『アジアと日本 ことばの旅』(研究者エッセイ・シリーズ)連載一覧

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第7回 「溜めているか?」(イエメン、アラビア語)

馬場多聞先生のお写真

馬場多聞(立命館大学文学部・教授)

「溜めているか(トゥハッズィン)?」

 イエメンの首都サナアに到着した初日に、これから暮らすこととなる家の門番に言われた一文である。何の話を始めたのかわからず、思わず「何を?」と聞き返した。門番は、自身の膨らんだ頰を指さしながら「カートだよ」と説明してくれた。

写真1

イエメンのサナア旧市街。世界遺産である(筆者撮影)

カートの嗜み

 カートは、イエメンやその対岸のエチオピアで広く生産されている、ニシキギ科の常緑樹の一種である。その摘み立ての葉には、覚醒成分が含まれる。イエメンの人々は、この葉を口の中で嚙みつぶし、出汁を飲んで覚醒成分を摂取することで、高揚感を得る。嚙みつぶした葉については、片側の頰の内側に溜めていく。イエメンについて書かれた文献では、気心の知れた人同士が午後になると集まってカートを嚙みながらおしゃべりに興じることが、イエメンの文化のひとつとして説明されている。しかし、ダッバーブ(乗り合いバス)の運転手や地方からの出稼ぎ労働者と思しき人々、商店主のような自営業者が一人でカートを口に入れている様もしばしば見られ、誰かと集まったりおしゃべりをしたりすること自体はカートを嗜むための必須の条件ではない。

写真2

サナアのカート市場(元青年海外協力隊隊員・相場由夏氏撮影)

 一般には、カートを嗜む一連の動作を、「カートを嚙む」と日本語や英語では表現する。しかし当のイエメンにおいては、「嚙む(マダガ)」という動詞を使うことはなく、「(口に)溜める(ハッザナ)」の語が使われる。そしてその目的語である「カート」が明示されずとも、「溜める」という語だけで「カートを嗜んでいる」という意味となる。

 確かに、カートを楽しんでいる様子を外から見た場合、もっとも特徴的なのは葉を溜めることで丸く膨らんだ頰である。インターネット上で「カート イエメン(qat Yemen)」で画像検索をすると、頰を膨らませた男たちの様子がごまんと出てくるので、ぜひ探してみてほしい。画像を見た人のなかには、「人類の頬はここまで膨らむものなのか」と訝しがる人もいるだろう。この点について、サナアで知り合ったカート嫌いなエジプト人医師は、眉をしかめながら、「カートを溜めすぎて頬の毛細血管がぶち切れてしまっているから、あそこまで膨らむようになっているんだ」と話していた。これが事実かどうかわからないが、カートを嗜むイエメン人の頰をつまんでみると、確かに癖になる柔らかさをしている。

 「溜めているか?」は、「こんにちは(アッサラーム・アライクム)」や「元気か(ケイファ・ハールカ)?」と同じような挨拶の常套句として使われていた。道でばったり出会ったイエメン人同士が「溜めているか?」と言いながら握手をしていたし、筆者自身、知り合いからも知らない人からも、出会い頭にしばしば「溜めているか?」と訊かれたものであった。「溜めているか?」を耳にしない日はなかったかもしれない。

「はい」か「いいえ」か、それが問題だ

 「元気か?」というニュアンスの「溜めているか?」へどう返事をすればいいのか、一時期悩んだ。こちらの状態としては、①元気でありカートを常習している、②元気であるがカートを常習していない、③元気でないがカートを常習している、④元気でないうえにカートを常習していない、の四パターンがあると、紙に場合分けを書いて気づいてしまったためである。筆者はそこまでカートを好きになることはできず、もっぱら②か④の状態で過ごしていた。何も考えずに「はい(アイワ)」と答えた場合、①と認識され、何となく遺憾である。「いいえ(ラー)」と答えたら④と認識されると思うが、そもそも元気でなかったとしても「いいえ」とは答えないもののような気がする。イエメン人の様子を観察していると、特にこの「溜めているか?」に明確な返事をしていなかったり、あるいはお互いにカートを嗜んでいることを前提として(すなわち①を意図して)「はい」と言ったりしているようだった。

 筆者は、一番相手にうける返答は何だろうという余計なことまで加味したうえで、①と思われてもよいという結論に達した結果、「毎日溜めている(ウハッズィン・クッラ・ヤウム)!」と噓をつくに至った。相手は「そうかそうか」と笑顔になっていたので、コミュニケーションを円滑にするためには許される噓であったように思う。

 近年では、カートをめぐり、大量の農薬や水を用いて生産することによる環境への悪影響や、摂取する人の健康被害、依存性の高さ、消費者の家計の圧迫などが、しばしば問題視されている。そのため、カートを好まないイエメン人も、多く見られる。お世話になった研究所の先生がまさにその一例であったが、初めて出会った際に「溜めているか?」と尋ねてこられた。幸いなことに前述のような逡巡がまだ生まれていない頃であったため、純粋な質問文と考えて、素直に「いいえ、好きではありません(ラー・ウヒッブ)」と答えた。すると、「よろしい(タイイブ)」とつぶやきながら頷かれていたことを、今でも覚えている。

 後に、シリアを旅行で訪れた際、現地で出会った人に「溜めているか?」と尋ねてみた。すると、イエメンに到着したばかりの頃の私と同様に、「何を?」と聞き返してきた。「溜めているか?」はどうやらほとんどイエメンの方言であることを、シリアでようやく実感した次第である。

(2025年1月16日)
〈プロフィール〉
馬場 多聞(ばば・たもん)
立命館大学文学部教授。専門は、西アジア史。著書論文に『宮廷食材・ネットワーク・王権:イエメン・ラスール朝と一三世紀の世界』(九州大学出版会、2017年)、『地中海世界の中世史』(共編著、ミネルヴァ書房、2021年)、「イエメン・ラスール朝とラバ:モノをめぐる王権とネットワーク」『イスラームからつなぐ5 権力とネットワーク』(東京大学出版会、2025年)など。