域内にある武装勢力の連絡事務所にかくまってもらったという。同勢力が組織的に保護したというよりも、一人の人物に個人的に頼んで身を寄せたらしい。ウェンファにとって同勢力の事務所から出ることは危険である。妻や生まれたばかりの子供を残してこの事務所に閉じこもった。この事務所は停戦合意後、同勢力とミャンマー政府とが連絡を取るために置かれたもので、政府の支配地域内にある。外出できない中で暇をつぶすように、情報収集を手伝ったり、事務作業に従事したりした。そうして過ごしている時、彼のことが同勢力の最高指導者の耳に入った。その最高指導者が「そんなやつがいるなら、チェンマイに連れてきてやれ」と命じたことで彼はタイにやってくることになった。どうも彼が集めた情報が優秀だったらしい。報道からの情報と各地の知りあいからの情報を組み合わせた現状分析が秀逸だったそうだ。A氏が彼のことを情報担当官と呼んだ背景にはこうした事情があったのである。

※  ※  ※

葬儀から2年がたった。最近、A氏には連絡をしても返信が来ない。彼の勢力は強制徴兵や税金の強制徴収など悪い評判がたくさんある。さらにクーデター後、同勢力の評判はさらに下がった。2021年クーデター後、武装勢力の中には軍事政権SACの正当性を認めず停戦合意から離脱したものも少なくない。しかし、このシャン人勢力はSACとの関係を保ち続けた。クーデター前にはタイに住むシャン人移民の中にはこの勢力を応援する人々も少なくなかったが、2021年クーデターの後は、そうした声もめっきり減ってしまった(岡野2024)。そんな中で外国人の研究者と会うのは気まずいとA氏が思っているのかもしれないし、単に私の相手をするのを飽きただけかもしれない。

その一方、その後、私はウェンファと親しくなり、家にも招かれるようになった。次の年にチェンマイを訪ねた頃にはミャンマーにいた妻と子供を呼び寄せ、一軒家を借りていた。夫婦の会話は、ビルマ語とシャン語のちゃんぽんである。彼やその妻は会うたびにタイ語が上手になっていった。ウェンファは、シャン人武装勢力とは関わりを持ち続けており、依頼に応じて情報収集などといった仕事をしているものの「別に解放闘争に参加したいわけではない」という。


ミャンマーからやってくるシャン人たち。その内実は多様である。一つの葬儀からもその多様さが見て取れる。シャン人はそれぞれの時代にそれぞれの都合によってタイへとやってきた。亡くなった老人は、かつてシャン人武装勢力の一員として戦った人物だという。その娘はチェンマイでタイ人と変わらぬ生活をし、外国人と知り合い、結婚した。私と同じように故人を知らないまま、たまたま葬儀に参列したウェンファは、ビルマ人社会で生きてきたものの、突然、シャン人の解放闘争の世界に投げ込まれ、その流れに任せてチェンマイに流れ着いた。シャン人の移動の歴史は長い。彼らの国境を越えた移動が連綿と紡がれた結果として、人々は寺院に集まり、一人の故人を見送った。そんな場に私は居合わせたわけである。知らない人の死と向き合うことは、その人を取り巻いてきた人びとの生の軌跡と向き合うことでもあった。


[参考文献]
岡野英之 (2022)「人脈を辿って「紛争空間」を渡り歩く――ミャンマー内戦に巻き込まれた人びとの越境的ネットワーク」栗本英世・村橋勲・伊東未来・中川理 編『かかわりあいの人類学』 大阪大学出版会、129-145頁。
岡野英之 (2024) 「紛争――戦争と平和は明確に分けられるのか」箕曲在弘・二文字屋脩・吉田ゆか子編『東南アジアで学ぶ文化人類学』昭和堂、207-222頁。
岡野英之 (2025) 「ゾミアに引かれた国境線を越える──タイ=ミャンマー国境地帯におけるシャン人移民の歴史的変遷」佐川徹・岡野英之・大澤隆将・池谷和信編『その空間を統治するのはだれか―フロンティア空間の人類学-』ナカニシヤ出版、219-243頁。
朴苑善 (2022)「タイ国北部チェンマイ県におけるタイヤイ移民の主体的な教育の選択:移民第1.5世代および第2世代の高等教育への進学に着目して」『年報タイ研究』 22号、21-38頁。
ナンミャケーカイン(2024)「ミャンマーの市民的不服従運動(CDM)とCDM公務員の実態―2023年タイにおける調査から―」『難民研究ジャーナル』14号、84-93頁。
Amporn Jirattikorn (2016) “The Radio and the Non-Citizen Public Sphere: Exploring the Shan Migrant Public Sphere in the City of Chiang Mai, Thailand.” South East Asia Research, 24 (1): 99-117.
Lintner, Bertil (1984) “The Shans and the Shan State of Burma,” Contemporary Southeast Asia, 5 (4): 403-450.

書誌情報
岡野英之《エッセイ》「ミャンマーと私 知らない人の死と向き合う タイに住むミャンマーからやってきたシャン人移民たち」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.4, MM.2.01(2026年7月1日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol04/myanmar/essay01/